
Maria Rosa Mystica
気がつけば今月も月半ばを過ぎました。
5月はくすしき薔薇のマリアの月。薔薇の月。
南国は四月の半ばから薔薇が咲き始めます。
あちこにの庭先や野原で見事なアンティックローズや
可憐な野ばら達がいい香りを漂わせています。
私は特定の宗教は持たないけれど、キリスト教と仏教は
結構長く学んだりもしているから身近です。
宗教学が好きだから抵抗感もあまりありません。
特にマリア様と観音様が好きです。
観音様は老若男女、いろんな姿に身を変えて人の前に現れ
親になったり、子になったり、いい人だけでなく、悪人になったり
時には自分の身を悪に落としたり、その貞操を捧げてまで相手を導き、救うのです。
マリア様は従順の人。
この世では考えられないような重荷をただ一言
「はい。仰せのままになるように」と受け止めて努力されます。
痛みも苦しみも受け止められます。
だから、好き。その哀しい強さが優しくて好き、だな(ひとり納得)
薔薇の刺は人の持つ苦しみ、薔薇の赤はその苦しみに流した血を意味し、
マリア様に薔薇を捧げるとその手に真っ赤な薔薇を抱いた瞬間に真っ白になり刺も消える。
同じような意味で真珠も好き。宝石では真珠が一番好き。(母もそうでした)
私が真珠が好きな理由は、自分に付けられた傷を体液(流れる血)で抱きしめて、
その痛みをいつしか宝石に変えるから、デス。
真珠はマリア様に捧げられた宝石でもあります。
そんな逸話が私は大好きです。
薔薇になりたい。真珠になりたい。と想うのです。
いつかマリア様に抱かれる薔薇の花に。
その身を飾る真珠のひとつぶに。

《女性はもとより、男性の中にも、マリア様のような母性が溢れているものと感じます》
《カンナちゃんの腕枕で眠るピピちゃん。まるで聖母子のようです(*^_^*)》
マリア様の薔薇の月。5月の初め、必ずそう思います。
( ´ー`)フゥー...今年は小さな薔薇を植えようかなぁ。
そんな気持ちになりました。

《ホント気持ちの良い季節になりましたねー》
それにしてもヤバい…( ̄▽ ̄;)
………何がって?………
すっかり月一更新になってしまっていますー(T_T)
書きたいことはいっぱいあるんです。ですけど…。
多すぎて文章にすると長くなりすぎちゃって…。
本当に一体なんなんでしょうね??(人に聞くなよっ・笑)


《このこら、ホント和むわ…》
うーん、相方さんが天国移住してそろそろ2年半、こっちに移住してもうすぐ2年です。
時が経つのは本当に早いなぁ、と思います。
でも自分は相変わらず同じような場所でポツンと立ち止まってます。
できるだけ人とかかわらず、静かに時の流れにいます。
「どうしようもなく」で
そして
「あえて」デス。
まあ、そんな私に世間のご意見はいろいろあるでしょうね。
そんなんじゃいかんぜよ、とか、それでいいんちゃうのん?とか。
何してんだって一言で言えば、悲しみというか寂しさというか
そういうのんは早々に失くならないって思ってるってコト、かなぁ…。
11年前、ソウルメイトの鎧ちゃんが亡くなった時、
私は本当にめっちゃ忙しくて、泣いてる暇がなかったし
どっぷり落ち込んでる暇も、悲しんでる暇もなかったんですよ。
これじゃいかん、ここでは思い出多すぎて暮らせない、と思って行った北海道でも
最初でこそ、一人で森や草原に好きなだけ潜んでいられたのだけど
知らない間に周りから何かしないといけない人にされちゃっておりました。
もう言われたら断れない性格だから、そこからもう、ずっと忙しくしてて。
まあね、自分のせいなのですが、そこはね( ̄▽ ̄;)
それから2年とそう時間が経たないうちに、相方さんと真剣に生きることになったから、
そういう忙しさは更に加速して。泣かない日々はどんどん過ぎて言って。
11年前をほとんど消化しないうちに、2年半前を体験することになったんです。
それでも、東京にいるときはまだいろんなしがらみが隣にあったから
なんとか杖をついて立ち上がって、笑いに隠れて生きてたんですよね。
人間て、しんどい時って、本当に苦しくて辛くて誰にも話せない時って笑うんだなぁ、って。
でも南国に戻り、ふと我に返り、ソレをできる限りやめました。
ひとり自然の中にポツンとたってみたら、妙に、妙に悲しかったからです。
やたらと悲しくて、寂しかったからです。
なんだろねー。もう、悲しみ尽くしてやれ、というか。
さみしいで、いいじゃないか、みたいな。
誰にも合わなくてもいいじゃないか。
会いたくなれば合えばいいよ、って。
普通になる必要があるのかな?と。
ずっと痛い。だけど、ただ痛いだけじゃない、というか。
痛みをなぞってると、もっともっと、生きてきた日々がわかる。
もっともっと、愛してきたものが、わかる。
なんかうまく言えないけど、愛する人との初めてと似てる時間。
それでいいんじゃない。かな、と。
そんな立ち位置のまいにち、デス。

