ようやく月曜日に休みが取れて3連休、遅い夏休みとなった。
8月21日から23日の3日間、快晴の黒部に入ることができた。
黒部に入るのはこれが2度目で、初めて入ったのは20数年も前のことであろうか?
釣友に連れられて奥黒部の東沢谷に幕営して黒部岩魚の野生を初めて目の当たりにしたものである。
その後、大出水で崩壊し東沢谷から黒部岩魚が消えたと聞いていた。
それがここ10年ほどは釣れ始めたようで、今回は奥黒部行の足慣らしにと平の小屋周辺を歩いてみる予定である。
満車状態の扇沢駐車場で車中泊し、午前7時半のトロリ-バスで黒部ダムに向う。
6台のトロリ-バスは超満員で、かろうじて最後尾のバスに潜り込み立ったままでダムに着いた。
バスを降りて、ぞろぞろと歩き出す人たちの殆どがいわゆる観光客で、重そうなザックを担いだ山屋さんは1割にも満たないように感じた。
40分ほどの散策路を辿ると『ロッジくろよん』
ここを過ぎたあたりから本格的な登山道が始まる。
古傷になった両足の肉離れ痕と膝関節を労りながら歩いた。
それでも上り下りを繰り返すハシゴにあえぎ出すころには膝関節が痛み出した。
ようやく100段100段の階段の上り下りを過ぎ4時間あまりをかけた汗だくの登山道歩きが終わる。
1日目はN谷に入った。
この谷が本命であったのだけれど釣り人が多いためか岩魚がとても神経質になっているのが分かる。
フライへの出方がとにかく素早い。喰いも浅くて乗らない。
へったくそ~、もっと上手く咥えろよ~!
自分の腕を棚に上げて岩魚を罵っている自分が恥ずかしい。
結局、初日に手にしたのは6寸ほどのこの岩魚1尾のみ。
なんともやりきれない思いで溪を後にした。
小屋に辿り着くと、ベンチでは釣りを終えた方々3人が談笑しながらビ-ルをあおっている。
さっそく僕も仲間に入れてもらって谷の様子を聞きながらビ-ルで喉を潤した。
今回の釣り旅は『平の小屋』に2泊お世話になる。
ここの3代目のご主人は、釣り名人のうえに酒好きで、毎晩釣り客と夜中まで釣りの話しを肴に飲み明かすことで有名なのだけれど
運悪く僕がお世話になる日から腸に小さな穴が空いて2週間ほど入院されることになってしまって楽しみの一つがなくなってしまった。
しかししかしである。
こういう小屋には猛者連が集まるものである。
左端の方は大阪から、右3人の方は滋賀県からの常連さんで何と毎年7~8回はこの小屋を訪れては釣り三昧なのだそうである。
しかもしかも真ん中のお二人は80才と68才で、大学のワンゲル時代に初代の小屋に訪れて以来の常連だと言うから驚きである。
しかもしかもである。
毎回、各自ワイン2L、日本酒1升、2日間の酒肴をこの小屋に担ぎ上げて来るというからどこにそんなパワ-があるのかと更に驚く。
僕はこの4人のお仲間に入れてもらって2日の間、只酒を頂きながら古き良き時代の山や黒部のお話を伺うことができた。
山屋さんや釣り師の何とおおらかで優しいことかと感じ入った二夜であった。
いつの頃からか僕は山小屋を好まなくなりテントを担いで縦走するようになった。
山小屋はそれが当然とでも言うように6時頃には登山者が床につき、
酒を呑んだり情報交換したりすることさえうるさいからと許されなくなってしまったからである。
この日の平の小屋は釣り師5人登山者8人の宿泊であったが、食堂のテ-ブルは釣り師と登山者に分けられて釣り師に優しかった。
<8月22日、白き谷へ>
2日目の今日は『白き谷』へ入ろう。
午前6時、対岸に渡る渡船には『上ノ廊下』を遡行し『薬師沢』を目指す沢屋さんが4人、
針の木大雪渓を経て扇沢に下る登山者3名が同乗して朝靄の黒部湖を静かに遡上した。
渡しからは40分ほど登山道を歩いて『白き谷』に降り立った。
小高い台地には4張のテントが並んでいて6人ほどの釣り師が気だるそうにコ-ヒ-をすすっていた。
幕営は禁止の筈であるが野営派の僕は文句を言う気など更々無い。
話しを聞くと別のグル-プの3人がついさっき釣り登っていったと言う(内心はアチャアなのであるが顔には出さない)
コ-ヒ-をご馳走になりながら昨日の釣果を聞くと20センチほどの岩魚が6人で数えるほど、
仕方なく湖まで下ってニジマスをいくつか釣って食糧にしたそうである、今日もシブイのだろうか?
