人生の意味が、行為の後についてくる。行為は一つ一つに意味があり、行為の後に意味が付与される。付与される意味は、人が付けるものだ。この意味では、一つの物語がなされることになる。分かりにくければ、解釈がくだされ、それが言葉になる。意味は人がつけるものであって、何か意味を付ける前に意味なるものが存在するわけではない。こういう意味では、意味は実在ではない。一つの語りなのだ。
人生に意味があるとすれば、それは実在ではなく、一つの語りである。人生の意味なるものが、初めから実在するのでなく、その人の人生に対する語り、それが人生の意味になる。私の人生に意味があるのか、ないのか、そういうことを考えても、語る者がいなければ、意味は存在しない。語られる者が有名人であるならば、語る者も多数いるだろう。それぞれに意味を語ることになり、その数だけ意味が存在する。私は有名人ではないので語る者はほとんどいない。私自身が私について語ることになるだろう。それも独白のようなものだ。
他人が私について語る人生の意味など、無意味なものだ。私の独白は、私が聴くことになるのだが、これが私が私の人生についての意味を付与することになるのだろう。
私が人生について、何か意味を付与するとき、そのときは行為について意味を付与するわけだが、まず行為があり、それについて意味を付与していくことになる。人生で何かの意味をなすために、何かをする訳ではない。生きること、それ自体が行為なのであり、目的なのだ。
私は、生というもの自体には、先に言うように意味があるとは思わない。生における行為、これが意味を持つ。私がしたこと、行為とは何らかの意味を有さざるを得ない。人は、過去を見れば必ずそこに意味を照らしだす。照らし出された意味こそが、私の人生の意味となる。
私が、過去を見る時、多くの過去が忘却の彼方にある。忘却した過去は意味を失い、思い出された過去だけが意味を持つ、現在は過去の積み重ねから現在の環境というものがあるので、次々とある行為は過去の積み重ねでもある。そして回想可能な過去が意味を新たに持つことになり、時間は継続していく。
いつかは、私が消滅することは必然のことであり、意味をいつまでも持ち続けることはできない。人生の意味を持つのは、私の人生の間、すなわち行為の間でしかない。この意味で、私の人生の意味は、生きる行為の後に、意味が続いていくものだ。
大きな人生の目的や、生きる目的、生きることの意味というものは、存在しない、そう考えると何か気が楽になるような気がするが、勘違いなのであろうか。私には、人生を何か他人に与えられる、教えてもらうような意味よりも、そのようなものなど初めからないと考える方が平和なように思う。
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