《時々、海や山に行きます。誰も知らない、秘密の場所。松林を抜けて…》

《秘密の道。木々のトンネルをくぐって…丘を登って…》

《ほら、見えてきた!》

《砂を駆け下りて、あとは空間にココロごとダイブするだけ》
最近、変わってきたなぁと思えることは、
ちょっとだけ「恋愛」的なモノを受け入れられるようになったことかな?
実は私は「恋愛モノ」が何より苦手です。特にラブシーンがダメ。
実生活でもそう言った感覚は苦手だったけれど、
恋愛ドラマとか、恋愛ばっかり歌ったポップスとか、へんな嫌悪感があって
とにかくそういうのは見る気も、聞く気もしなくって、全く触れずにいました。
脚本書いてても、ほとんど恋愛ものは書かなかったし、
書いても精神性の高いものか、重い重い話で。
プロデュースした作品もとにかく家族とか友情とかって愛がメインで、
いわゆるラブシーンがほっとんどないっていうね( ̄▽ ̄;)
いや、全くできない、読めない、というわけじゃないんですよ。
ちゃんと仕事では、激しい恋愛ものもやってきたしさ。
書くのもね、精神面含む、ドロドロの人間感情劇ならいけるんですよ、恋愛も。
なんだ?ホレ、その、一般的にみなさんが求める恋愛感情?
「イチャイチャ」とか「ラブラブエロス」な感じがダメなんだよねぇ。
うん、ほーんとダメだったんだよねぇ。
そういう肉感的なとこ、本気の愛の部分ってのはさ、
なんか晒すもんじゃないだろ、みたいな意識があってだねぇ。
だって「まっさら」になる部分じゃん?とか思ってて。
でも、最近、若い方の音楽をきっかけにですねー、
少しずつそういう歌も聞けるようになってきて。
なんだか、それとともに、そういうシーンとかも、まあ耐えられるようになり(笑)
そんな愛の形も嫌悪感なく真正面から受け止められつつなってきたようでアリマスよ。
それはなぜなんだ、っていうと、過去を振り返った時に、
自分の人生の中にも、そんな愛の営みやら毎日が確かにあって、
それがものすごく大切で尊いものだったと感じられたからかもしれません。
最近ね、お友達が趣味で執筆されている、小さな愛の小説を読む機会があるのです。
恋愛がテーマの宝石のようなお話の数々は、「恋愛」っていうのは人にとって、
一番身近な「愛の姿」だったんだな、と改めて教えてくれる気がします。
誰かが誰かをただ好き、とか、だから誰かを欲しくなる、とかって
そういうふうに愛を表現してる文章や音楽も素晴らしいものだなぁ、と。
以前にもまして、そういう文章や音楽を書ける方にも尊敬の気持ちを深く持てるようになりました
毎日毎日、日々の仕事や育児の合間に、愛の文章を綴る…。
なんと言うか、文章書くって、すごいことだと思うんだな、私。
それってその人そのものが、愛に溢れているって事なんだなぁ、って素直に感じます。
なんか、人生生きてきて、今やっと、心からそんな風に思えるようになりました。
こんなふうに過ごす日々の中で、そんなあたたかい時間をいただいて感謝しています。
素敵なお話をありがとう!Rさん!
人生って、いろんなことがあるし、相方さん共々業界に居たから
公にいちゃつくことなんて全く許されなかったし、
お互い仕事を共にしていたから、日常も仕事に生きるタイプだったし、
性的な意味での愛の流れっているのに関しては経験と思いがいろいろありすぎて、
私は今ひとつ、そういう愛の形を美しいと思い切れずにきたのですが
実生活でそういう流れがなくなって、遠くから眺めてみて、
過去のそういう思いもまた美しいものだったなと思えるようになったわけですね。
生きてるうちに、ちょっとでもそうなって良かったなぁと(笑)
そういう世界に没頭してる人も、まあいいんじゃない、って寛大になったww
とは言え、まだまだ聞けるようになったよー、見られるようになったよーってだけですが。
でも、これでね、一曲くらいは女性の歌うラブソングもいいなと思って死ねるかもね(笑)
それって、ありがたい事です。はい。

《庭のどくだみを摘んで干しました》
人生は、本当にイロイロありますねぇ。
私の場合、怒涛のようにある様子ですが、それもまた良し、カナ。

《ぴーちゃん、元気でいてね》
今の心配事はぴーちゃんのカラダ。
子宮水腫で手術しないといけなくて。
年齢が年齢だから、心配ではあるのだけれど。
ほっておけば命にも関わるから。
決断の時かな。
ふぅ。
不安ばっかりだけどね、息をつかなければ。
五月の薔薇のマリア様に祈ろう。
とにかく、五月の日々は過ぎてゆきます。