人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

(初日編)ホセ・クーラ 21年目のオテロ ワロン王立歌劇場 / Jose Cura's Otello at Opéra Royal de Wallonie-Liège

2017-06-17 | ワロン王立歌劇場のオテロ2017



2017年6月16日、ベルギーのリエージュにあるワロン王立歌劇場で、ホセ・クーラ主演のヴェルディのオテロ、初日の舞台が開きました。今回は、劇場のFBに掲載された写真を中心に紹介したいと思います。

何度も繰り返して恐縮ですが、クーラは1997年にトリノでアバド指揮、ベルリンフィルによるオテロでデビューして以来、20年、約300回、オテロを歌い、演じてきました。クーラは現在54歳、長年の経験を積み、円熟期のオテロです。

こちらの写真はクーラのFBに掲載された、初日の舞台の直前、メイク室での様子の自撮り。今回は、顔を黒く塗っていますので、台本通り、肌の黒いムーア人としての演出のようです。
この写真を見ると、やはり髪と髭はかなり白いものの、顔はもともと目が大きくて童顔っぽく、肌の張りもまだまだ若々しいように思えます。
"Getting ready for Otello premier in 15'!"とコメントが添えられて、初日の舞台にむけ、気合十分ですね。





クーラが主演した昨年のザルツブルク復活祭音楽祭2016でもそうでしたが、近年ではオテロを黒く塗らないという演出の傾向があるそうです。これに対してクーラ自身は、オテロのテーマの重要な1つである人種差別を見えなくするものだという懸念をもっているようです。

以前の投稿「オテロに必要なのは“肌の色”だけではない」などで紹介しています。

今回は、これまで紹介したクーラのインタビューなどから、オテロ論、また解釈について抜粋・再掲しながら、初日の舞台の写真を紹介したいと思います。


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Conductor : Paolo Arrivabeni
Director : Stefano Mazzonis di Pralafera
Choirmaster : Pierre Iodice

Otello: José CURA
Desdemona: Cinzia FORTE
Iago: Pierre-Yves PRUVOT
Cassio: Giulio PELLIGRA  Emilia: Alexise YERNA  Lodovico: Roger JOAKIM
Roderigo: Papuna TCHURADZE  Montano: Patrick DELCOUR  An Araldo: Marc TISSONS

Opéra Royal de Wallonie-Liège
2017/6/16,20,22,25,27,29




第1幕、敵に勝ち、嵐を乗り越え帰還したオテロ、第一声「Eslutate」の直前でしょうか?




――2016年ザルツブルクでのインタビューより

Q、メトロポリタン・オペラが歌手の黒塗りを停止して以来、最近オテロについてかなり活発な議論が行われているが・・?


A(クーラ)、オテロは肌の色だけでなく、役柄と一致した声を必要とする。したがって、オペラで白人のキャスティングを回避することは非常に困難だ。
私は良い意図を理解するが、また、その中に「隠れた罠」を見る。
もし黒人だけが黒人の役を演じることができるのなら、白人だけが白人の役を演じられることになる。それでは、黒人俳優は決してハムレットを演じられないのか?リチャードⅢ世は?また…?
この新しい「政治的に正しい流行」は、黒人のプロフェッショナルを従事させない最高の口実を提供している。私に言わせれば、それは、顔を黒くメイクする以上に、人種差別の悪臭を放つ。私の黒人の友人の何人かは、実際にこうした考え方を懸念している。





オテロとデズデモーナの愛の二重唱の場面のようです。




――2012年スロバキアでのインタビューより

Q、オテロに対するアプローチは?


A、まず第一に、私たちは「英雄」について語っているわけでないということへの同意が重要だ。そうではなく、背教者(彼はヴェネツィアでの政治的将来のために、キリスト教を受け入れ、イスラム教徒の信仰を捨てた)であり、内通者(イスラム教徒と戦い、殺すことを受け入れた)であり、臆病者(彼は暴力的に妻を虐待し、殺す)、そしてお金目当ての傭兵、プロの殺人者だ。

私自身はオテロのいずれの側面にも似ていないので、自分をオテロに結びつけることはできない。しかしキャラクターの心理を伝えるために、自分の人生で経験したことのない感情を観察し、研究し、再現する能力を使う必要がある。

Q、オペラの冒頭でオテロは英雄として描かれているが?

「喜べ、私はイスラム教徒を殺した!」と叫ぶ、キリスト教徒に転向したイスラム教徒、私にはあまり英雄的には聞こえないが‥。




クラシックで、色彩豊かな、エキゾチックな雰囲気の舞台。



イアーゴの策略により妻への疑念を深め、復讐を誓う。第2幕の「大理石のような空にかけて誓う」の場面か。


――2013年インタビューより

●オテロを陥れたもの


オテロを陥れたのは、”ハンカチーフ”ではない。
こうした状況下で、オテロにとって、自らが黒人であることの受け入れがたさ。オペラにはないが、シェークスピアの原作で描かれている、オテロがデズデーモナの父親に受け入れられないことによるコンプレックス。デズデモーナの父が娘について言い捨てた言葉、「父親を謀りおおせた女だ、やがては亭主もな」の言葉がきいている。

近年の世界情勢を考慮してか、オペラハウスの字幕で「傲慢な回教徒どもは海中に葬り去った (第1幕冒頭のEsultate )」の部分を訳さない傾向があるが、これはナンセンス。ここの関係にこそ、オテロの性格を理解する鍵がある。

