ホセ・クーラは、この4月27日(2019年)、 プッチーニのオペラ「修道女アンジェリカ」(コンサート形式)を指揮する予定になっています。場所はポーランドのルスワビツェという町にあるペンデレツキ音楽センターです。このコンサートの様子は、また後ほど紹介したいと思います。
今回の話題の1つは、この施設に名前を冠しているペンデレツキに関することです。ペンデレツキは、ポーランドの指揮者、作曲家で、現在85歳(2019年4月時点)。クーラが2001年からの3年間、首席客員指揮者を務めたシンフォニア・ヴァルソヴィアの音楽監督、そして現在は芸術監督だそうです。「広島の犠牲者に捧げる哀歌」という作品も発表していて、来日して日本のオケと協力関係にあったこともあるとか。
このペンデレツキは、実はクーラが感銘を受け、影響を受けた作曲家の1人なのだそうです。その後、その作曲家が音楽監督を務めるオーケストラの客員指揮者となれたわけですから、非常にうれしい出会いであり体験だっただろうと思います。
ということで、今回は、このペンデレツキをはじめ、影響を受けた作曲家、重要な音楽的体験、演技と歌唱の関係などについてクーラが語った、2017年アルゼンチンでのインタビューから抜粋して紹介したいと思います。
これまで何回か紹介してきたインタビュー等の内容と、もちろん重なる部分はありますが、ここまで詳しく、自分の音楽体験について触れた話は、私は初めて読みました。例によって、誤訳、直訳、ご容赦ください。
クシシュトフ・ペンデレツキ(ポーランド1933~) 世界文化賞HP
テアトロ・コロンでシェニエを歌うクーラ
≪テアトロ・コロンのアンドレア・シェニエ出演にあたってのインタビューより――2017年12月≫
Q、確かに、ホセ・クーラは非常に優れたテノールだ。舞台演出をするだけでなく、オーケストラの指揮(1996年以来、彼は定期的にオペラ、そしてシンフォニー作品も指揮している)と作曲を行っている。後者は実際に、故郷のロサリオでアーティストになった最初のものだった?
A、私は作曲とオーケストラの指揮に専念していたが、70年代からの軍事独裁政権の時期、そしてその後の80年代の10年間は、指揮者として成功することは非常に困難で、作曲家として成功するなど考えられない時代だった。そのため、私はオペラに行った。
Q、音楽家の家族の出身?
A、そうではない。音楽好きの家族だったが、音楽家ではなかった。私の母はいつも私たちに、偏見を持たずに、非常に良い音楽を聴かせてくれた。それはシナトラであり、ビング・クロスビーであり、ベートーヴェン、ラフマニノフだった。
私は12歳の時にギターを始めた。そしてある時、私の教師が言った。ーー “いいかい、ホセ。君は、この楽器にはあまりに情熱的すぎる。ギターは、ごくまれな場合を除いて、もっと内向的な人々のためのものだ。そして、いつか君は、それを手放すだけでは十分でなく、それをバラバラにしてしまう時が来るだろう”―― 結局、私は、Juan Carlos Zorziとともにオーケストラの指揮を、そしてCarlos CastroとLuis Machadoについて作曲と分析を勉強した。全員がとても優秀な教師だった。
Q、あなたの作曲に主に影響を与えたのは?
A、主として新ロマン主義音楽。1984年に、クシシュトフ・ペンデレツキがテアトロ・コロンで彼の「テ・デウム (Te Deum)」を指揮したのを見て、非常に感銘を受けた。私はコロンの付属高等研究所の合唱団にいた。それは非常に素晴らしい経験だった。
その頃、私はフォークランド戦争の犠牲者のためにレクイエムを書いた。私の世代はマルビナスで戦ったが、私は番号が後の方だったので救われた。「093」、私はそれを昨日のことのように覚えている。
(*注 当時のアルゼンチンは徴兵制があり、1982年に軍事独裁政権がイギリスとの間で始めたフォークランド戦争・マルビナス戦争には、クーラの世代の若者が送り出されたそうです。その頃19歳の学生だったクーラも予備役にいて、番号順に出兵させられることになっていたのですが、幸いクーラの順番が来る前に戦争が終結したということのようです。)
それは平和のためのレクイエムで、2つのコーラスのためのものだ。 私の夢は、和解の象徴として、アルゼンチンとイギリスの2つの合唱団によって演奏されることだった。そのレクイエムは発表されることはなかったが、明らかに80年代のペンデレッキの影響を受けている。そのポーランドの音楽家が原点に回帰していった頃だ。
数年後、私の最初の子どもが生まれた1988年に、昨年初演した「マニフィカト(Magnificat)」を書き、1989年に、キリストの最後の7つの言葉についての「この人を見よ(Ecce Homo)」を書いた。それは今年、初演された。現在、30年間のステージ活動を経て、そしてこれまで多くの音楽を演奏してきた経験をもって、私の音楽は、より演劇的、より即興的、よりドラマティックになっている。 言葉との関係によって。私は、シンフォニックやインストゥルメンタルの音楽を書くことより、言葉にリンクされた音楽の方に夢中になっている。
Q、興味がある作曲家は?
