労働は生活するためにあるのであって、労働自体が生活の目的となることはない。
このことは、太古の時代から生活のために労働しているのであって、労働自体を目的とした社会が成立したのは近代以降の価値観による。
なお、労働自体が生活の意味となることは幸せだ。私生活と労働生活が分離せず一体となっている。このような人がどれほどいるだろうか。
貧困であれば、労働自体が私生活そのものとなってしまう。また現代での暴力的なサービス残業も私生活の喪失となってしまう。このような意味でなく、労働と私生活が一致することが理想だろう。
さもなければ、労働と私生活は分離し、互いに充実する生活を選ぶことが懸命だろう。私生活が充実するほどに、金銭、時間を得る労働環境は昨今ますます険しくなっている。現代で個人が私生活と一致した労働を行うことは、とても難しい。
明日は仕事だ。私生活のために働かなくてはならない。労働の中でも、気がつくと時間が進んでいることもある。この時は、充実しているのだろう。
このような時間は、自分で気がつかないうちに、よりよく収奪されているような気もするが。収奪されたことを気にして気持ちよく働かないこともうまくない。
今は、勤労していることに感謝されるのでなく、勤労できることに感謝だろう。もとから勤労感謝の日と言ってもそんな風な意味合いみたいだが。何だかなと思うが。
まあ、あしたも労働しようか。
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