連載小説「六連星(むつらぼし)」第84話
「養寿寺(ようじゅじ)と国定忠治」

「大姐ごの清子さんに、そちらの小さな姐ごの響さん。
あいにくと朝からの雨降りで、少々足元がむかるんでめえりやした。
どうぞ。お気をつけなすって」
昨日の通夜の席から、すっかりと仁義口調に染まっている長身の国定長次郎は、
本葬が終え斎場を引きあげてからも、いっこうにその口調が改まりません。
小雨の中、傘を斜めに傾けて岡本が苦りきった表情で振り返っています
「誰だ・・・・こいつに変なきっかけをつくったのは。
そうじゃなくてもこの野郎は、国定忠治ゆかりのこの養寿寺へやってくると、
高揚しすぎて、すっかりと博徒気分になっちまう。
まったくもってこうなると、馬鹿と阿呆には薬のつけようがねぇ」
「まあまあ、そう言うなよ。
長次郎に悪気が有るわけでも無し、お前さんにとっては可愛い子分のひとりだ。
出来の悪い子供のほうが、可愛いと良くいうだろう」
並んで歩いていく俊彦が、まぁまぁと岡本をたしなめています。
苦笑いを返している岡本の背中へ、後ろから小走りで響が追いついてきました。
なんだ響と、岡本が振り返ります。
「ねぇ、岡本のおっちゃん。その国定忠治って、
『赤城の山も今宵かぎり、可愛い子分のお前たちとも別れ別れになる定めだ・・』
の名セリフ言った、あの江戸末期の侠客のことでしょう。
そうすると姓が国定を名乗る長次郎君は、その末裔にあたるのかしら?」
「いや、真偽のほどは解らねぇ。
だが、昔から親子ともどもで博徒や侠客に心酔をしていた事だけは確かなようだ。
なにしろ親がつけた名前が、清水の次郎長にあやかった長次郎だ。
生まれた時からそのまんま、博徒になるのが運命つけられたような命名そのものさ。
だからこいつのせいじゃねぇ。
性が国定で、名前が長次郎では、もうこの世界にはぴったりだ。
こいつが今こうして此処に居るのも、もとはといえば、
名前を付けたオヤジのせいだろう」
養寿寺の参道は朝から降り始めた小雨のために、石畳がもう完全に濡れきっています。
うっかり気を抜いたりすると、今にも滑ってしまいそうな気配が濃厚です。
最後尾を歩いている清子は黒ずくめの凸凹コンビに、完全に左右からガ―ドをされていて、
本人は傘をさすこともなく、ただ悠然と二人の真ん中を歩いています。
養寿寺は、江戸時代末期に名をあげた侠客の国定忠治の菩提寺です。
北関東を縦走していくJR両毛線の国定駅から、北へ1キロ。
歴史は古く、永保3年(1083)に開基をしています。
もともとは天台宗の寺として始まり、当初は相応寺と称していましたが、
元禄年間になってから現在の養寿寺に名称が変わりました。
周囲を畑と田んぼに囲まれている墓地の一角には、上州を代表する江戸時代の博徒、
国定忠治の石碑と墓石が建っています。
国定忠治の墓石のカケラを所持していると、賭け事に強くなるという言い伝えが、
今でも根強く信じられているために、参詣者たちによって墓石を削り取られることから
今では容易に墓に触れられない様に、強固な鉄柵によって
その周囲がすべて取り囲まれています。
境内にはまた、国定忠治遺品館なども建てられています。
山門の手前で立ち止まった岡本が、濡れかけている響へ傘をさしかけました。
「おう、響。余り濡れるな。身体を冷やすと後でろくな事がねぇ。
ろくなことがねえと言えば、その長次郎のオヤジが手のつけられない悪だった。
やっぱり問題は、そのオヤジにあったようだ。
なにしろそのオヤジの名前は、国定の栄五郎ときたもんだ。
お前さんは知らないだろうが国定忠治の時代の前に、赤城山一帯をおさめた
大親分の、大前田(おおまえだ)栄五郎という、すこぶるの博徒が居た。
こいつが若い頃の忠治をたいそう気にいって、新田義貞が出た新田郡に、
博徒修業の旅へ出したと言うのは、つとに有名な話だ。
長次郎のオヤジは、自らを大前田栄五郎の末裔だと名乗ってやがる。
親子ともどもの、こいつらは博徒の家系だ。
まぁ、いうなれば、名前だけは博徒界のサラブレッドだな・・・・」
「へぇぇ・・・・博徒にもサラブレッドの血統が有るわけ?」
「おう、その通りだ。
ここは義理と人情のお国柄だが、博打にも熱い風土と言うものが有る。
なにしろ上州と言えば、博徒の国だ。
