もうすぐ春がやってきます。
相方さんの親友さんが作ってくれた、美しい木製のトレーに春を置きました。
立春を迎えたら、ぴーちゃんの為にお雛様を飾ろうと思っています。
さて私のケータイとカメラには相方さんとぴーちゃんの写真がそれこそ何百枚と残ってます。
こんな感じで、日々のひとコマが切り取られています。
これはぴーちゃんをお友達と寝せて、眠らせようと真剣に子守唄を歌っている相方さん。
冗談でなく、まじめに歌っています。
そして同じように相方さんのケータイとカメラにはぴーちゃんの写真が何千枚と残ってます。
その中に写真を取られるのが死ぬほど嫌いな私の写真もたまに隠し撮りされて残ってる…( ゜д゜ ;)
ですが、残念ながら3人で撮った写真は殆どないのです。
なぜならどっちかが必ずぴーちゃんを撮っているからです(*≧∀≦)
唯一、あるホテルで記念写真を撮ってくれるところがありまして
一枚だけ3人が写っている物があります。記念すべき一枚です。
でも、そうやって相手とぴーちゃんの写真を撮りあうことが、
お互いにとって私たちが仲良しである証でもありました。
なんというか、それが我が家なりの幸せのカタチだったのですね。
そして、撮った写真を見せあっては、
「あああ、ぴーちゃん、かわいい~(〃'▽'〃)」と褒め合うのです。
となりに居る被写体のぴーちゃんも引くほどに(笑)
おバカな親っプリでございましたことよ、私たち(;^ω^)
そして写メ交換。毎日10回以上もそんなことしてました。
その写メ交換のあまりの激しさに、一緒に仕事して、
傍で見ていたカンナ嬢も波のように引いてました(゜∀゜ ;)タラー
さらに自宅でも、同じで、常に写真を撮る、
ぴーちゃんを二人の間において、
見つめあっては、可愛い瞬間を教え合い、
「かわいい~~~~」と言いあう。
「子はかすがい」ってホントですね(笑)
誰に知られることもない、自分たちだけの、
自由で気楽に生きられる場所。
それがここ。
私たちが住む「家」なのでした。
そんな家の中でぴーちゃんと二人きりになりました。
日々が過ぎれば過ぎるほど、隣にいた人の存在がない事実が迫ってきます。
最初の頃はまだ病院に居るような気持にもなれましたが
自分が病院に行かなくなるとそうも思えないものです。
なんせ日に3回も行ってたんだもの。
自分でも、そりゃあそうだよなぁ、って思います。
本当に一緒に居るようになってからは毎日毎日、
それこそ一日に10回も20回もメールし合っていたので
彼からのメールが来ないことが寂しくてなりません。
そう思っているうちに、最初の頃は見ることができた
彼の残したメールも写真たちも見られなくなってきました。
見ると「今は居ないんだ」と言う気持ちが湧き上がってくるからです。
寂しさのふちに沈んでしまいそうになります。
たぶん、写真や映像を見れば「生きてるみたい」と思うんだろうけど
「今も生きているような気がする」と思えるのは
きっと傍に居なかった人たちの特権のように思います。
孤独がひしひしと迫ってくるのです。
家族でもいれば常にそこに居た人が居なくなる悲しみを分かち合えるかもしれません。
私の母が元気だったら、きっとそんな寂しさを分かち合ってくれたことでしょう。
一緒に私の気持ちになって、涙してくれたことでしょう。
でも私には今はそういう人は残念ながら居ないのです。
ぴーちゃんを抱いて、ただ寂しさの中に漂うしかありません。
今の私を支えているものは、まぎれもなく、相方さんの愛です。
彼との日々が確かなものであったこと、
彼との愛が真実本物であったとお互いが知っている事が
その大きな彼の愛だけが私の孤独を支えてくれています。
それだけが私を支えるものなのです。
そんな相方さんの深い深い愛に満たされた私でも
一人きりではくじけそうになる時もあります。
でも不思議なことに、負けそうになりそうなそんな時
夢の中にひょっこりと相方さんが出てきてくれて
いつものようにドライブに連れて行ってくれたり、
話をしてくれたりするのです。
昨日は宇宙から地球が自転する様子を見せてくれました。
私は宇宙からこぼれてしまいそうで少し怖かったのですが
「大丈夫」と彼が言ったので、安心しました。
そして、人々がそれぞれの場所で時代を繰り返す様子を見た気がします。
壮大な風景で、地球はなんとも美しい場所でした。
それを見ながら、この惑星で生きていることが嬉しいと思い、
そして人生はほんの一瞬の事なんだなって感じました。
でもとても美しいものだと。
目が覚めて、きっと心が寂しさで小さく小さくなっているので
大きな心で物事を見れば、何が起こっても大丈夫、
安心していいよ、自分はちゃんと見ているから、
俺との絆を信じて生きていればそれでいいんだよ、
って相方さんからのメッセージかなって思いました。
最近、心に迫る様な寂しい事もあったりしたのですが不思議なものです。
孤独だと感じて深く落ち込んでいると、そんな日に限って、
まるで相方さんが力を貸してくれているように、
友達や直接に私を知らない知らない方々までが
あたたかなメッセージを下さるのです。
そしてそのメッセージたちはどれも不思議なことに
私の寂しさをとても感じていますよ、とか、
あなたは彼の愛に囲まれていますね、って
私の求めている愛情をまるで私の心を見てから
それに合わせてかいてくれたようなお手紙なのです。
