「水は低きに流れ、人は易きに流れる。」
アニメの攻殻機動隊に出てくるセリフで、言いえて妙なので気に入っていた言葉なのだが、これは老子の水の例え話かと思ってきたのだが、どうも違うらしい。
子が高校で孟子の一説を習って紹介してくれたのだが、
人が善であることは、水が低いところへ流れていくのと同じだ。というくだりがある。
人に善ならざる有るなく、水に下らざる有る無し。
この言葉が、ベースになっているんだろうなと思うが、人と水の関係性で言えば、何故、水が低いところへ流れること自体が、人の善があることの根拠になるのか。
いやそんなことがあるはずがない。と言いたい。
人が易きに流れることは、実感であり、水との関係は勿論存在しない。
これは、例えに過ぎないのだが、人の善性への主張が、水が低いところへ流れる性質を持つことを例えとするように確信ができるのか。
孟子の場合、このことに確信があったようだが、20世紀以降の状況を見た、知ればどう考えるだろう。
人の善性と水の関係性は、因果関係ではない。類似性があるかどうかという問題だが、善性というそのものが、何を意味するのか。
人の性質の中に善性と、悪を見るのであれば、両者は並存しているのだろうと思う。ただ、並存という言い方もあっていないのかも知れない。Aから見れば善性だが、Bから見れば悪という存在。そういうものがある。全体主義や、原理主義はこの典型だろう。
この善と悪の両面性を見るならば、何が善であり、悪であるのか。これを分かつところ、これも原理主義に陥りやすいところだが、絶対的なものはないのだろう。立場に相対的な善と悪の理解、これが是であるのか、疑問がある。
公共性から見て、善と悪を分かつことができるのか。これも全体主義の経験の前では、公共性自体が悪となる可能性も否定できない。これも立場に相対的な善でしかない。
絶対的、善と悪の存在を主張することは、それ自身が原理主義の立場になる。
そもそも、善と悪が存在するというこの意味から、善が存在すると言った時に、それが何を意味しているのか。というところから、始めなければならないのだろう。善の存在は、皆が理解しているのだろうが、追いかけると逃げていく、逃げ水のようなものだ。しかも一つとして同じところにとどまろうとしないだろう。
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