第一、群馬県を横切って栃木県の小山まで行くJR両毛線は、
別名が、ギャンブル列車で全国的にも有名だ。
始発駅の高崎に有った高崎競馬は、残念ながらだいぶ前に廃止になっちまったが、
隣にある県都の前橋には、ドームで覆われた前橋競輪場が有る。
その東で駅をひとつ越えた伊勢崎市には、これまたオートレース場が有る。
その東隣に有るのが、忠治の墓が有るこの国定駅だ。
それだけじゃねぇぞ。
ここからすぐ隣の岩宿駅は、岩宿遺跡の駅としても名前を知られているが
戦後まもなくから始まった地方公営ギャンブルの旗頭、桐生競艇場の
玄関口としても有名だ。
ついでにいえばその東の桐生市には、平和・三共・西陣といった、
日本屈指のパチンコメ―カがひしめいている。
もうひとつついでに、県境を越えた足利市には公営の足利競馬が有った。
農業ばかりが目立っているド田舎の北関東に、これだけのギャンブル場の密集ぶりだ。
ここは、長年にわたり博打うちと勝負師ばかりが住んでいる土地柄だ。
そう言う意味では、上州に生まれれば、
みんな、生まれついての博徒のサラブレッドということにもなる」
「論法はすこぶる乱暴だけど、
岡本のおっちやんの言い分には、妙な説得力が有ります。うふふ。
でも上州は昔から、かかあ天下とからっ風と言うでしょう。
そんなにも女性が強いというのに、男が博徒ばかりをしているようでは、
あっというまに、家庭が崩壊をしてしまいます。
なんで上州では、女性がそんなにも強い地位を占めているわけ?」
「かかあ天下とは、一般的な意味では、
妻や女どもが、実権を握っている家庭のことを指している。
俗に言う、亭主を尻の下に敷くと言うやつだ。
だが、群馬の『かかぁ天下』は、少しばかりその事情が異なる。
冬に吹き荒れる『からっ風』と、夏場の激しい『雷』と並んで、
上州名物のかかあ天下と言われているが、決して女性上位とは言えないものが有る。
考古学上に、そうした証がひとつある。
その昔に、上毛野君形名(かみつけのきみ かたな)の妻が、かかあ天下の模範をしめした。
形名は、朝廷の命令で東北方面へ出兵をしたが、東北の蝦夷軍に追い詰められて、
弱腰になり、ついには敗戦が濃厚になったことが有る。
そのときに、妻がおおいに酒を飲ませ、叱咤激励すると共に、
自ら弓を持ち、弦を鳴らすことで全軍をふるいたたせ、
相手に大軍が来たと錯覚させる機知を発揮して、手助けをしたという逸話が残っている。
いまでいう『内助の功』というものだろう。
本来の「かかぁ天下」とは、上州の女性は働き者で、よく男をたてるという意味だ。
上州(群馬)は稲作がそれほど盛んでなく、かつては養蚕業が盛んだったことから
紡績作業などの女性の仕事が多く、また上州産の絹糸は質が良かったので、
その名声が、世間に知れ渡ってたということも、また影響しているだろう。
上州の女は良く働いて、女のおかげで潤っているから、
『かかぁ天下』の国になったということにもなるだろう。
実際にお前の母親、清子の生き方なんかは、そのお手本みたいなものだ」
「お母さんが・・・・?それって、どういう意味なの?」
「働き者で男をたてる。
女としての清純も、ひたすら守りぬいている。
高潔を今でもひたすら守り抜いている貞淑な、清子の生きざまは真似が出来ねぇ。
めったにいない粋で誠実な女だぞ、お前さんの母親は。
まぁな。・・・・清純だとか高潔などという倫理的な言葉や感覚は、
現代女性の風俗から見れば、いまやまったくもっての死語の世界だろうがね」
「それって・・・・いまだに母は、
俊彦さんにたいして、清純を尽くしていると言う意味なのかしら」
「さぁてな。俺も、詳しくは知らん。
だが、俊彦にも、それに似た同じものが有る。
別の女と所帯を持ったというのに、わずか2年と持たずに離縁をしている。
あいつの心の底には、清子への想いが残っていたのかもしれないが、
いまとなっては、それは誰にも解らねぇ・・・・
お互いに機会を失ったまま、つかず離れず、もう四半世紀。
お前さんの年齢と同じだけの年月を、ああしていまだにあの二人は、
洋上を漂よう小舟のように流されているまんまだ。
そんな男と女のつき合い方ってのも、有るのだろうなぁ。
この世には・・・・」

・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
