つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

師走の喧騒と、閑静な古代。

2020年12月13日 13時48分41秒 | 日記
     
12月も半ば近くに差し掛かってきた。
今年の師走は新型コロナの影響もあってか、
例年のように浮き立つ雰囲気や追い立てられる気持ちに欠ける気がする。
拙ブログをご覧の皆様は、いかがお過ごしだろうか?

先日、夜分に「津幡町文化会館シグナス」を訪れる機会があり、
ロビーのクリスマスツリーが目に留まった。



薄暗いロビーにあって、カラー豆球を明滅させながら佇んでいる。
ゆっくりとクリスマスツリーを眺めたのはいつ以来か。
しばし、幼い頃に過ごしたクリスマスの情景を思い出しながら鑑賞した。
ツリー近くに、町で出土した発掘品展示が行われているのを見つけ、
改めて、明るい日中に来てみようと思い立つ。
そして、本日再訪してみてたところ、意外にもそこは喧騒の只中にあった。



駐車場は混み合い、正面出入り口から続く長い行列。
「プレミアム商品券」の販売らしい。



館内に設置された販売窓口とは別に、彼方此方(あちこち)で人垣。
会話から推測するに、少々揉めているようだ。
今回は「密を避けよう」と考え、先着順で整理券を配布するルールを採用。
しかし「整理券の配布開始時間」や「配布枚数」が案内されてなかった。
また(役場工事中もあって)販売場所が一ヶ所になり、人が集中した。
こうした要因が混乱を招いたと考えられる。
--- 仕切りは的確が肝心だ。
--- 買う方も穏やかが大切。
次回があるなら、双方教訓として活かして欲しいと思う。

さて、僕は小競り合いを尻目に展示スペースへ。
横幅3~4メートル見当のガラス内に並ぶのは、
「発掘された木製品~よみがえる津幡町の井戸~」
(※以下、赤文字/解説プレートより抜粋編集)



津幡町所在の加茂遺跡・北中条遺跡では多くの木製品が出土。
木製品は通常腐食してしまうが、水漬けで酸欠状態にあると残存する場合がある。
この木製品の木の細胞の中にある水分を特殊な薬品に置き換え、
形と質感を保ったまま、保存することができ、
貴重な歴史遺産を後世に伝えることが可能になった。




上掲画像は、蒸篭組み(せいろぐみ)と呼ばれる方法で組まれた井戸の一部。
切り込みを入れた長方形の板を交互に噛ませて積み上げた構造をしている。
丁寧に加工した横板を複雑に組み合わせることによって強度を高める
高度な技術が用いられていると言える。
(北中条遺跡、平安時代・約1,100年前)




他には、弥生時代の武具「盾」も出土。
全国的にも出土例が少なく、県内では10例ほどが知られるのみ。
約1センチ間隔で穴が開けられていることから皮などを貼って紐で綴じ、
装飾と補強を施したと考えられる。
盾にしては薄手で実用性に乏しく、表面に朱塗りの痕跡があり、
儀礼用の可能性もある。
(北中条遺跡、弥生時代・約1,800年前)


--- とまあ、解説を読みながら眺めていると実に様々な想像が膨らむ。
井戸から水を汲み上げる平安期の庶民。
祭事に朱い盾を持ち、舞い踊る男。
わが町の先達たちは、どんな暮らしを営んでいたのだろうか?
物言わぬ遺物は雄弁に往時を語り、
失われた過去へ誘って(いざなって)くれた。
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不定期イラスト連載 第百六十弾 ~ 陽気な南国の女たち。

2020年12月12日 19時03分18秒 | 手すさびにて候。
       
日本がバブルの臨界へと駆け上がり始め、浮かれた空気の漂う80年代後半。
僕は、名古屋の盛り場「錦三丁目」のクラブ(※)でバイトをしていた。
(※DJがいて踊る方ではない)

陽が傾きネオン輝き出すころ、街には有象無象が全員集合。
スーツ姿の企業戦士、セカンドバッグ片手の成金風、ヤクザ。
人の溢れる通りに店々の「マネージャー」が繰り出し、情報交換が始まる。
最も重要な話題は「ホステス」の動向。
彼女たちは、ある種の個人事業主 --- 趨勢の鍵を握る「接客のプロ」だ。
高待遇に惹かれ、店(チーム)を移籍すれば、お客(ファン)も付いてくる。
上得意を持つホステスが何人いるかで売り上げが大きく違うのだ。

