なんていうどこかの怪しげなCMのようなタイトルをつけてしまったが、最近とみに何か夢中になれるものを持っていることが人生でいかに大切なことか実感している。
写真を初めて13年ぐらいかな、ようやく今撮ることが楽しくなり始めている。遅いだろ、という声が聞こえてきそうだが、僕の場合どんな分野でもこれが当てはまる。英語もそうだった、好きではあったが楽しくなり始めたのは英語を学び始めてから(中学1年から)19年後だった。なぜ楽しくなったのかというと、長文の英語つまり英語の原書がほぼ辞書なしで理解でき、それを書いている著者の頭の働かせ方というか、肉声というか、そういうものがわかるようになったころからである。
勿論そうなるには壮絶な(笑)英語との格闘があった。とくに日本での受験勉強というのはほんとに無味乾燥でただただ暗記の毎日。それが海外で勉強をする過程で、はじめて頭を使って勉強することを知ってから俄然英語の勉強というのものが楽しくなった。いや英語の勉強だけではなく、物事を学ぶということそのものの楽しみというものを海外で初めて経験することになった。
ある事象の原因を探り、そこに至るまでに流れている論理的な流れを類推し、そこから自分で目星をつけた資料を図書館などで発見できたときのひそかなしかし飛び上がるような喜び。それら複数の資料を使って自分が類推した仮説を第三者に証明するために、客観的かつ論理的に構築・実証していく過程で味わう喜び…たとえるなら、刑事が一つの事件、その背景のなかから犯人と動機を類推し、それを実証するために証拠をみつけ、まるでばらばらのパズルをひとつひとつ合わせてそれらが一分の隙間もなくカチッと合わさって一枚の絵を完成させたときのように、真犯人を追い詰めたときのような喜び、そしてその仕事が第三者(大学であれば一連の教授陣)によって高く評価された時の喜び、こういったものは日本では経験したことがないものだった。
むろん、日本でも修士レベル以上になればこういう過程を経験できるのだろうけど、僕はそんな経験をしたことがないので僕にとっては初めて味わう喜びだったわけだ。
つまりは、英語の習得そのものが目的であったときは苦痛でしかなかったが、英語を道具として使えるようにになってはじめて英語の学習というものが楽しくなったし、そのことが英語そのものの上達をも加速させた。ちょうど野球で言えば、1000本ノックを受けているだけの間は苦痛でしかないが、試合で実際に目の覚めるようなファインプレーを見せたときにはじめて味わった喜びとでもいえるだろうか。
問題は退屈でつらい1000本ノックを最後まで耐え忍ぶほど野球が好きであるか、に尽きるのかもしれない。
僕の中学時代はつらい体育会系の部活をやめた級友を「根性なし」とののしるゲスな輩がいたが、それに耐えられるかどうかは結局それが好きかどうかにかかっている。普通の人間が好きでもないものの極度にきつい練習に耐えられるわけはないし、耐えられるとすればそうしなければならない特別な理由があるか、そうでなければ特殊な(ある意味病的な)M気質の人だろう。
ではなんで写真が最近とみに楽しくなってきたのか?……カメラを道具として使えるようになってきたからか?……僕自身そこまでのレベルになっているとは到底思えない、それは自分でよくわかっている。正直言って正確な理由はわからない。一つだけもしいえるとすれば、それはまだ写真を始めたばかりの、父親から始めてカメラを買ってもらったばかりの子供が写真を撮るように撮れるようになってきたから、というふうには言えるかもしれない。そう、写真を撮っている間は子供のような気持ちになれる。
そしてもう一つ思いつくことがあるとすれば、それはキャノンのEOS Kiss を買って使うようになってから俄然写真を撮ることが楽しくなってきたということ。何をするにしてもそうかもしれないが、やはり自分の気に入った道具を手に入れてそれを使うというのは気持ちのいいものである。
よくユーチューブなどであこがれのライカを手に入れて悦に入った顔をサムネイルにして動画をアップしている人がいて、僕はそれを見るたびに、はいはいわかりました(笑)と思っていたが、いまになるとその人の気持ちがわかってきたし、趣味人として「楽しむ」ことを最優先にするならそういう要素もとても大切だと思う。
それともう一つ重要な要素として、ぼくもようやく(本当にようやく〈笑〉)画像を加工することの喜びを覚え始めたからということがある。
生の写真をいじって全く別の世界を創造する喜び、そう、『創造の喜び』というものをぼくもようやく味わえるようになってきたからというのが一番大きいかもしれない。
道具の基本的な使い方をおぼえる段階からその道具を使って自分だけのもの、世界を作り上げられるようになる段階、この後者の段階に至って初めて一つの物事が「楽しくなる」のではないかと思う。大切なことはそこに至るまでにあきらめてやめてしまわないことではないか。なぜならその喜びというものは、ちょっと言葉ではたとえようがないほど大きく、深いものだからだ。少し大げさかもしれないが、この宇宙を創造_CREATE_した神の喜びに似たものを体験できるのだからだ。
継続は力なり、とよく言うが、僕はそれを「継続は至福への道なり」というどこかの宗教の勧誘フレーズのようになってしまうが、ほんとうにある段階を突破すると今まではきつい上り坂だったものが、急に視界が開けて美しい広大な田園風景が眼前に広がって見えるようなそんな幸福な世界があるということをこのごろ感じ始めている。
夢中になれることを見つけたらそれをはなさずあきらめず追い求めてくださいというようなことを言ったのは、写真家の星野道夫さんだったが、職業であろうが趣味であろうが、とにかく夢中になれることをみつけてその道をずっと歩き続けること……『とりわけこの世では』それがほんとうに大切なことではないかと心の底から思う。