「養寿寺(ようじゅじ)と国定忠治」

「大姐ごの清子さんに、そちらの小さな姐ごの響さん。
あいにくと朝からの雨降りで、少々足元がむかるんでめえりやした。
どうぞ。お気をつけなすって」
昨日の通夜の席から、すっかりと仁義口調に染まっている長身の国定長次郎は、
本葬が終え斎場を引きあげてからも、いっこうにその口調が改まりません。
小雨の中、傘を斜めに傾けて岡本が苦りきった表情で振り返っています
「誰だ・・・・こいつに変なきっかけをつくったのは。
そうじゃなくてもこの野郎は、国定忠治ゆかりのこの養寿寺へやってくると、
高揚しすぎて、すっかりと博徒気分になっちまう。
まったくもってこうなると、馬鹿と阿呆には薬のつけようがねぇ」
「まあまあ、そう言うなよ。
長次郎に悪気が有るわけでも無し、お前さんにとっては可愛い子分のひとりだ。
出来の悪い子供のほうが、可愛いと良くいうだろう」
並んで歩いていく俊彦が、まぁまぁと岡本をたしなめています。
苦笑いを返している岡本の背中へ、後ろから小走りで響が追いついてきました。
なんだ響と、岡本が振り返ります。
「ねぇ、岡本のおっちゃん。その国定忠治って、
『赤城の山も今宵かぎり、可愛い子分のお前たちとも別れ別れになる定めだ・・』
の名セリフ言った、あの江戸末期の侠客のことでしょう。
そうすると姓が国定を名乗る長次郎君は、その末裔にあたるのかしら?」
「いや、真偽のほどは解らねぇ。
だが、昔から親子ともどもで博徒や侠客に心酔をしていた事だけは確かなようだ。
なにしろ親がつけた名前が、清水の次郎長にあやかった長次郎だ。
生まれた時からそのまんま、博徒になるのが運命つけられたような命名そのものさ。
だからこいつのせいじゃねぇ。
性が国定で、名前が長次郎では、もうこの世界にはぴったりだ。
こいつが今こうして此処に居るのも、もとはといえば、
名前を付けたオヤジのせいだろう」
養寿寺の参道は朝から降り始めた小雨のために、石畳がもう完全に濡れきっています。
うっかり気を抜いたりすると、今にも滑ってしまいそうな気配が濃厚です。
最後尾を歩いている清子は黒ずくめの凸凹コンビに、完全に左右からガ―ドをされていて、
本人は傘をさすこともなく、ただ悠然と二人の真ん中を歩いています。
養寿寺は、江戸時代末期に名をあげた侠客の国定忠治の菩提寺です。
北関東を縦走していくJR両毛線の国定駅から、北へ1キロ。
歴史は古く、永保3年(1083)に開基をしています。
もともとは天台宗の寺として始まり、当初は相応寺と称していましたが、
元禄年間になってから現在の養寿寺に名称が変わりました。
周囲を畑と田んぼに囲まれている墓地の一角には、上州を代表する江戸時代の博徒、
国定忠治の石碑と墓石が建っています。
国定忠治の墓石のカケラを所持していると、賭け事に強くなるという言い伝えが、
今でも根強く信じられているために、参詣者たちによって墓石を削り取られることから
今では容易に墓に触れられない様に、強固な鉄柵によって
その周囲がすべて取り囲まれています。
境内にはまた、国定忠治遺品館なども建てられています。
山門の手前で立ち止まった岡本が、濡れかけている響へ傘をさしかけました。
「おう、響。余り濡れるな。身体を冷やすと後でろくな事がねぇ。
ろくなことがねえと言えば、その長次郎のオヤジが手のつけられない悪だった。
やっぱり問題は、そのオヤジにあったようだ。
なにしろそのオヤジの名前は、国定の栄五郎ときたもんだ。
お前さんは知らないだろうが国定忠治の時代の前に、赤城山一帯をおさめた
大親分の、大前田(おおまえだ)栄五郎という、すこぶるの博徒が居た。
こいつが若い頃の忠治をたいそう気にいって、新田義貞が出た新田郡に、
博徒修業の旅へ出したと言うのは、つとに有名な話だ。
長次郎のオヤジは、自らを大前田栄五郎の末裔だと名乗ってやがる。
親子ともどもの、こいつらは博徒の家系だ。
まぁ、いうなれば、名前だけは博徒界のサラブレッドだな・・・・」
「へぇぇ・・・・博徒にもサラブレッドの血統が有るわけ?」
「おう、その通りだ。
ここは義理と人情のお国柄だが、博打にも熱い風土と言うものが有る。
なにしろ上州と言えば、博徒の国だ。
第一、群馬県を横切って栃木県の小山まで行くJR両毛線は、