ボディコンシャスな全身シャネラー。
無重力用か?と疑いたくなる大胆なフレアドレス。
スプレーで固め、盛り上げたアップヘアに和服姿。
品種改良された熱帯魚のように、華美で可憐な御姐さん方の間を駆け回り、
お世話する「ボーイ」が僕の仕事だった。

原価の20~50倍に跳ね上がるつまみを運び、
仕入れ値の150~180%増しのウイスキーボトルを差し出し、
アイス・水・おしぼりの補充、灰皿を替え、後片付け。
単純だが、日に何十回転もするそれらを捌くと、クタクタになった。
そんな忙しい仕事が終わったある日、ロッカールームでチーフから声が掛かる。
「おい、ちょっと付き合え。 でらいいトコ、行こまい。」



「イラッサイマセーッ!」
扉を開けた途端、元気で妙なイントネーションの声に迎えられた。
ルクスの低い間接照明に目が慣れてくると、
赤いサテン地のソファに女たちが並んでいるのが分かった。

皆、胸元ギリギリ、膝上20センチの赤いマイクロミニワンピ。
真っ赤なルージュ、マニキュアも赤。
艶やかに濡れたような黒髪。
瞳は、南洋の黒真珠。
南国生まれだから、汗腺が多いのだろうか? 
押し付けられた腕、重ねてきた掌も、しっとりと吸い付く。
褐色の肌からは、熟れたバナナに似た匂いが立ち昇る。
パフュームと体臭が混ざり合い醸された香りに幻惑された僕の脳裏に、
仄暗い密林の奥に咲く食虫花が浮かんだ。

「アナタァ、ヤサシナ💓」
「コンド、ドーハン、オニガイ💓」
「ダイスキィ~💓」
ソファの高い背もたれの向こうでは、ボックス毎に迎撃戦が展開。
どうやら戦況は一方的。
比女性軍特殊部隊の圧勝のようだ。
もちろん僕もあっさりと白旗を掲げ、以降しばらく散財を重ねたのである。



戦後、日本とフィリピンは、早くから芸能面でのつながりがあった。
1960年代から数多くのフィリピンバンドが出稼ぎに来て、
ディスコやクラブで演奏していた。

1970年代、日本に海外旅行ブームが訪れ、比較的近距離のフィリピンは、
オアフ島やグアム島に並ぶ人気の観光地になった。
特に、歓楽の充実するマニラ市は、男共を魅了した。
だが、マルコス政権が独裁を強め治安が悪化し、
買春ツアーへの非難が高まり、ネオン街から日本人が消えた。

1980年代に入り、今度はフィリピン人女性たちが大挙上陸して来る。
日比間で協定が結ばれ、短期(半年)の興行ビザ入国が可能になり、
フィリピン人エンターテイナーを斡旋する興行師が現れ、
列島の津々浦々に「フィリピンパブ」が乱立していった。

「じゃぱゆき」という言葉を見聞きするようになり、
彼女たちは、発展途上国から出稼ぎに来た非道徳的な存在と揶揄(やゆ)された。
確かに、性的な接触を強要されるなど、労働環境には厳しい面があった。
確かに、受給までの流れには、日比双方の裏社会が絡み問題があった。
売春をサービスした店もあったと聞くが、全てに当て嵌まる訳ではない。

中には、客と懇ろ(ねんごろ)になるケースはあっただろう。
枕営業だってあっただろう。
でも、それはフィリピーナの専売特許ではない。
僕のバイト先でも、似た事例は決して珍しくなかった。
色恋にカネと欲が絡んだ騙し合いは、夜の世界の日常茶飯事。
古今東西、盛り場で繰り返される「業(ごう)」や「性(さが)」だ。
僕が知る限り、彼女たちは搾取されるだけの弱者ではない。
「円」を狩りに南シナ海を渡ってきた、陽気で美しく強か(したたか)な戦士だった。

--- あれから30数年が経った今、
フィリピンパブは絶滅の危機に瀕しているという。
2005年、入管法改定により興行ビザの発給基準が厳格化され、
若年女性タレントが来日する時代は終わった。
そして、新型コロナウイルスである。
かつて一大勢力を誇った灯(ともしび)は、風前で揺らいでいる。
コメント (7)
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(今のところ)暖かな師走。

