@武将と僧侶、長官と参謀、社長と補佐官・幹部。社長は一般的に孤独であり、最後の判断・決断は長である社長だ。間違いのない選択をする為には判断材料を持つ幹部の補佐が必須だ。本書では「心の支え」的な僧侶も多いが、現代は社長の周りに「YES Man」(意見が合わない人材は排除される)が多く、より良い判断ができる環境ではないと感じる。結果的に、現代の「より良い判断と精神的な支え」には外部の人脈が最適だと思う。
『武将と名僧』百瀬明治
「概要」当時の名僧・高僧と呼ばれる人々は、現代の僧の概念と異なり、第一級の学者・科学者でもあった。彼らのなかには、政治の要諦を心得ていたり、軍事技術に詳しかったり、兵法をきわめている者もいたから、武将のブレーンとなる資格は十分に備えていたのである。絶妙のコンビで戦国時代を生き抜いた男たちの知恵と戦略。現代ビジネスにも応用できるブレーン学。
ー武将と僧侶
僧侶は第一級の学者・科学者でもあり、兵法、軍事技術に詳しかったものもいた
僧侶の殺生の考え方は親鸞や日蓮の唱える「煩悩具足の凡夫」「罪業深重の凡夫」を提唱
武士は短い人生を名と義を尊び悔いのない人生を心がけた
武将の信仰心を褒め称え、古い聖人の再来のように、カリスマ性を幻想させた
仏心による魂の安らぎを得て、活力を取り戻そうと唱え、戦利領土から民衆の支援を得た
ー足利尊氏・夢想疎石 (幕府の徳治事業に貢献:敵味方を問わず菩提を弔う)
「梅松論」坐禅をする習慣を心がける
「馬上天下を取るも、馬上天下を収むるべからず」武力後の文治、徳治の必要性
裏切った後醍醐天皇の冥福を祈って天龍寺を建立(知性安泰を図る)
新田義貞、楠木正成に対しても亡き魂を丁重に供養する
夢想は尊氏の人徳、豪勇、慈悲心、寛大、見前良さなどを褒め称えた
ー徳川家康・南光坊天海(心のお清めと宗教での統治)
家康の仏教と神道への庇護(浄土信仰:家康の日課念仏となる南無阿弥陀仏)
岡崎城近くの大樹寺住職登誉から「厭離穢土欣求浄土」が家康の戦旗となる
(信仰がもたらす力を戦場においても最大限に活用する)
2人の僧侶秘書役の金地院崇伝(寺院法度)と顧問役の南光坊天海(心の師)
天海の法談や加持祈祷によって家康から支えられた(3代将軍を支え108歳で没)
ー今川義元・太原崇孚(政略軍事の立案決定:軍師として交渉役)
義元の生母公家出身からの推挙で幼い時からの仏門の師
太原は妙心寺の住持、内乱(家督相続)を収めるための戦略を提言
義元政権(18歳)の安泰、武田信虎の娘との婚姻(武田同盟)
三国同盟(今我・武田・北条)との婚姻関係を結び西側へと進出
桶狭間の戦いには太原はいない(6年前に没)
ー武田信玄・快川紹喜(出兵上洛提案・軍旗を考案)
領土を安泰するためには民心を惹きつける信仰を活用(延暦寺系と本願寺系を支援)
家臣や領民を真に信服させるカリスマ性を見せた(信玄自身も神仏信心に打ち込む)
領土拡大とともに京都僧侶等からの情報で上洛を提言
「風雨林火山」孫子の旗から武田の軍旗は快川が描いたもの
ー毛利氏・安国寺恵瓊(武家の名門武田系の僧侶・毛利の戦略兼外交使節)
信長と秀吉の未来を予測、のちに秀吉の外交・文治使節役を受ける
足利vs織田では足利側に付くことを提言、結果織田・秀吉側の勝利となる
恵瓊は四国伊予の大名も兼ね毛利の参謀、石田三成側に就くが関ヶ原決戦後斬首される
毛利王国は元就の教育(兄弟仲良く一和同心を貫く)で大国となり徳川時代まで続く
毛利家の吉川広家と敵対しは関ヶ原で裏目となる
ー柳生宗矩・沢庵禅師(徳川幕府への貢献・剣禅一如の思想)
宗矩の柳生新陰流は殺人剣ではなく剣を取らない技芸(剣の道)としての人活を重んじた
沢庵禅師の「分けぼる麓の道はかはれども、同じ雲井の月を見るかな」
(富士山を登る道はいろいろあるが頂上は同じである)
家光が建立した東海寺の住持となるが山林閑居を求め死後も墓など作るとな提言