別名が、ギャンブル列車で全国的にも有名だ。
始発駅の高崎に有った高崎競馬は、残念ながらだいぶ前に廃止になっちまったが、
隣にある県都の前橋には、ドームで覆われた前橋競輪場が有る。
その東で駅をひとつ越えた伊勢崎市には、これまたオートレース場が有る。
その東隣に有るのが、忠治の墓が有るこの国定駅だ。
それだけじゃねぇぞ。
ここからすぐ隣の岩宿駅は、岩宿遺跡の駅としても名前を知られているが
戦後まもなくから始まった地方公営ギャンブルの旗頭、桐生競艇場の
玄関口としても有名だ。
ついでにいえばその東の桐生市には、平和・三共・西陣といった、
日本屈指のパチンコメ―カがひしめいている。
もうひとつついでに、県境を越えた足利市には公営の足利競馬が有った。
農業ばかりが目立っているド田舎の北関東に、これだけのギャンブル場の密集ぶりだ。
ここは、長年にわたり博打うちと勝負師ばかりが住んでいる土地柄だ。
そう言う意味では、上州に生まれれば、
みんな、生まれついての博徒のサラブレッドということにもなる」
「論法はすこぶる乱暴だけど、
岡本のおっちやんの言い分には、妙な説得力が有ります。うふふ。
でも上州は昔から、かかあ天下とからっ風と言うでしょう。
そんなにも女性が強いというのに、男が博徒ばかりをしているようでは、
あっというまに、家庭が崩壊をしてしまいます。
なんで上州では、女性がそんなにも強い地位を占めているわけ?」
「かかあ天下とは、一般的な意味では、
妻や女どもが、実権を握っている家庭のことを指している。
俗に言う、亭主を尻の下に敷くと言うやつだ。
だが、群馬の『かかぁ天下』は、少しばかりその事情が異なる。
冬に吹き荒れる『からっ風』と、夏場の激しい『雷』と並んで、
上州名物のかかあ天下と言われているが、決して女性上位とは言えないものが有る。
考古学上に、そうした証がひとつある。
その昔に、上毛野君形名(かみつけのきみ かたな)の妻が、かかあ天下の模範をしめした。
形名は、朝廷の命令で東北方面へ出兵をしたが、東北の蝦夷軍に追い詰められて、
弱腰になり、ついには敗戦が濃厚になったことが有る。
そのときに、妻がおおいに酒を飲ませ、叱咤激励すると共に、
自ら弓を持ち、弦を鳴らすことで全軍をふるいたたせ、
相手に大軍が来たと錯覚させる機知を発揮して、手助けをしたという逸話が残っている。
いまでいう『内助の功』というものだろう。
本来の「かかぁ天下」とは、上州の女性は働き者で、よく男をたてるという意味だ。
上州(群馬)は稲作がそれほど盛んでなく、かつては養蚕業が盛んだったことから
紡績作業などの女性の仕事が多く、また上州産の絹糸は質が良かったので、
その名声が、世間に知れ渡ってたということも、また影響しているだろう。
上州の女は良く働いて、女のおかげで潤っているから、
『かかぁ天下』の国になったということにもなるだろう。
実際にお前の母親、清子の生き方なんかは、そのお手本みたいなものだ」
「お母さんが・・・・?それって、どういう意味なの?」
「働き者で男をたてる。
女としての清純も、ひたすら守りぬいている。
高潔を今でもひたすら守り抜いている貞淑な、清子の生きざまは真似が出来ねぇ。
めったにいない粋で誠実な女だぞ、お前さんの母親は。
まぁな。・・・・清純だとか高潔などという倫理的な言葉や感覚は、
現代女性の風俗から見れば、いまやまったくもっての死語の世界だろうがね」
「それって・・・・いまだに母は、
俊彦さんにたいして、清純を尽くしていると言う意味なのかしら」
「さぁてな。俺も、詳しくは知らん。
だが、俊彦にも、それに似た同じものが有る。
別の女と所帯を持ったというのに、わずか2年と持たずに離縁をしている。
あいつの心の底には、清子への想いが残っていたのかもしれないが、
いまとなっては、それは誰にも解らねぇ・・・・
お互いに機会を失ったまま、つかず離れず、もう四半世紀。
お前さんの年齢と同じだけの年月を、ああしていまだにあの二人は、
洋上を漂よう小舟のように流されているまんまだ。
そんな男と女のつき合い方ってのも、有るのだろうなぁ。
この世には・・・・」

・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/