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今日は十五夜、満月です。
まん丸お月さんが綺麗でした。
思わず手を合わせてお祈りしました。
十五夜と十三夜の月は願い事を叶えてくれるらしいですから。
さてー、今日の話題はですね、なんと言うか「自分を表現する」ことについてです。
このブログの読者の方にも、友達にも必ず「あー(笑)」と言われると思うけれど、
アタシはめっちゃ「語り屋」です(笑)
と、いうか、
人間に生まれて、魂を貰い、物を見聞きして、言葉を貰ったのに
あんた、自身を語らずどうするよー?と思って生きています(笑)
うわぁ上から目線、とか~、考えなさ過ぎ~とか
いわれようが思われようが平気です。
だって、語ることに恐れを持ってないから。
そんなこと、気にしてたら話しませんし、話したくて話しているのだもの。
語る、って事は、私にとっては自分の真実の確認のようなもんなんです。
つまり、自分が大事にしてるものを信じているのかを確認する作業、ですかねー。
でも、語るって行為を勘違いして欲しくないなあと思う。
自分の思いを語ることは決してそうでないものへの否定とかではありません。
批評でも批判でもありません。
語っているのはあくまでも「私のあり方」です。
またこれ、単なる主張でもありません。
日本人の多くの人は私にこういいます。
「不特定多数の場であまり言葉を発さないほうが良いわよ」
「周りから何か言われるかもしれない」エトセトラ、エトセトラ。
いつも聞きながら、思います。
どうして周りからいろいろ言われるのが嫌なのサ?と。
だって、自分も思うんだもん、相手も思うことはあるよねぇ?
違えば、私の考えは違うといえば良いのじゃないのかい?
どして、それが最初から否定って事になっちゃうんだい?
「私は違う」は「あんたは間違ってる」て意味じゃないんですけど~?
主張って「アタシ以外を否定する」って意味じゃないよねぇ?
なあんて感じでね、思うんですな(笑)
でも外国人の友人からはそういう言葉は聞いたことありません。
どっちかちゅうと私と近い感覚でしたから。
私は、「私は目覚めています」と言う言葉が好きなんです。
私が、私自身、目が覚めていることを知っている言葉だからです。
そして私はいつも目が覚めている状態でいたいし、
目覚めた自分を使いたいと思ってます。
私の周りには目覚めていて自分の言葉を語る人が多いです。
そして、自分の言葉をカタルと言うことはどういうことか善く知っていて
恵まれていることに私の周りには相手の話す言葉を聞ける人が多いです。
つまり、自分と人は違う、違う人同士が一つの世界を作っている、
なので、自分があるように相手の世界も受け入れる、と言う姿勢です。
自分はそれは出来ないし、あえて容認もしないけれども、
相手はそれでよしとするって事ですね。
なので、私が特に親しい人たちは、全然種類の違う人種だと思いますし、
それぞれが素晴らしく個性的ですが、ご縁が切れたことがありません。
うーん、違うなぁ、と思ってもだからって嫌いになりません。
好きとか嫌いの根本は「同じ」って事じゃないからです。
あ、いえ、もちろんね、同じ感覚って愛し方もありますよ。
同種意識も高いです。だってねぇ、同じ感覚の人いると嬉しいですよね。
でも、だからって他を認めないのは自分は違う気がするんです。
同じ意識の人で作るものの素晴らしさもあり、また他もあり、って感じです。
そんな感じで親しい人とは最初から違いを認め、
そこを含めて愛しているので、自分が納得できないことをしていようが、
人間的な付き合いは替わらないからです。
だから、ある意味、普通の友情より、深いところで繋がってるといえましょう。
当然ですが、この感覚で行くと、
自分と他者との違いを批判とか批評とか、
一緒じゃないから嫌~と感じる人は
自然とご自分から去っていかれます。
とても残念ですが、追いません。
私も友も、基本的に「来るもの拒まず、去るもの追わず」です。
なんで、こんなことを話すのかって言うと、
自分を造っているものにひたすら興味があるからですかね。
決して自分の見たくれや行動がすきではありませんが
自分でしか自分の人生動かせないから、そんな自分を生かすことを考えます。
ええ、自己愛のかたまりですから、私は(笑)
だってぇ、私は私を表現することで仕事しているというか、生きてます。
それ以外にどうやって生きて行けと?
だから、表現する根本の自分を知ることは生きることそのものなんです。
もう知っても知っても未知だから面白いです、自分って。
ただひたすらパイオニア精神で開拓します、自分を。
実は私はある程度の年になるまで、何のお仕事をしていようとも
人間みんな自分を表現する為に生きてると思っていました。
だから、みんな仕事も生活も、自分が選んでやってるんだから
皆、好きなことをしてるんだと思ってたんですよ。
で、ある時にある人がバイト先でこういったんです。
「自分のやりたいことして生きてる人なんて居るのかなぁ?」
。。。。。います、ここに。と、心の中で思う反面、
ええええ、みんな、やりたいことしてるんじゃないの?
