気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

骨髄からのことば

2019-06-10 08:37:29 | 日記

 妙本寺境内で

 

 

 紫陽花を見に鎌倉に行ってきた。
 午前中は友と会い談笑することに使ったため少し遅れてしまい、実質いけたのは妙本寺だけだった。
駅前の混雑とは裏腹にこのお寺はいつ行っても人があまりおらずそういう意味ではほっと息を抜けるところだ。

 ただその前に行ったお寺で誤ってカメラを落としてしまい、軽微ではあったが機能が壊れてしまった。使っていくには支障がないレベルの破損だが、買ったばかりのカメラなので凹み方が尋常ではなかった…しかし気を取り直しその後も撮影を続けた。それにしてもレンズやその他重要部分が壊れなくてよかった。かなり強い衝撃だったはずなのにこの程度の破損で済んだのは、ひとえにニコン技術の優秀さゆえだろうと思う。

 これが外国製カメラであればほぼまちがいなく撮影不能になっていたに違いない。
あのドイツ製カメラのライカは、いろんな動画を見ていると「信奉者」がたくさんいるようだが、はたして同じ衝撃を受けてこの程度の破損で済んだかどうかはわからないと僕は思う。(あくまで僕の推測です)
 欧米の老舗ブランドにあこがれる人は多い。だが、その違いを「本当に」感じ取っている人がその数に比例するほど多いのだろうか…とおもう。これはひとりカメラだけでなく、すべての分野において同じことを感じるのだが。

 妙本寺で写真を撮っていると、アイパッドだろうかその上をペンのようなものでなぞって「絵」をかいている人がいた。
ほぉ―今はそんなことができるのか、と思ってちらっと後ろからのぞいたのだが、なんとその絵が本当の絵と変わらないほど自然で細密なのだ。
本当に技術の進歩ってすごいと思った。

 

 

 

 しかも、その絵がかなり熟達した人の絵で、見事なものだった。
横に奥さんと思しき人が座っていて、奥さんが話しかけるたびに、「ほぉー」とか「ふーん」とか聞いているのか聞いてないのかわからない返事を繰り返しながら作画にいそしんでいた。この年(中年以降)になると、どうゆうわけか日本人は夫婦で一緒に休日を過ごすということをあまりしないことが多いと僕は感じていて、それだけにほほえましかった。

 

 

 

 

 それはそうと、この妙本寺の門前に上の写真のことばが掲げてあった。このお寺は日蓮宗系のお寺なのだろうが、これをよんだときぼくはしばらくその場を動けなかった。なにかぐっと感じるものがあった。これは日蓮が病を患っている太田入道という人へ出した手紙の中にある一文らしい。
 僕は通常、スポ根的なストレートな激励言葉があまり好きではない。だが、どういうわけかこのことばだけは心の中にまっすぐにささってきた。

 左側に小さく書いてある解説には、人は失敗をしてもその失敗から学んでまた立ち上がっていくものだという教訓的な言葉があった。
これ以外にもこの言葉にはいろいろな解釈があるようだし、そのどれが「正当な」解釈かは浅学菲才の身である僕にはわからない。 
 だが、むしろそれゆえにぼくはあえてこれを自分流にとらえた、いや、もしかしたら、日蓮も僕と同じ感覚でこれを書いたのではないかとさえ思う。

 それは人はなにがしかの挫折や失敗によって地に倒れても、かえってその固い地面を踏み台にしてまた立ち上がるものだ、その挫折が困難なものであればあるほどかえって立ち上がりやすくなるものだ、というふうに感じ取った。僕が感じたのは、教訓的なものではなく、もっと原始的な感覚である意気地、激しさである。それがぐっと僕の心に入ってきた。

 これを読んで、いかにも日蓮らしい言葉だと思った。(ただし原語は中国天台宗第六祖妙楽大師)
僕は日蓮という人物について詳しいことは知らないが、ある種の激しさ、熱情、のようなものはこの人物から漠然とイメージしていたからだ。(それが正確かどうかはわからないが)
 今も書いたように、僕はふつうこういうスポ根的な言葉を好まない。ただ、この言葉が日蓮という生涯を送った人物から発せられたという事実が重い、と感じる。
その生涯の骨髄から発せられた言葉だと感じるからだ。

 この言葉がどれほど僕を励ましてくれたか、力を与えてくれたか…
今日はこの言葉をありがたい土産としていただいて帰ってきたようなものである。

  

 妙本寺

 

 

 

コメント
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