かなり遅れてしまいましたが、せっかく見たので今更感想。
■映画「オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー」
ひょんなことから40年前に時空移動したオーズさんと電王さん。
そこでの役目は無事に達成したけれど、うっかりメダルを落っことしてしまいました。
それを拾った40年前の敵組織・ショッカーは、新兵器を開発。
40年間の技術格差は凄まじい。
最新鋭玩具の前に、かつての英雄・ライダー1号と2号は破れさり、世界はショッカーに支配されてしまった。
それから40年後…。
というお話。
パラダイスがロストしてるようなお話は好きです。
それにめげずに戦う人々のお話は、もっと好き。
1号2号は確かにお強い。でも現代の特殊技術を誇るグリードさん相手では…。
そんな不可思議な説得力を感じました。
あの高装備相手に、パンチとキックだけで戦えとか無理だから。
1号2号が敗北したことにより、後続のライダーは誕生しなかった。
それどころか1号2号は元の鞘に収まって、ショッカーの手先になっている。
そんな中、孤軍奮闘するも事情も分からないままに押し潰されていく最新鋭玩具・オーズ。
前段とは逆に、最新鋭のはずのオーズさんが、歴代敵キャラに数の暴力で圧倒されていくさまには、胸にこみ上げる何かが。
周りが全部敵だ…。玩具が…玩具が通じない…。こうなる前に、小さい内に悪の組織は潰しておかないと。
劇中で、ベルトと使用者がバラバラになり、そのせいで「ライダー」がいなくなる瞬間が結構出てきます。
玩具だけではダメ。俳優だけでもダメ。
そしてその二つに加え、人々の想いがないと変身できない。
クライマックスのつくばセンターでの処刑シーンは胸が震えました。
ベルトを失くした使用者に、掴んだベルトを届けるため、名もない民衆が一斉蜂起。
劇中の↓の言葉が、非常に熱く響きます。
「ライダーの存在を消すことはできても、ライダーを求める人々の想いは消せない」。
たとえ歴史が改変され、ライダーがいなくなったとしても、彼らを求める私らの気持ちは変わらない。
たっくーん!たっくーん!たっくーーん!!(私の声)
ライダーがいるから応援するんじゃない。応援するからライダーがいるんだ。
そんな想いに応えて、存在しないはずのライダーたちも現れる。
公式でどういう解釈がされているかは別として、あのライダーたちは人々の思い出の中のライダーが実体化した象徴的な代物なんだと思いたい。
仮面ライダーが存在しない世界は確かにあるのかもしれない。だけど、ライダーを求める人々の気持ちは変わらない。
ヒーローとは何か。妙に胸が熱くなる映画でした。
で、こうやって「仮面ライダー」さんを見ると、すぐに「プリキュア」さんに転用したがる病気を患ってるわけですが。
シリーズコンテンツとして似て非なるところとして、プリキュアさんは「別の同名プリキュア」を許容できない気がします。
要は「美翔舞であって美翔舞ではない別の子が、キュアイーグレットに変身」みたいなのは、割と反発が強いんじゃないかな。
仮面ライダーさんほどには、象徴化しきれてない。善し悪しは別として。
今回の映画のパターンでいうなら、「美翔舞ではない『キュアイーグレット』なる何か」がやってくる感じか。
やっぱり何か違和感が残ります。
あ、でも「おかしの国」のシャイニングドリームは、割とそんな感じじゃなかろうか。
あの輝夢さんは、「夢原のぞみ」というよりも「無力な人々の夢や希望の集合体」というのが近しい気がする。
そういう意味では、この映画の「仮面ライダー」と同じなのかもしれない。
「ライダーの存在を消すことはできても、ライダーを求める人々の想いは消せない」
⇒「キュアドリームの存在を消すことはできても、キュアドリームを求める人々の想いは消せない」
おぉ、説得力があるんじゃないかな!