ここから釣り上がっていいかと訪ねると、これから撤収して帰るからどうぞと言って貰えた。
陽の昇っていない谷はまだ寒いほどである。
瀬脇や巻き返しを狙うと7寸ほどの白い岩魚が遊んでくれるが写真を撮るほどのサイズは出てくれない。
陽が昇ってくると谷は真っ白な世界へと変貌する。
この頃から岩魚は流芯から出るようになった。
谷が大きくて広いために思いのほか流れが細く見えてしまうが、実は水量も豊富できつい流れであり
そのままのスケ-ルを表現するための写真の難しさを痛感してしまう。
底石も白いためか釣れてくる岩魚はおしなべて白っぽく、しかも7寸と小さい。
それでもこの澄んだ群青の空の下、開豁な谷でロッドを振ることができる満足感は何ものにも代え難いと思う。
更に遡行を続けた。
時折吹く風はひんやりと心地いいのだけれど真上から照りつける日差しはジリジリと強く、日焼けして痛い手の甲はタオルを巻いて凌いだ。
太い流れに出くわした。
流心は激しく白泡を立てて轟いている。
真っ黒なドライフライを白泡の真上に投じた。
浮力を得るようにとハックルもウイングも特大に巻いた11番のフライは波乗りのように流心の真上を踊りながら流れた。
フライが流れの中程にさしかかろうとするその時
まるで潜水艦が浮上するかのように白泡の底から垂直に黒い影が浮かび上がった。
こんなに激しい白泡の底から果たしてフライは見えていたのであろうか?
黒い影の背中が見えたとき僕の鼓動は一瞬止まり体中の筋肉が強ばって動けなくなった。
黒い影はスロ-モ-ションのようにしばらくフライと対面して白泡の中を流れ一段浮き上がってフライを吸い込んだ。
また一瞬、僕の鼓動は止まり周囲のざわめきも聞こえなくなった。
それでも体は自然に反応するもので、反射的に手首を返して軽く合わせ、
我に返った僕は絶対にバラさないようにともう一度強めの合わせを入れた。
ここの岩魚は7寸でも思いのほか強い引きなのにこの岩魚の引きの強さは尋常ではなかった。
強いトルクでグッグッと白泡の底に突進されるとラインに受ける抵抗は尚更に強くなる。
『慎重に、慎重に』と心の中で繰り返し唱えながらも、慎重すぎると却ってバラシてしまうことも
良くあることを知っている僕は頭の中が混乱しながらも岩魚の動きだけを追い続けた。
どのくらい時が経ったのだろうか?
疲れを見せ始めた岩魚をようやく岸際に寄せネットを差し出して『よしっ、やったあ』と勝ち鬨を上げたとき
岩魚は長い尾を振ってネットを弾き飛ばしてまた流れに帰って行った。
それが最期の抵抗であった。
ランディングした岩魚は35センチ、このサイズなら真っ黒でも良いはずであるがやはり魚体は白っぽいものであった。
『ごめんな、君の命をもらうよ』
声に出して詫びてから石で〆た。
一撃のあと、一瞬驚いたような表情を浮かべ、やがて観念したように表情は優しげに変わった。
僕はためらいながらも、もう一度岩魚の頭頂部に石を振り下ろし岩魚は息絶えた。
僕は少し心に痛みを感じていた。
釣友との溪泊では何のためらいもなく岩魚を〆るのに
焚火を囲んで呑む酒に供するために嬉々として岩魚を〆るのに
何故に単独行のときに限ってこうも感傷的になってしまうのだろうか?
それでも僕は単独行に出たとき、納得の岩魚を必ず1尾頂くことにしている。
一対一で対峙し真剣勝負した末の岩魚への敬意とでも言ったらいいのだろうか?