デズデーモナ殺害に至るオテロの崩壊の直接のきっかけは3幕にある。
彼の中では、イスラム教徒を殺すという任務はまだ全て完了していないという理解なのに、ベネチアから召還命令が入り、キプロスの統治をカッシオに譲ることになる。メトの公演を見た人は、私がこの場面で、召還命令の紙をロドヴィーコから受け取ったかと思うと、床にポトンと落として、落ちた紙を蹴り飛ばしたりするのを見ただろう。この時、オテロは、ロドヴィーコというベネチア=クリスチャンを代表する人間に挑戦を突きつけ、無礼を働く。

これが変えようのない決定だと気付いた時、彼の心の中に、“自分は役立たずのニグロに戻ってしまった”という思い込みが生じる。
彼に残ったのは、妻デズデーモナだけだが、その彼女も殺さねばならない。





――2012年インタビューより

Q、オテロの愛情深さと強さの不統一をどうみる?


誰が、強さと威厳は、情熱や感受性と両立しえないというのだろうか?それどころか、この複雑な個性がキャラクターをとても面白くする。
例えば、偉大な指揮官であるオテロが、妻と2人きりの時、戦闘を思い出して恐怖に崩れ落ちる(心的外傷後ストレス障害/PTSDのエピソード)。


Q、なぜオテロはデズデモーナを殺した?

それは長い分析であり、ここはそのための場所ではない。
簡潔にいうならば、一方には、自分が関与してきた残忍性を自身に説明する弁解としての儀式を必要とするオテロがあり、そしてもう一方には、抵抗なしに暴力を受け入れるデズデモナの心理的依存性がある。





――2001年インタビュー

●オテロはハンカチーフの物語ではない


オテロを失われたハンカチーフに関する愛の物語とするならば、それは死ぬ。シェイクスピア、それからヴェルディとボーイトは、はるかに大きな問題を扱っており、物語は彼らの媒体にすぎない。
それは愛、名誉、人種、政治、階級についてだ。





――2016年インタビュー

●オテロの現代的テーマ


この傑作は、今日と非常に関連し、現代的だ。なぜなら、人種差別、外国人嫌悪および難民の問題は、現代のヨーロッパの最も重要な問題だからだ。
これは裏切り、搾取、残酷さ、家庭内暴力や虐待などの重要なテーマについても同様だ。この500年間で何ら変わっていないことを考えさせられる。オテロは今日の人々に、私たちの時代について語っている?


●オテロへの愛

このオペラとの愛は20年間続いている。毎回そのたびに、より多くの発見をする。これは、“真実の愛”というべきものだ。そして決して終わることのない、ネバー・エンディング・ストーリーだ。





Q、真のオテロとは?

●ヴェルディの手紙に学ぶ、「オテロはベルカントではない、メロドラマだ」


オテロが複雑な心理をもつ巨大なキャラクターであることは事実であり、パフォーマーにとっては、オテロは、それを演じる器であるか否かのフィルターとして働く。すなわち、ひとつは、オテロを「ただ」歌うこと(もちろんそれ自体がすでに挑戦)であり、もうひとつは、オテロを「描き出す」ことだ。キャラクターに「なる」(to be)こと――ただ歌うだけではなく――それは現代のオペラがあるべき姿であり、現代オペラのふりをしているある種のスノビズムに陥るべきではない。

ヴェルディに立ち返れば、オテロは「ベルカント」ではない。ヴェルディは「私のオペラはメロドラマだ」“My operas are melodramma”(メロドラマ=人間ドラマというような意味か?)と繰り返し世界に向かって叫んだ。また手紙をつうじて訴えた。
しかし100年以上の後、ヴェルディに関する誤ったドグマの崩壊を恐れる多くの人々は、彼の声を聞こうとしない。今日、ヴェルディに関する多くのことに光があたっている下で、いわゆる音楽学者を自称する者によって50年以上前に作られた誤った教義が、今でも通用しているのは信じられないことだ。

Q、ヴェルディの音楽を正しく解釈するためには?

テキストとフレージング、アクセントに執着すること、そしてドラマを伝えるために声を変形させることを恐れてはならない。私の主張では十分ではない。ヴェルディの手紙を読んでほしい!
そして、ヴェルディの時代から取り巻いてきた「偽ヴェルディ司祭」に耳を傾けることをやめることだ。ヴェルディ自身が、決して彼らに対するたたかいをやめることはなかった。





●2016年――オテロの指揮にあたって

私は、このオテロの私のパートだけではなく、オペラ全体を熟知している。全てのキャストの音符、全ての歌詞と楽器のパートをほとんど暗譜している。少し努力すればデズデモーナのパートも歌うことができる...それは、毎回毎回、より詳細な多くのことを発見しつづけるための作業工程の一部だ。ネバーエンディング・ストーリーだ。

ヴェルディの音楽と手紙を土台においた役柄の解釈、ヴェルディのスコアに対する革命的読解の旅はまだ終わっていない。


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今回の演出は、2011年が初演のようですが、かなり正統派の古典的な舞台のように思われます。その点では、アーティストの歌唱と演技に違和感なく集中できるのではないかと思います。
20年の探求を経てのクーラのオテロ、今回はどのような舞台を見せてくれるのでしょうか。良いコンディションで最後まで無事に出演できることを願っています。
ネットでのライブ放送は6月27日午後8時から(現地時間)の予定です。詳細が発表されたらまた報告します。



*写真はワロン王立歌劇場のFB、クーラのFBからお借りしました。
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