もうダメになりそうな時、電話をかけてくださったりして
それで、何度も助けられたこともありました。
そういう優しい人様の愛情とメッセージに
私はこれまでの日々、どれだけ救われたことでしょう。
実は今日も朝からそんな日でした。
もう生きていても仕方がないのではないか?と思う様な日でした。
ところが、そう思いがよぎると、メッセージが届くのです。
ああ、もうダメと思うと電話が鳴るのです。
ああ、もう今度こそと思うとメールが鳴りました。
それでも悲しみが深く、耐えられなくなったとき、
傍らで眠るぴーちゃんが後ろ足で私を何度も蹴飛ばしました。
ハッと我に帰りました。
こんなことじゃいけないと思いました。
目の前に置いた本を無造作に開くと、
そこにメッセージがあったのです。
それは一つの実話です。
あるイギリス人の青年がクリスマスイヴの日に
日本の田舎の山道を歩いていると一人のお爺さんと出会います。
お爺さんは青年の前で足をけがしてしまい、
青年はお爺さんをおぶって家まで送ります。
そしてその日、そのお爺さんの家に泊めてもらいます。
クリスマスイヴだったので、青年はお爺さんの家を片づけ
自分の持ち物で家を飾り、料理まで作ります。
そしてクリスマスの意味を話するのです。
「家族の中で一番小さなもの、人に頼らなければ生きていけない幼子。
全能の神がそういう形を取って、自分自身を人間に与えられたというのがクリスマスの意味です。」
するとお爺さんは
「神様が何でもできるなら、なにもわざわざ弱くなったり、
人間に自分をくれてやったりせずに、皆の苦しみを取ってやればいいじゃないか。」
青年はお爺さんの実直な質問に感動を覚えながら
誠実に真剣に考えて答えます。
「実は西洋では家族のない人にとってクリスマスは最も孤独な時です。
僕は今日、とても孤独な気持でこの異国の地を歩いていたけれども
あなたに会えて一緒にクリスマスを祝えます。
それがとっても嬉しいのです。」
そして二人は貧しい家の中で布団を並べて横になります。
小さい頃から歌を歌ってクリスマスを過ごしたと言うと
青年はお爺さんの手を取って、日本語でクリスマスの歌を歌いました。
そしてこういいました。
「お爺さん、僕はきょうとてもさみしい気持ちでいました。
でも、今はお爺さんが共にいてくれる。
こうして手を繋いで僕の歌を聴いてくれている。
隣に居て、一緒に今を生きてくれる人が居る。
自分は孤独じゃないんだということをしみじみと感じます。」
親に死に別れ、妻に死に別れ、子どもはもう帰っても来ず、
一人きりで見捨てられたように思っていたお爺さんは
異国の青年の歌声に親に守られているような気持ちになりました。
だまって歌を聞いていたお爺さんの目から涙があふれました。
薄闇の中に光るおじいさんの涙を見たとき、青年はハッとしました。
これこそ、クリスマスの本当の意味だと打たれるように感じたのです。
神が、人の苦しみやつらさを全て取り去って楽園に置くことをされず、
あるがままの現実の中に人を置かれる、その理由に気がついたのです。
つらい現実の中で、互いに心を温め合うことの尊さを知り、
そこに至る道を示してくれたのが、クリスマスの本当の意味ではないかと。
神が最も弱いものとなって、人と同じ苦しみを背負い
共に歩む、同伴者となったことの理由を理解したのでした。
そして同伴者は傍にいるだけで心をあたたかくしてくれる。
それが人間存在の意味ではないかと、お爺さんとの出会いで感じたのです。
そしてその同伴者は自分がそれを見ぬくまなざしさえ持てば
いつでも出会えるのだと彼は知ったのでした。
静かに感動しながら、ふと相方さんのお父さんが
落ち込んでいる私に「時がたてば」と言ってくれたことを想いました。
そしてめくったページにはこう書いてありました。
天の下では、何事にも定まった時があり
全ての営みには時がある
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある
植えるのに時があり
植えたものを引きぬくのに時がある
殺すのに時があり、癒すのに時がある
くずずのに時があり、建てるのに時がある
泣くのに時があり、ほほ笑むのに時がある
嘆くのに時があり、踊るのに時がある
石を投げ捨てるのに時があり、
石を集めるのに時がある
抱擁するのに時があり、
抱擁をやめるのに時がある
探すのに時があり、失うのに時がある
保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある
引き裂くのに時があり、
縫い合わせるのに時がある
黙っているのに時があり、話をするのに時がある
愛するのに時があり、憎むのに時がある
戦うのに時があり、和睦するのに時がある
神のなさることは、すべて時にかなって美しい
メッセージは天から、人から、言葉から、音楽から、
そしていろいろなものから降ってきます。
メッセージは愛です。
愛するものから降ってきます。
クリスマス・イヴのメッセージ
孤独は愛を知る為にあると孤独な私に教えてくれたメッセージ
クリスマス・イヴ
12月24日は
私の心から愛する人の誕生日です。
《入院中の最後の日々に訪れたある場所の夕ぐれの光の中で PHOTO BY あんじゅ》
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