…。
……。
………。
「キュアイーグレットの存在を消すことはできても、キュアイーグレットを求める人々の想いは消せない」
…。
……。
………うん、美翔さんで例えるから訳が分からなくなるんだ。
■映画「オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー」
ひょんなことから40年前に時空移動したオーズさんと電王さん。
そこでの役目は無事に達成したけれど、うっかりメダルを落っことしてしまいました。
それを拾った40年前の敵組織・ショッカーは、新兵器を開発。
40年間の技術格差は凄まじい。
最新鋭玩具の前に、かつての英雄・ライダー1号と2号は破れさり、世界はショッカーに支配されてしまった。
それから40年後…。
というお話。
パラダイスがロストしてるようなお話は好きです。
それにめげずに戦う人々のお話は、もっと好き。
1号2号は確かにお強い。でも現代の特殊技術を誇るグリードさん相手では…。
そんな不可思議な説得力を感じました。
あの高装備相手に、パンチとキックだけで戦えとか無理だから。
1号2号が敗北したことにより、後続のライダーは誕生しなかった。
それどころか1号2号は元の鞘に収まって、ショッカーの手先になっている。
そんな中、孤軍奮闘するも事情も分からないままに押し潰されていく最新鋭玩具・オーズ。
前段とは逆に、最新鋭のはずのオーズさんが、歴代敵キャラに数の暴力で圧倒されていくさまには、胸にこみ上げる何かが。
周りが全部敵だ…。玩具が…玩具が通じない…。こうなる前に、小さい内に悪の組織は潰しておかないと。
劇中で、ベルトと使用者がバラバラになり、そのせいで「ライダー」がいなくなる瞬間が結構出てきます。
玩具だけではダメ。俳優だけでもダメ。
そしてその二つに加え、人々の想いがないと変身できない。
クライマックスのつくばセンターでの処刑シーンは胸が震えました。
ベルトを失くした使用者に、掴んだベルトを届けるため、名もない民衆が一斉蜂起。
劇中の↓の言葉が、非常に熱く響きます。
「ライダーの存在を消すことはできても、ライダーを求める人々の想いは消せない」。
たとえ歴史が改変され、ライダーがいなくなったとしても、彼らを求める私らの気持ちは変わらない。
たっくーん!たっくーん!たっくーーん!!(私の声)
ライダーがいるから応援するんじゃない。応援するからライダーがいるんだ。
そんな想いに応えて、存在しないはずのライダーたちも現れる。
公式でどういう解釈がされているかは別として、あのライダーたちは人々の思い出の中のライダーが実体化した象徴的な代物なんだと思いたい。
仮面ライダーが存在しない世界は確かにあるのかもしれない。だけど、ライダーを求める人々の気持ちは変わらない。
ヒーローとは何か。妙に胸が熱くなる映画でした。
(左画像) 『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』とライダー40年の歩み40YEARS CHRONICLE (右画像) Let's Go RiderKick 2011 (DVD付) |
で、こうやって「仮面ライダー」さんを見ると、すぐに「プリキュア」さんに転用したがる病気を患ってるわけですが。
シリーズコンテンツとして似て非なるところとして、プリキュアさんは「別の同名プリキュア」を許容できない気がします。
要は「美翔舞であって美翔舞ではない別の子が、キュアイーグレットに変身」みたいなのは、割と反発が強いんじゃないかな。
仮面ライダーさんほどには、象徴化しきれてない。善し悪しは別として。
今回の映画のパターンでいうなら、「美翔舞ではない『キュアイーグレット』なる何か」がやってくる感じか。
やっぱり何か違和感が残ります。
あ、でも「おかしの国」のシャイニングドリームは、割とそんな感じじゃなかろうか。
あの輝夢さんは、「夢原のぞみ」というよりも「無力な人々の夢や希望の集合体」というのが近しい気がする。
そういう意味では、この映画の「仮面ライダー」と同じなのかもしれない。
「ライダーの存在を消すことはできても、ライダーを求める人々の想いは消せない」
⇒「キュアドリームの存在を消すことはできても、キュアドリームを求める人々の想いは消せない」
おぉ、説得力があるんじゃないかな!
…。
……。
………。
「キュアイーグレットの存在を消すことはできても、キュアイーグレットを求める人々の想いは消せない」
…。
……。
………うん、美翔さんで例えるから訳が分からなくなるんだ。