と本当にびっくりしたのでした。
ちなみに仕事(本職)でもこれと言って迷ったり、
悩んだことがありません。
なぜなら、これも好きなことをやっているんで困ったりしないんです。
基本的に喜びのうちにすべてが終わる感覚です。
人は私を不幸といいます(笑)いつも大変なので。
だから、私がこういう話をするとおかしがられます。
大変なのに何故そんななの?おかしくない?って。
たぶん、そういう人から見ると精神おかしな人なんでしょね(笑)
正直、何でそうなるの、と思うけど。
別に気にはしません。というか、なんで悩むの?と思ってしまう。
自分の大事な物を大切にしてれば、答えは幾らでもそこにあるじゃん。
そう思うんです。だから悩みたくても、そういうことでは悩めない。
アタシが悩むのは金策と人の絡んだしがらみくらいなんです、ははは。
私はよくここで書きますが、好き、嫌いではなく、
自分が納得しなかったことはしたことがありません。
だからやりたくないと思ってやったことはないんです。
そんな思いをするくらいなら最初からやんない主義貫いてます。
だって私の性格では、そういうやり方からは良いものは決して生まれないと知っているからです。
好きなこと、やれることで生きていく、私はそれが一番上手く行く。
その為に自分が何をしたいのか、何が好きなのか、嫌いなのか、
どうやって行きたいのか、常にビジョンを持ってます。
イメージっていうか、ビジョン的です。
「こんな感じ」…ではなくて「こんなもの」と言うはっきりした感覚かな?
それを自然に持つようにアタシの中身が出来てる見たいです。
だから、これが大事って感覚がすごく具体的にあるんです。
あまり良く知らない物やわからないときは、
迷わずただストレートに直感を信じる。
私の中にあるだろう、自分も知らない自分の感覚を信じます。
それが自分を動かしていると思っているから。
自分の大事にしてる感覚を大事に生きる。
明日、博品館で弟分のポケちゃんがTAP DO!をひきいて公演しますが、
善く以前は仲間内で語り合いました。
それで、善くポケっちやソウルメイトと話していたのは、
身体の奥から湧き上がってくる笑いや悲しみ、
そういう普遍的なものを大事にしたいと言うことでした。
いろんな認識や概念の奥に生まれ持って持っている人間の性みたいな物。
そういう、知らないのにある、って物を持ってるのが人間ではないか?
私たち、地球上に居るものにはそういうものが宿っている気がするんです。
私は本を読むのが好きですが、いろんな小説家やエッセイストさんがおられますよね。
中でも浅田次郎さんの作品がとても好きです。
なぜ、浅田さんの作品がいろいろ映像や舞台になるのか?
ある作家さんとの対話で、こう書かれておりました。
これは浅田さんとお話された桜庭一樹さんの言葉です。
「浅田次郎の小説は、
読者を泣かせるから偉いんじゃない。
涙の理由が、自分でもわからないから、
凄いんだ。」
ああ、私らと同じ感覚のことだな、とその時思いました。
そういうもの、そういうものを大事にしたい。
人にはだから感情があるのだ、と私は思うんですね。
浅田さんの作品はそれがある。
それは人の中に皆ある。
だからどれを読んでも心の中の何かが震えるのでしょう。
だって、ホラ、不思議じゃないですか?
赤ちゃんは何故笑うんでしょう?
赤ちゃんはなぜ泣くんでしょう?
まだ人の心にも揉まれぬ、天に心があるうちに。。。
その種はきっと生まれてくる前から私はあるのだと思う。
「私」というたましいがきっとそれをこの世に連れてくる。
そう思うのです。
だから、私は私のたましいに素直でありたい。
だからこそ、相手も見ることが出来るんだとそう思う。
自分を見られないのに、その向こうに居る人はきっと見えないし、
自分の中にある美を見ない人に美は描けない、そう思う。
浅田次郎さんが桜庭さんとの対談でこうおっしゃっている。
「桜庭さん☆ それでも苦悩がかけるわけですね。
浅田さん☆ だから、核が一個ありゃいい、苦悩の一個が。
(途中省略)
浅田さん☆ 手の中にある美しい砂がね、一日のうちに指からサーッと落ちてしまって
「あっ、今日これしか残ってないよ」と言うような感じ。
だから僕はね、小説家が苦労しなければならないなんて絶対嘘で、
自分の中に残っている美しいものをどれだけ大切にしていけるかだと思うんです。」
とても共感する言葉でした。
ああ、だから私はこの人の本で感動するのだなと思いました。
手のひらの中の砂の一粒をとても大切になさっているからでしょう。
私の手のひらの中の砂の一粒。
それは私が、私の言葉でしゃべり、耳を傾け、
心震わせ、そして、何かにその思いを紡ぐ、
そんな毎日に他ならない様に思うのです。
そして、その小さな砂粒の輝きは
ずっとずっと向こうの、私も知らない、
いつかの私から託された物なのかもしれません。
そんな気がしてならないんです。
私は今、それを大事に握り締めて生きています。
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