絶対ということはない。これが真であれば、「絶対ということはないということ」がある(空集合と似ている)と言える。このことについては、真という前提から絶対と言える。であれば、絶対ということの存在が成立してしまう。
「絶対ということない」ということ、これが絶対のことがあるとは、どういう意味だろう。
絶対の存在の次元が一つ違うのだが、次元を変えた絶対という理念の存在は認めざるを得ない。この理念の存在は肯定しないと絶対という言葉自体が成立しない。
何だか、神の存在証明のようだが、そもそも「絶対ということはない」という命題が誤っているのだろうか。命題が偽であるとすると「絶対ということはある」と言える。
どちらも、絶対の存在を認める結果になってしまった。
直感的には、絶対の存在を認めることは、誤りであるような気がする。
「考える故に我あり」では、考える存在を認めていたが、そもそも考えている事実さえないとすればどうだろう。
高校倫理の授業で習った時には、この質問をしたかったが、絶対の真実として、自明の事実のように先生が言っていたので、何を言われるか分からないので先生の意見は聞けなかった。
彼はなんと答えたのだろう。
思考さえなく、文字列の連続が偶発的に行われているとすれば、我ありと言えるだろうか。文字列の連続あり。文字列に意味あり、意味あるところに人ありだろうか。
文字列に意味ありは、文字列の連続からは因果関係を認めるには足りない。文字列に意味があるかないかは、偶然にすぎないとも言える。 /*4*9sjekg:;.//では意味ありとも言えないのではないか。であれば人ありとも言えない。
映画のマトリックスのようだ。まさに今、文字列だけが続いていくが。
文字列で整列した結果が、正しいと言えるのだろうか。文字化した時点で文字により判断しなくてはいけない。文字にまつわるの病気のような気がしてきた。やはり思考には、最後は直感に頼るところが必要だ。
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