2020年12月06日 22時50分21秒 | 自然
       
このところ、北陸は暖かい日が続いている。
夜こそ一桁の気温になるが、日中は14~5℃まで上がり「冬」と呼ぶには早い。
しかし、次の週末あたりは強い寒気が大陸まで南下する予想。
ようやく雪になるかもしれない。
そろそろタイヤを交換した方がよさそうだ。
--- とは言え、空はまだ秋の様相。



3日ほど前、大西山にて撮影。
一面の「巻雲(けんうん)」だ。
高度10km以上の上層にある雲は「巻」の字がつく。
巻雲は、刷毛(はけ)で伸ばしたような細い雲が散らばった形状。
秋を代表する雲の一つである。
その下では、北陸の冬の風物詩がセット完了。



雪吊りである。
樹木の幹に添えて柱を立て、先端から各枝へ放射状に縄を張るのは、
水分を多く含んだ、北陸特有の重い雪から枝を守るための備え。
ニュース映像などで見かける機会がある金沢「兼六園」のそれだけでなく、
一般家庭に至るまで、広く行われているのだ。
僕たちにとっては、冬の風情を感じる。

そして今朝の空。



やはり前述「上層雲」の一つ「巻積雲(けんせきうん)」だ。
小石のような丸みのある小さな雲塊が群をなし、
魚の鱗(うろこ)のように見える。
「うろこ雲」の名前もおなじみではないだろうか。



その下では、除雪車がスタンバイ。
備えあれば憂いなし、である。
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観た光は、過ぎ去りし時。

2020年12月05日 23時57分28秒 | これは昭和と言えるだろう。
       

「観光」を辞書で引くと、こんな記載がある。

<他の国や地方の風景・史跡・風物などを見物すること>
<娯楽や保養のため余暇時間に日常生活圏を離れて行う
    スポーツ・学習・交流・遊覧などの多様な活動>

「観光」と「旅」の境界は曖昧だが、
旅が「目的地への到達」即ち「移動」を重視した言葉なのに対し、
観光は「風景や史跡などの見物」つまり「経験・体験」を含んでいると思う。
その意味で、「津幡ふるさと歴史館 れきしる(LINK有)」にて始まった企画展は、
作品を通じて「追体験」できる一種の観光と言えるかもしれない。



行き先は「過去」だ。
フィルムに焼き付けられているのは、今、僕が暮らす同じ町なのは間違いない。
しかし、もう(多分)二度と現れないであろう時間、失われた光景の数々。
幾つか、かいつまんでご紹介したい。

--- まずは僕自身にも重なる2枚から。



昭和45年(1970年)頃撮影。
津幡小学校入学式に臨む親子。
被写体は別人だが、亡き母と共に同じ様なシーンを経験したはずだ。



昭和37年(1962年)撮影。
津幡小学校鼓笛隊。
かつて毎年夏「つばた祭り」の際、児童たちが鼓笛隊を組んで町中を練り歩いた。
僕も参加した記憶がある。
指揮杖も、リズム隊にも、鉄琴担当にも選ばれたことはない。
その他大勢、リコーダーの一員だった。

--- 次は街角。



昭和48年(1973年)頃撮影。
加賀爪(かがつめ)交差点を臨む。
道幅狭く、移転・店じまいした店舗の看板。
現在とは大きく違う様相がモノクロの情景と相まって往時を偲ばせる。
それにしても、いい味を出しているネクタイを結ぶ男性が、
「孤独のグルメ」主人公「井之頭 五郎」に見えてしまうのは僕だけだろうか?

--- そして鉄道。



昭和56年(1981年)撮影。
津幡駅・駅前広場。
向かって左手が駅舎側だが、現在その面影を探すことはできないだろう。
立木も、瓦屋根も、トタン屋根もない。
向かって右手の建物、食堂も「津幡ホテル」も、電話ボックスもない。
全て今は昔だ。

これらはほんの一部。
是非「れきしる」へ足を運んで時間観光を楽しんではいかがだろうか。
「写真家が残した津幡町 ~ふるさとの風景~」の会期は、
2020年12月1日(火)~12月26日(土)と割合短い。
お早めに!



追記。
本日、お邪魔した際「小学生手作りの土器」が並んでいた。
先々月、子ども歴史民俗講座③「古代土器づくり!」での力作である。
小学生たちが形成し、数時間をかけ「野焼き」で焼成。
こんな体験ができるのも「れきしる」あればこそ。
これからも充実した活動に励んで欲しいと願う。
コメント (2)
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