中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

自粛

2011-04-07 09:38:48 | 身辺雑記

  私が住む町の自治会では、毎年校区の小学校で花見会を開いている。参加したことはないが、もちろん小学校でするものだから花見酒などが出て騒ぐものではない。その花見会が東北大震災のため、今年は自粛ということで中止になった。市内には小浜宿(こはましゅく)と言う古い宿場町の街並みが保存されていて、毎年春に宿場祭が開かれるが、これも自粛、中止となった。大震災の被災者をおもんばかるのは当然のことだが、このあたりでそこまですることがあるのかと、いささか疑問に思う。

 

 東京でも江戸時代から続く由緒ある神田祭は、5月の中頃に行われるのに早くも中止が決定された。上野公園などの桜の名所は今年は閑散としているらしい。祭で賑やかに神輿を練り回したり、年に一度の花見を楽しむことが、被災地の苦しみを踏みにじることになるのだろうか。ある新聞の夕刊の小さい寸言欄に、「西日本まで花見を自粛して何になる。東でも被災地地産を持ち寄って盛大にやろう。そこで義援金を集めてもよい」とあった。戦後最大の地震、津波の被害はあまりにも大きく、日本全体が打ちひしがれた。そういう時に苦しみを分かち合うという心情は日本人の美徳の一つだと言われるが、それも過度になると好ましいとは言えないのではないか。

 

 大阪道頓堀にある名物の菓子メーカーのネオン看板が震災直後から消灯されていたが、このほど再点灯された。大阪や神戸、京都などでは元気を出して被災地を応援しようという、自粛ムードを改める動きが出てきているそうだ。東京などの大都市での自粛ムードは経済の停滞を招くということは、既に外紙が指摘していた。日本でもそれを心配する声もあったのだろうが、それを言うと不謹慎とそしられることを懼れたのか、何か萎縮したムードがあったが、ここに来てやっと、元気を出そうという気運がでてきたのは良いことだと思う。被災地や被災者を励まそう、応援しようということは、義援金の募集に応ずるなど、普通の生活の中でささやかでも一人ひとりができることから実行すればいい。

 

 自粛も真に自発的なものであるというのならまだいいが、そうしないと非難されるという、あたりを窺って萎縮した気持ちでするのは無意味なことだ。実際、東京のネオン街は震災後火が消えたようになったらしいが、ある経営者によると、店を開くと、このような時に何だという非難の電話がかかってきたそうだ。こういう行き過ぎた自警団的な行為はよくあることで、我こそは正義の具現者という鼻持ちならない思い上がりの者がいる。今では季節型インフルエンザの扱いになったが、一昨年の「新型インフルエンザ」騒ぎの時のいわれのない誹謗中傷、恫喝が横行したことを思い出す。こういうことは戦時中の「非国民」という、よく言われた面罵と同じことだ。そんなことを被災者の人達が望んでいるとは思われない。

 

あるジャーナリストは「『人がつながって一致団結すること』ということと、『圧力をかける空気をつくりだす』という行為は表裏一体で、容易にダークサイドに転ぶ』と言っているようだし、あるフランス現代思想の研究者も「『この非常時にそんなふるまいが許されるのか』という恫喝から『非国民』という名指しまでは僅かの距離しかない」と言ったとのことだ。オカミから何かを言われる前にと自粛するというのは情けないことだが、多数をたのんで異とみなす者に圧力を加えるのは実に不愉快なことだ。