柏倉陣屋跡
※本文章は、山形県山形市の柏倉八幡神社宮司・結城敏雄氏による郷土研究資料を参考にさせていただいています。
柏倉陣屋は、延亨四(1747)年に磐城国棚倉藩(現・福島県南東部)小笠原家が、羽前国山形分領2万石(22ヶ村)を支配するために現在の山形市柏倉地区に建造した。その後、宝暦十三(1763)年七月に所領が下総国佐倉藩(現・千葉県佐倉市)堀田家に加増・移封されて以来、一時幕府領になった時期もあったが、明治四(1871)年の陣屋廃絶まで百余年間、西山形地域は治下46ヶ村の中心地となった。堀田家の時代、出羽国村山郡(現・山形県山形市の一部と大石田町)にあった分領は、堀田家11万石のうち約4万石と規模が大きかった。
柏倉陣屋には、佐倉藩校・成徳書院の分校「北庠(ほくしょう)」も置かれ、そこでは武士のみならず百姓も学ぶことができたという。代官を務めていた田内与七郎成伸は名代官とされ、平清水村(現・山形市平清水)の窯業「平清水焼」の振興に携わったことから、同地に報恩碑が立てられている。
堀田家旧領の一部は、明治二十二(1889)年に村を編成した際に旧領主の名から堀田村と称した(南村山郡。のち蔵王村に改称)。おおむね現在の山形市蔵王地区にあたり、「蔵王堀田」の地名も残っている。
柏倉陣屋は、現在の山形市柏倉の小字「舘」(宿島、塩幸田の一部)周辺に存在した。南北百余間(旧・西部児童館跡地から塩辛田の地蔵様までの約200メートル)、東西六十余間(山形電子の敷地北までの約120メートル)、約三町三反二畝歩の広さ(約3.3ヘクタール)、四方を石垣で囲み、東正面には水堀があった。
陣屋の表門は、旧・西部児童館跡地の南西辺りに東向きにあり、門前は広場になっており「高札場(今でいう掲示板)」と呼ばれていた。表門を入るとすぐ役所が東向きに建っており、様々な行政事務を執っていた。その奥に佐倉藩校分校・北庠があり、北庠の西には中村羽右ヱ門の「郷宿(ごうやど 陣屋への来訪者用の宿泊所)」があった。
陣屋には、大目付、奉行、物書、吟味役、学校都講、蔵方、勘定方、装束方、山方、勝手組、先弓、鉄砲細工、医師、各手代など大体40名以上の役人が出仕していたため、その家族や使用人などを含めると陣屋内にはおよそ7~80名が居住していたことになる。敷地には奉行や代官はじめ各役人の住宅のほか倉庫、馬屋部屋、工作所、鍛冶屋、牢屋など約40棟の建物があったという。
藩政終末期の明治四年の陣屋見取図によると、陣屋敷地は東西方向に長い長方形で、牢屋はその東側端に馬屋部屋と御組長屋に囲まれるようにして建っていた。
陣屋のほぼ中央に宝暦十三(1763)年九月に建造された稲荷社があったが、現存する堀田永久稲荷神社がそれで、陣屋時代から残る唯一の建造物である。堀田家は、宝暦十三年七月に柏倉陣屋に移った直後に稲荷社を建立し、その十年後の安永二(1773)年八月に社格は「正一位」に叙せられた。約百年後の明治四(1871)年の廃藩置県により柏倉陣屋は廃絶し、同年九月には諸施設が全て取払われたが、稲荷社だけは堀田家の所有として残っている。
また、陣屋の南には「割元(大庄屋)」だった中村五兵ヱ屋敷の石垣が残っている。
堀田家は、柏倉地域以外に大石田(現・山形県大石田町)と船町(現・山形市北西部)も支配していた。当時、船町地域は米沢・山形・上山方面から馬で運ばれてくる年貢米の集荷地で、さらに地方特産品の紅花も出荷されるようになり、商業の発展を遂げた。物資は船町から大石田経由で酒田まで最上川で運び、酒田から江戸・大阪に回送された。
羽前国山形藩の藩主は大給松平家(1745~64年)、天領会津藩預かり(1764~67年)、秋元家(1767~1845年)、水野家(1845~70年)と戊辰戦争までたびたび推移するが、どの時代にも、最上川の利権を握る堀田家が勢力を保っていた。
戊辰戦争において柏倉陣屋は倒幕軍に属し、山形藩水野家と同盟して羽前国中山の達磨寺に出兵して、幕府軍の庄内藩と戦った。庄内藩との戦闘は四月に終結した。
下総国の佐倉藩本領は、ペリー来航以降、堀田正睦が外国事務取扱の老中となり、ハリスとの日米修好通商条約締結などで奔走したが、井伊直弼の大老就任にともない、老中を罷免され蟄居した。父・正睦の失脚により家督を譲られた堀田正倫は、慶応四(1868)年の鳥羽伏見合戦後、朝廷から将軍・徳川慶喜の討伐令が下ると、上洛して慶喜の助命と徳川宗家の存続を嘆願した。
このため、藩主不在となった佐倉藩は藩論がまとまらなかったが、家老の平野縫殿が倒幕軍に与して上総国大多喜藩への出兵を決断したため、戊辰戦争後の改易を免れた。
堀田家とゆかりの深い「天台宗七森山明源寺(現・山形市柏倉)」には、堀田相模守正亮、堀田相模守正順の位牌が納められており、中山達暦寺で討死した藩士・安達盛篤の墓もある。また、名代官として有名な田内与七郎成伸の墓も夫婦共々建立されている。
現在、明源寺が管理する共同墓地となっている中林山(なかばすやま)には柏倉陣屋の調練場(ちょうれんば)があり、鉄砲や用兵の訓練が行われていた。