A、私はカタロニアのサルバドール・ブロトンスがとても好きだ。
しかし、最も強烈な音楽的経験の1つは、ベンジャミン・ブリテンのオペラ「ピーター・グライムズ」でのデビューだった。それはショックだった。なぜなら、 私が無意識のうちに自分の音楽の中でやっていた多くのことを発見したからーーそれは言葉に奉仕するための音楽の使い方を裏付けるようだった。
グライムズは私にとって、様々な理由から長い間やれなかった作品だ。それをやりたくて、コヴェント・ガーデン(英ロイヤルオペラハウスのこと)に私が提案した時、彼らは言った――「ああ、でもあなたのアクセントでは・・」。そして私は言った――「ほら、私はスペイン語のアクセントで完璧に英語を話す。あなたが英語のアクセントでイタリア語を話すように」。ラ・ボエームのアリア「冷たい手を」の「che gelida manina」を、「Che gelida maninou」と歌っても、誰も何も言うことはなかった。
結局、ボン・オペラが私にそれを申し出てくれて、そこでの初演は大成功だった。私たちは10回の公演(2017年5月初演)を行い、それらはすべて完売したが、演出も私がやった。そして今度はそれをモンテカルロオペラに持っていく(2018年2月)。
ブリテンのピーター・グライムズの舞台より
Q、舞台演出に進出したきっかけは?
A、それは結果だった。
もし、今から20年後、あるオペラの歴史の研究者が、クーラは何をしたのか、私たちのために何をつくったのか、と問うたとしたら、多分それは、舞台上での演技に対するコミットメント、時には歌唱を危険にさらすことさえしても、すべてキャラクターのために、舞台上のドラマのために、演じるという事実だろう。これは私が公然と認めていることだ。私は、何かを犠牲にしなければならないならば、むしろ音を犠牲にする、と言うことは恥ずかしいと思わない。音の”意図”が犠牲になった場合は、二度と回復しない瞬間が失われる。しかし、もし、より劇的な意味合いを与えることができるなら、それらの音は失われない。
そして、もし人々が、わずか2つか3つの音符が汚れたためにその公演全体を否定するのなら、彼らは、録音ではないライブ公演の原動力について、何も理解していないということだ。オペラ歌手は、”演技もする歌手”ではなく、同じ意味で俳優であり歌手であることを理解しなければならない。私の「姿」はそういうものだと信じている。そうでなければ、”単なる歌手”、または”単なる俳優”だ。 2つのことを共にするのは、自己犠牲と大きな肉体的努力を意味する。
Q、シェニエについては?
A、それはひとつの肖像。シェニエは自分の名声を利用して自分の考えを伝えた。彼は詩人であり、その当時のボブ・ディランだったが、ディランだけがノーベル賞を手に入れ、シェニエはギロチンで亡くなった。第1幕のシェニエのアリアは、抗議の歌=プロテスト・ソングだ。シェニエの誠実さ、一貫性は第3幕で完全に証明されている。なぜなら、彼は革命を支持しているが、革命は、それが対抗したのと非常によく似たものになり始めている。そして彼は、彼が革命を支持したのと同じ勇気で、その行き過ぎを非難する。彼はとても現代的なキャラクターだと思う。そして今日、我々はたくさんのシェニエを必要としている。
(「clarin.com」)
なかなか興味深いインタビューでした。クーラはここでも触れていますし、これまでの記事でも何度か紹介してきたように、少年時代から、指揮者、作曲家を志し、大学でも専門的に学んできました。しかし社会的に困難な時期に生きていくため、家族のために、より収入の得やすいテノールとなり、渡欧を決断し、そこから国際的なキャリアにふみだすことができました。
その結果、テノールとして世界的に有名になったために、指揮の活動に復帰できた時にも、”指揮もするテノール”とか、”有名になったために、余技で指揮をしている”などという見方をされ、それは現在でもあるように思います。
しかし今回のインタビューを読んで、あらためて、クーラ自身の音楽的な志向、アーティストとしての探求と欲求の芯には、一貫して指揮と作曲があったことがよくわかりました。そして歌手がメインとなった期間に、スコアとリブレットを通じてキャラクターとドラマの探求をすすめてきた経験と蓄積が、現在にいたる指揮者、作曲家としての活動を、より豊かに、より深くする関係になっているようです。
また、ペンデレツキに感銘を受け、その影響を受けた曲を書いていたことは、印象的なエピソードです。ペンデレツキは、広島の原爆犠牲者を追悼するレクイエムやアウシュヴィッツの犠牲者に捧げた作品を発表してきたそうです。私はペンデレツキについて詳しく知るわけではありませんが、クーラが共感し、影響を受けたのも、そういう社会的視野と音楽性の両方があるのかもしれません。
以下の文章は、ペンデレツキを紹介した「世界文化賞」のサイトからの抜粋、引用です。
「幼いときにユダヤ人迫害を目の当たりにした体験を持ち、アウシュヴィッツの犠牲者への追悼作『怒りの日』や、ポーランド民主化運動に関連した『ポーランド・レクイエム』などの作品もある。『芸術家はその時代について証言し、語る必要がある』と言う。 ……
72年からは作曲だけでなく、指揮者としても活躍しており、ベルリン・フィルやニューヨーク・フィルなどを指揮、北ドイツ放送交響楽団の首席客演指揮者も務めた。『昔は作曲家は同時に指揮者だった。指揮をすることで、すべての楽器に精通することができ、正確な記譜ができる。作曲、演奏、指揮と、真の音楽家は何でもできなければならない』」
ここで紹介されているペンデレツキの言葉は、アーティストの社会的責任、芸術的多面性など、クーラの信条、芸術的信念と共通点がとても多いように思います。ペンデレツキのいう「真の音楽家」の道、クーラは今後、どこまですすんでいくのでしょうか。