「快走爛漫Ⅱ」

アウトドア大好き人間です。 (since2005.10) 

健さん

2014年11月18日 23時31分31秒 | バイク

 今夜はコレ、   多くは語りません。

 昭和56年からほぼ毎年 (バイク or クルマ) 訪れていた北の大地放浪、  この年はここから始まった。

 「2006  北海道」

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 いつものように苫小牧港着。
 

 この年はセロー250新車で渡道。
 

 追悼、   健さん。

 昔映画見て泣いた。
 

 そのセットを前にし再び感慨深いものが、、
 

 オイラも思いの長けを書いて貼り紙しました。
 

 
 コラー鉄矢ーなんばしよっとかー、    かおりはもう頬杖は突かない、    渥美清係長!
 

 身重の倍償千恵子さん。
 

 涙もんやったなあ、、
 

 夕張炭鉱、 歴史が語る。     一度行ってみてよ、  その雰囲気、  行けばわかるハズ。
 

 駐車場でバッタリ。
 

 この方(神奈川)とはここで会ったのが最初だったが お互いの友人を介して実はつながっていたことが帰宅後判明。
 狭い、 狭いな、  と。         BMWモトラッド乗り。。

 夕張フォレストYHの朝
 

 帯広を見て、
 

 林道抜けここで一服。
 

 食いモノは与えないよ、  自分でなんとかしろ。      (かわいそうだけどな、 人間がいっちゃん悪いんだけどな)
 

 植村直己記念館近くにあるYH宿。
 

 とてもゆっくりできました。

 お決まりパチリ。
 

 根室港にて。      この年は大漁、 スゲー美味かった。    もちろんタダ。
 

 がしかーし!   ここからの出口で山積みになってた発泡スチロールに入った秋刀魚を1箱家に宅配したよー。 

 そんでいいんじゃね、     ギブ & テイクでさ。

 斜里にある定番宿での朝。    皆それぞれマッタリな時間がそこに。
 

 その日の晩もコレをいかさせて頂きました。 (笑)
 

 NZテカポ湖ほとりにあるYHの窓をモチーフにした旅人宿からの窓風景。
 

 朝のコーヒータイム♪
 

 この自転車野郎も千葉から来てたヤローでした。
 (ミニクーパーの屋根にチャリ付け、 車内はワイン多めに積んで渡道してきた輩。  ←みんなこんなんばっか)

 帰り際によく泊っていた宿。    バイク野郎ご用達の宿。
 

 宿に泊って知り合った輩で出かけた青池。
 

 危ないヤツラ。
 

 のバイク。    (でもみんな心優しい輩ばかり)
 

 ジェットコースターの路。
 

 を経て久しぶりに寄った五郎さんの家。      ルー、 ルルル♪
 

 実は健さんから邦衛さんにキャスト変更になったらしい、   まさに大抜擢。

 りえちゃんも入った風呂。
 

 高校2年生頃だったかなあ、、
 

 オンタイムだったよ。
 

 「じゅーん、     ほたる~」          ヤベ、  泣きそ。

 りえちゃーん。    吹上温泉なんでいないのー?     ← アホ。
 

 帰り、 大洗港に着いたら東京のバイク仲間が張っててくれた。     サプライズ!
 


 この年はそんな北紀行でした。

 PS : むらさん、 格さん、 ぴろさん、     その節は大変お世話になりました。


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 自分、  不器用ですから。


 謹んでご冥福をお祈りいたします。      

 健さん、   ド素人のボクが健さんの面影に触れる旅ができたことが幸せの黄色いハンカチです。

 ボクの中でのもう一つのベスト映画は、、     ブラック ・ レインです。  (優作さんもいるし)


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 【北炭夕張炭鉱ガス突出事故】      (ウィキペディアより引用)

 1981年(昭和56年)10月16日午前0時ごろ、海面下810メートル、坑口より約3000メートルの北部区域北五盤下坑道の メタンガスセンサーに異常値が出ていることを地上の制御室が確認。ガスの突出事故の発生を確認し、直ちに会社側 が組織した救護隊が救出作業を開始した。77人は自力で脱出することができたが、救護隊により34名は遺体で収容、 ほか10名を坑内で死亡確認している。しかし、同日午後10時30分頃にガス爆発による坑内火災が発生、救護隊の10名 も巻き込まれる二次災害となった。作業服の持つ静電気が原因で充満したガスに引火したと推測されている。

 爆発後は坑内に大量の黒煙と熱が充満し、火災も収まる兆しが見えなかったことから密閉作業が行われた。密閉作業 は坑口を塞ぐもので、坑内の避難器具(通称ビニールハウス)への空気供給を止めるものではなかったが、それでも 火災が収まらなかったことから、会社側は注水による鎮火の検討に入った。 この時点で坑内には59名の安否不明者 が取り残されており、注水は坑内にいるこれらの不明者を見殺しにする措置の為、安否不明者の家族の猛反発を受け た。中には林千明社長(当時)に「お前が入れ」と迫る人もいた。

 注水の是非を巡る議論が白熱する中、生存者の有無を確認する為に捜索隊が坑内に入る。だが、爆発の衝撃で坑道の 至る所で落盤が発生しており、救出活動を続行する事は危険と判断された(捜索中、立ったまま死亡していた労働者 の遺体も確認された)。

 林社長ら幹部は「お命を頂戴したい」と家族に注水への同意を求め(林社長はその後自殺未遂を図った)、10月22日 までに家族全員の同意書を取り付け、翌10月23日、サイレンと共に59名の安否不明者がいる坑内に夕張川の水が注水 された。約4か月の注水作業、その後の排水作業により遺体の収容作業が再開されたものの、遺体収容・確認作業は 難航を極め、最後に残っていた遺体が収容されたのは事故から163日後の1982年(昭和57年)3月28日のことであっ  た。最終的な死者数は93人にのぼった。


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 行けばわかります、   今行ってもその当時の家や廃坑跡が見えますので。 

 「北海道」   他にもいろいろな意味でスゴイです。     赤い人、  囚役労働者、  人柱・・。

 食い物美味い、  景色抜群、  直線道サイコー、  山・温泉もグー、   そんな上っ面なだけじゃないです。

 百聞は一見にしかず。     是非に。