中国迷爺爺の日記

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南京の旅(8) 南京で④-総統府-

2007-09-17 16:03:33 | 中国のこと
 天文台から市街地に下り、旧南京城市の中心辺りにある、旧南京政府行政府の遺跡である総統府を見学した。

  この地の歴史は古く、始まりは明代初期の王族の住居であったが、清代に江蘇、江西、安徽、上海を総括する両江総督府が置かれた。清朝末期の1851~1864年に起こった太平天国の乱の指導者であった洪秀全は南京を首都とし、両江総督府跡を天朝宮と命名して行政の中心とした。その後1911年に清朝を倒した辛亥革命によって孫文が中華民国臨時大総統となり、ここで執務した。1928年に中華民国主席となった蒋介石は、この地を政府所在地と定め、1948年には総統に就任し、総統府と呼称するようになった。現在の中華人民共和国政府はここを江蘇省政府の行政府として使用していたが、現在は総統府遺跡として一般に公開されている。

 総統府正門。2003年に修復されたもの。ヨーロッパの凱旋門を模したと言われる。日本軍は南京占領後、この前で入場式を行なったと言う。


正門を入ると広い中庭があり、正面に大堂がある。


  大堂に掲げられた孫文揮毫の扁額。「天下為公」は孫文の言葉として有名である。「天下を公となす」と読むのか、「天下は公である」と読むのか。


大堂の壁には総統府にまつわる歴史的な人物の肖像画がある。これは孫文像。


孫文の臨時大総統執務室の建物前の碑。


孫文事跡展示館。孫文に係るさまざまな出来事、遺品などを展示。


孫文の書


  展示館の前の孫文夫妻像。孫文夫人は有名な宋家三姉妹の次女の宋慶齢。妹は中華民国総統だった蒋介石夫人の宋美齢。


国民政府総統府執務楼。


蒋介石総統執務室。


蒋介石写真。


  蒋介石は孫文と共に、美男として知られていた。蒋介石は国民党を率いて中国共産党軍と戦い、敗れて台湾に逃れて死んだから、現在の中国政府にとっては言わば「敵将」であるが、このように当時のものは保存されている。最近は抗日戦を戦ったと言うことで一定の評価を受けているとも聞いたことがある。

太平天国軍のレリーフ。太平天国に関する資料館に通じる中庭にある。


 太平天国指導者洪秀全(ホン・シュウツアン)の像。


  洪秀全はキリスト教の影響を受けた秘密結社である上帝会を率い、清朝打倒を宣言して挙兵した。南京を占拠し太平天国を建国し、南京を首都として天京と称した。太平天国軍は一時大きな勢力となり清朝をおびやかしたが、やがて清朝軍の攻撃によって各地で敗北し、天京は陥落し鎮圧された。当時の清朝軍は極めて残忍で、捕虜や婦女子まで皆殺し同然に虐殺したと言われている。まさに「南京事件」である。洪秀全は太平天国滅亡前に死んだが、その墓は暴かれ、焼かれたと言う。

 洪秀全の執務室。太平天国関係の文物が保存され展示されているのは、太平天国が清朝に対して反乱したことが評価されているのか、それともすぐそばの建物に清朝の両江総督府関係の資料が展示されているのと同じように、この総統府の歴史の一環としているのか分からなかった。



 総統府の歴史は長く、元来は庭園であったこともあって、現在も池や庭園、楼閣が残されていて、散策には良い場所である。




 太湖石。南京が省都である江蘇省にある太湖周辺の丘陵から切り出される穴の多い奇石である。江南地方に古い庭園でよく見かけるが、日本人の目には風情を感じさせない奇怪なものと映るのではないか。


  太平湖という池にある石舫(石舟)。石舫は北京の頤和園にあるものが有名である。


 夕佳楼。太平湖畔にある。 19世紀後半の清朝同治9年に作られた楼閣。夕日の余光を映して美しく輝くということから命名されたとある。


明清時代の古井戸。太平天国でも使われたと言う。


 
 総統府は非常に広く多くの建物があって迷路のように入り組んでいて、どこにいるのか、どこに出るのか分からないほどであった。見たのは多分ごく一部ではなかったかと思う。見て回っての感想は、やはり中国人は歴史というものを重視しているということであった。

  
  この日の午後は王解寧さんの家に招かれて、王さん夫妻の娘夫婦や孫娘も交えて楽しく過ごし、夕食は料理の上手な奥さんの美味しい手料理をご馳走になった。充実した一日だった。