※本文章は、山形県山形市の柏倉八幡神社宮司・結城敏雄氏による郷土研究資料を参考にさせていただいています。
柏倉陣屋は、延亨四(1747)年に磐城国棚倉藩(現・福島県南東部)小笠原家が、羽前国山形分領2万石(22ヶ村)を支配するために現在の山形市柏倉地区に建造した。その後、宝暦十三(1763)年七月に所領が下総国佐倉藩(現・千葉県佐倉市)堀田家に加増・移封されて以来、一時幕府領になった時期もあったが、明治四(1871)年の陣屋廃絶まで百余年間、西山形地域は治下46ヶ村の中心地となった。堀田家の時代、出羽国村山郡(現・山形県山形市の一部と大石田町)にあった分領は、堀田家11万石のうち約4万石と規模が大きかった。
柏倉陣屋には、佐倉藩校・成徳書院の分校「北庠(ほくしょう)」も置かれ、そこでは武士のみならず百姓も学ぶことができたという。代官を務めていた田内与七郎成伸は名代官とされ、平清水村(現・山形市平清水)の窯業「平清水焼」の振興に携わったことから、同地に報恩碑が立てられている。
堀田家旧領の一部は、明治二十二(1889)年に村を編成した際に旧領主の名から堀田村と称した(南村山郡。のち蔵王村に改称)。おおむね現在の山形市蔵王地区にあたり、「蔵王堀田」の地名も残っている。
柏倉陣屋は、現在の山形市柏倉の小字「舘」(宿島、塩幸田の一部)周辺に存在した。南北百余間(旧・西部児童館跡地から塩辛田の地蔵様までの約200メートル)、東西六十余間(山形電子の敷地北までの約120メートル)、約三町三反二畝歩の広さ(約3.3ヘクタール)、四方を石垣で囲み、東正面には水堀があった。
陣屋の表門は、旧・西部児童館跡地の南西辺りに東向きにあり、門前は広場になっており「高札場(今でいう掲示板)」と呼ばれていた。表門を入るとすぐ役所が東向きに建っており、様々な行政事務を執っていた。その奥に佐倉藩校分校・北庠があり、北庠の西には中村羽右ヱ門の「郷宿(ごうやど 陣屋への来訪者用の宿泊所)」があった。
陣屋には、大目付、奉行、物書、吟味役、学校都講、蔵方、勘定方、装束方、山方、勝手組、先弓、鉄砲細工、医師、各手代など大体40名以上の役人が出仕していたため、その家族や使用人などを含めると陣屋内にはおよそ7~80名が居住していたことになる。敷地には奉行や代官はじめ各役人の住宅のほか倉庫、馬屋部屋、工作所、鍛冶屋、牢屋など約40棟の建物があったという。
藩政終末期の明治四年の陣屋見取図によると、陣屋敷地は東西方向に長い長方形で、牢屋はその東側端に馬屋部屋と御組長屋に囲まれるようにして建っていた。
陣屋のほぼ中央に宝暦十三(1763)年九月に建造された稲荷社があったが、現存する堀田永久稲荷神社がそれで、陣屋時代から残る唯一の建造物である。堀田家は、宝暦十三年七月に柏倉陣屋に移った直後に稲荷社を建立し、その十年後の安永二(1773)年八月に社格は「正一位」に叙せられた。約百年後の明治四(1871)年の廃藩置県により柏倉陣屋は廃絶し、同年九月には諸施設が全て取払われたが、稲荷社だけは堀田家の所有として残っている。
また、陣屋の南には「割元(大庄屋)」だった中村五兵ヱ屋敷の石垣が残っている。
堀田家は、柏倉地域以外に大石田(現・山形県大石田町)と船町(現・山形市北西部)も支配していた。当時、船町地域は米沢・山形・上山方面から馬で運ばれてくる年貢米の集荷地で、さらに地方特産品の紅花も出荷されるようになり、商業の発展を遂げた。物資は船町から大石田経由で酒田まで最上川で運び、酒田から江戸・大阪に回送された。
羽前国山形藩の藩主は大給松平家(1745~64年)、天領会津藩預かり(1764~67年)、秋元家(1767~1845年)、水野家(1845~70年)と戊辰戦争までたびたび推移するが、どの時代にも、最上川の利権を握る堀田家が勢力を保っていた。
戊辰戦争において柏倉陣屋は倒幕軍に属し、山形藩水野家と同盟して羽前国中山の達磨寺に出兵して、幕府軍の庄内藩と戦った。庄内藩との戦闘は四月に終結した。
下総国の佐倉藩本領は、ペリー来航以降、堀田正睦が外国事務取扱の老中となり、ハリスとの日米修好通商条約締結などで奔走したが、井伊直弼の大老就任にともない、老中を罷免され蟄居した。父・正睦の失脚により家督を譲られた堀田正倫は、慶応四(1868)年の鳥羽伏見合戦後、朝廷から将軍・徳川慶喜の討伐令が下ると、上洛して慶喜の助命と徳川宗家の存続を嘆願した。
このため、藩主不在となった佐倉藩は藩論がまとまらなかったが、家老の平野縫殿が倒幕軍に与して上総国大多喜藩への出兵を決断したため、戊辰戦争後の改易を免れた。
堀田家とゆかりの深い「天台宗七森山明源寺(現・山形市柏倉)」には、堀田相模守正亮、堀田相模守正順の位牌が納められており、中山達暦寺で討死した藩士・安達盛篤の墓もある。また、名代官として有名な田内与七郎成伸の墓も夫婦共々建立されている。
現在、明源寺が管理する共同墓地となっている中林山(なかばすやま)には柏倉陣屋の調練場(ちょうれんば)があり、鉄砲や用兵の訓練が行われていた。
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