野口武彦著『江戸の風格』(日本経済新聞出版社)を読んでいたら、このような文章があった。
若い人が挨拶をしなくなった。職場でも、隣近所でも、たがいに日頃顔見知りとわかっていても会釈しようとしない。一九九〇年ぐらいが境目だろうか、筆者が勤務している大学で学生が教師に向ける目が路傍の石を見るような感じになった。筆者に貫禄がなかったのは仕方がないが、それだけの原因はなさそうだ。若者たちは挨拶しなくてもダイジョウブだと思っているのである。どのくらい損したか気が付いているまい。
そしてここから武士の挨拶についての話に入り、武士道の挨拶は、武士がたがいに相手と敵対関係にないことを示し合う社会ルールであったとまとめて、「近い将来、挨拶しなければ敵と見なす戦国社会が再現して、若者のマナーも変わることだろう」と結んでいる。
私にはいつごろから若い人が挨拶しなくなったのかはよく分からないし、若い人に接することはほとんどなくなったが、確かにそういう傾向はあると思う。例えば建物の外に出ようとドアを開いた時にそこに人が立っていたら、私などはちょっと会釈して通り抜けるのだが、その場合相手が若い人であるとほとんど会釈が返ってくることはない。それどころか、こちらを押しのけるように先に入ってくることもある。
しかし若者に限らず、概して日本の男性は隣近所で挨拶しないとよく言われている。会社人間もこういうところでは非社交的だ。家では威張っている内弁慶なのかも知れない。私は妻が在世中も近所の奥さん達にはよく挨拶をした。それもただ頭を下げるのではなく、おはようございますとか、こんにちはとか声に出すように心がけてきた。そのせいもあってか、妻がいなくなってからも気楽に奥さん達と声を交わすことができ、時には世間話をすることもある。息子達にも幼い頃から挨拶をするように躾けた。
その息子のうち次男は小学校の教師になったが、最初に勤めた学校では、「あいさつ運動」ということをやっていたようだ。ところがどうも息子はそのことに疑問を感じたらしく、私に「子ども達には挨拶するようにと言っているのに、朝登校して職員室に入ってきても挨拶する人がほとんどいない」と言ったことがある。こんな運動はいんちきだとは言わなかったが、それに近い気持ちだったのかも知れない。私も「あいさつ運動」などには疑問を持つ。形から入ることが大切だとも言うのだろうが、そもそも挨拶などは幼少の頃からの習慣で、形式的な運動で身につくものではない。まったく無駄とは言わないが、付け焼刃の類だろう。
私が勤務した高校のある教師は、かなり傲慢なところがある男で、生徒達にはいつも強面で対していたが、彼が「自分から先に生徒に挨拶などしない。生徒がしたらする」と言ったことがある。自分から先に挨拶したら教師の面子が立たないとでも思っているのか、そこまで教師の「権威」を振り回したいかと哀れに思ったことだった。おそらく彼自身が、挨拶するということについて真っ当に育てられなかったのではないか。
高校の運動クラブなどでは挨拶をやかましく言うところもあるが、私が勤務した学校では野球部がとりわけその傾向が強かった。校舎内でも道でも上級生に出会うと、何を言っているのかよく分からない大声で挨拶するが、上級生はせいぜい会釈を返したらいいほうだ。一度彼らとすれ違ったら大声で挨拶するので会釈を返したら、何のことはない私の後ろから来た上級生に挨拶したのだった。バカらしくて笑ってしまった。高校野球というものはとかく礼儀正しさ、純真さを売り物にしているようだが、本当に身についたものかどうか疑わしいことがある。あるとき他校との練習試合を見たことがあるが、テレビで見る全国大会などとはおよそ違う野次の応酬で、特に相手の投手に対してはその一挙手一投足に罵倒するような野次を飛ばすのにはいい気持ちはしなかった。
挨拶など難しいことではない。家庭で「おはよう」、「おやすみ」、「いただきます」、「ごちそうさま」、「いってきます」、「ただいま」が自然に言えていたら、外で挨拶するのに何も気後れしたり恥ずかしさを感じたり、付け焼刃になることなどはないだろう。
