(前掲書「『不揃いの木を組む』より」
小川さんが経営する、鵤(いかるが)工舎では宮大工を志す若者たちが寝食を共にしながら、修業しています。この本の中で「うちは修行中は、飯も一緒、仕事も一緒、寝るのも、刃物研ぎもみんな一緒だ」と紹介されています。なぜ何もかも一緒に生活するのか、小川さんは最近の「個食」を批判してこう言っています。「それはあかんわな。何もなくても家族みんなで食っていれば、いろいろなことが分かるわけだよ」、そして ,
「うちだってそうだ。もし弟子たちが仕事は一緒だが、それぞれがアパートに住んで現場に通ってくるだけなら当然、寝るのも飯を食うのも別々だから、みんなはそいつがどんなやつかわからんわ。どんなやつかわからんでは育てられないし、現場に一緒にいるやつだってどう扱ったらいいか戸惑ってしまう。それじゃ、あかんわ。 一緒に暮らして一緒に飯を食っているから、言葉でいわんでもあいつが何を考えているかが分かるんや。そういう雰囲気、ふれあいが大事なんや。弟子希望で来たやつで、近くに部屋を借りて通っていいかというのがいたが、そんなのはうちにいらないからと断った。」
と言っています。「個室」があって「個食」が当たり前のようになっている現在の多くの家庭の様子からすると、小川さんのことばは異質なものに思われるかも知れませんが、傾聴すべきことではないかと思います。
それでも弟子入りした若者の中には「一緒」ということに負担を感じる者もいるようで、「俺がきょうは夕方どこかへみんなで飯を食いに行こうといったら、仕事が終わってまで一緒に飯を食いに行くんだったら、解雇してほしいっていう子が実際いるものな」ということもあったようです。小川さんはこうも言っています。「でも今の子はみんな個室で育っているから、みんなで一緒に暮らすというのが耐えられないらしい。それを理由に止めて行くのもいたからな。ずっといっしょというのは耐えられませんって」
私が子どもの頃は一家の主の職場が居住地に近いということが多かったこともあり、また職場での勤務も残業、残業で追いまくられることもあまりなかったせいか、我が家でも夕食の時には大抵父親が一緒でした。子沢山ということもあったのですが、個室などというものはありませんし、そういうものを考えたこともありませんでした、いつから今のような家族の様子が普通になってきたのでしょうか。少子化ということもあるでしょうが、それほど豊かになったわけではないのに子どもはそれぞれ個室を持ち、きょうだいが顔を合わせて話し合うことも少なくなっているし、食事時の団欒ということも少なくなっているようですが、私が子どもの頃は、家が貧しかったこともありますが、食事中はもとより食後もきょうだい達は両親も交えてあれこれ話したりしたものです。ひとしきり時間が過ぎると弟妹たちは寝てしまい、宿題のある高校生の私や次の妹は食事の時に使ったちゃぶ台で勉強したもので、それが当たり前でした。友人たちの生活程度はさまざまでしたが、個室のある者はいませんでした。
何でも昔が良かったというつもりはありませんが、やはり一家は一緒ということは大切なのではないかと思います。
「親だって子供が自分の部屋で何をしているかわからない。何をしているかわからないで、何かあったときに、『何でこんなことになった』『まさかうちの子が』ということになる。日ごろ何でもないときに触れ合っていること、これが一番のいい教育なんだな。」
この本は単に宮大工の修行の話というだけでなく、教育論としてもなかなか深いものがあるようで、親も教師も一読すればいいのではないかと思います。
(追記)小川三夫さんは『宮大工と歩く奈良の古寺』(文春新書)という本を著しています。自分も修復や再建に携わった体験を織り交ぜたものですが、その博識と造詣の深さに感嘆します。次男と法隆寺に行く前には何度も読みました。