若い人が挨拶をしなくなった。職場でも、隣近所でも、たがいに日頃顔見知りとわかっていても会釈しようとしない。一九九〇年ぐらいが境目だろうか、筆者が勤務している大学で学生が教師に向ける目が路傍の石を見るような感じになった。筆者に貫禄がなかったのは仕方がないが、それだけの原因はなさそうだ。若者たちは挨拶しなくてもダイジョウブだと思っているのである。どのくらい損したか気が付いているまい。
そしてここから武士の挨拶についての話に入り、武士道の挨拶は、武士がたがいに相手と敵対関係にないことを示し合う社会ルールであったとまとめて、「近い将来、挨拶しなければ敵と見なす戦国社会が再現して、若者のマナーも変わることだろう」と結んでいる。
私にはいつごろから若い人が挨拶しなくなったのかはよく分からないし、若い人に接することはほとんどなくなったが、確かにそういう傾向はあると思う。例えば建物の外に出ようとドアを開いた時にそこに人が立っていたら、私などはちょっと会釈して通り抜けるのだが、その場合相手が若い人であるとほとんど会釈が返ってくることはない。それどころか、こちらを押しのけるように先に入ってくることもある。
しかし若者に限らず、概して日本の男性は隣近所で挨拶しないとよく言われている。会社人間もこういうところでは非社交的だ。家では威張っている内弁慶なのかも知れない。私は妻が在世中も近所の奥さん達にはよく挨拶をした。それもただ頭を下げるのではなく、おはようございますとか、こんにちはとか声に出すように心がけてきた。そのせいもあってか、妻がいなくなってからも気楽に奥さん達と声を交わすことができ、時には世間話をすることもある。息子達にも幼い頃から挨拶をするように躾けた。
その息子のうち次男は小学校の教師になったが、最初に勤めた学校では、「あいさつ運動」ということをやっていたようだ。ところがどうも息子はそのことに疑問を感じたらしく、私に「子ども達には挨拶するようにと言っているのに、朝登校して職員室に入ってきても挨拶する人がほとんどいない」と言ったことがある。こんな運動はいんちきだとは言わなかったが、それに近い気持ちだったのかも知れない。私も「あいさつ運動」などには疑問を持つ。形から入ることが大切だとも言うのだろうが、そもそも挨拶などは幼少の頃からの習慣で、形式的な運動で身につくものではない。まったく無駄とは言わないが、付け焼刃の類だろう。
私が勤務した高校のある教師は、かなり傲慢なところがある男で、生徒達にはいつも強面で対していたが、彼が「自分から先に生徒に挨拶などしない。生徒がしたらする」と言ったことがある。自分から先に挨拶したら教師の面子が立たないとでも思っているのか、そこまで教師の「権威」を振り回したいかと哀れに思ったことだった。おそらく彼自身が、挨拶するということについて真っ当に育てられなかったのではないか。
高校の運動クラブなどでは挨拶をやかましく言うところもあるが、私が勤務した学校では野球部がとりわけその傾向が強かった。校舎内でも道でも上級生に出会うと、何を言っているのかよく分からない大声で挨拶するが、上級生はせいぜい会釈を返したらいいほうだ。一度彼らとすれ違ったら大声で挨拶するので会釈を返したら、何のことはない私の後ろから来た上級生に挨拶したのだった。バカらしくて笑ってしまった。高校野球というものはとかく礼儀正しさ、純真さを売り物にしているようだが、本当に身についたものかどうか疑わしいことがある。あるとき他校との練習試合を見たことがあるが、テレビで見る全国大会などとはおよそ違う野次の応酬で、特に相手の投手に対してはその一挙手一投足に罵倒するような野次を飛ばすのにはいい気持ちはしなかった。
挨拶など難しいことではない。家庭で「おはよう」、「おやすみ」、「いただきます」、「ごちそうさま」、「いってきます」、「ただいま」が自然に言えていたら、外で挨拶するのに何も気後れしたり恥ずかしさを感じたり、付け焼刃になることなどはないだろう。