山深い谿で生き抜いてきたこの岩魚の歴史、生命力、神秘性、その全てを僕の中に取り込んで誰にも渡したくない。
そうすることで、この谿とこの岩魚の記憶と想い出を深く心に刻みたいのだと。
それが、身勝手な行為であることも良く分かったうえでのことである。
美味しい水に棲む岩魚はまた美味しいものである。
冷やしておいたビ-ルを呑みながらヒラメのように甘い岩魚の命を噛みしめた。
岩魚の骨とアラはめんつゆで煮込んでソ-メンを味わった。
これで僕も、この谿に同化し、この谿の空気に溶けこんでいける。
そんな気がしてしばらくの間まどろんだ。
歓喜と感傷の一日が終わろうとしている。
渡船の時間が迫っていた。
溪を下り、登山道を1時間ほど歩いて渡船に乗った。
乗客は僕ひとりであった。
平の小屋のご主人に代わって船頭を務めたのは登山道整備の方で釣り好きの方であった。
今夜の宿泊客は、滋賀県の常連さん3人とこの船頭さんと僕だけであった。
船頭さんが持ち込んだウイスキ-と、昨夜呑み残したワインと日本酒があらかた空になる頃まで山小屋の酒宴は続いた。
『黒き谷編』につづく
8月21日から23日の3日間、快晴の黒部に入ることができた。
黒部に入るのはこれが2度目で、初めて入ったのは20数年も前のことであろうか?
釣友に連れられて奥黒部の東沢谷に幕営して黒部岩魚の野生を初めて目の当たりにしたものである。
その後、大出水で崩壊し東沢谷から黒部岩魚が消えたと聞いていた。
それがここ10年ほどは釣れ始めたようで、今回は奥黒部行の足慣らしにと平の小屋周辺を歩いてみる予定である。
満車状態の扇沢駐車場で車中泊し、午前7時半のトロリ-バスで黒部ダムに向う。
6台のトロリ-バスは超満員で、かろうじて最後尾のバスに潜り込み立ったままでダムに着いた。
バスを降りて、ぞろぞろと歩き出す人たちの殆どがいわゆる観光客で、重そうなザックを担いだ山屋さんは1割にも満たないように感じた。
40分ほどの散策路を辿ると『ロッジくろよん』
ここを過ぎたあたりから本格的な登山道が始まる。
古傷になった両足の肉離れ痕と膝関節を労りながら歩いた。
それでも上り下りを繰り返すハシゴにあえぎ出すころには膝関節が痛み出した。
ようやく100段100段の階段の上り下りを過ぎ4時間あまりをかけた汗だくの登山道歩きが終わる。
1日目はN谷に入った。
この谷が本命であったのだけれど釣り人が多いためか岩魚がとても神経質になっているのが分かる。
フライへの出方がとにかく素早い。喰いも浅くて乗らない。
へったくそ~、もっと上手く咥えろよ~!
自分の腕を棚に上げて岩魚を罵っている自分が恥ずかしい。
結局、初日に手にしたのは6寸ほどのこの岩魚1尾のみ。
なんともやりきれない思いで溪を後にした。
小屋に辿り着くと、ベンチでは釣りを終えた方々3人が談笑しながらビ-ルをあおっている。
さっそく僕も仲間に入れてもらって谷の様子を聞きながらビ-ルで喉を潤した。
今回の釣り旅は『平の小屋』に2泊お世話になる。
ここの3代目のご主人は、釣り名人のうえに酒好きで、毎晩釣り客と夜中まで釣りの話しを肴に飲み明かすことで有名なのだけれど
運悪く僕がお世話になる日から腸に小さな穴が空いて2週間ほど入院されることになってしまって楽しみの一つがなくなってしまった。
しかししかしである。
こういう小屋には猛者連が集まるものである。
左端の方は大阪から、右3人の方は滋賀県からの常連さんで何と毎年7~8回はこの小屋を訪れては釣り三昧なのだそうである。
しかもしかも真ん中のお二人は80才と68才で、大学のワンゲル時代に初代の小屋に訪れて以来の常連だと言うから驚きである。
しかもしかもである。
毎回、各自ワイン2L、日本酒1升、2日間の酒肴をこの小屋に担ぎ上げて来るというからどこにそんなパワ-があるのかと更に驚く。
僕はこの4人のお仲間に入れてもらって2日の間、只酒を頂きながら古き良き時代の山や黒部のお話を伺うことができた。
山屋さんや釣り師の何とおおらかで優しいことかと感じ入った二夜であった。
いつの頃からか僕は山小屋を好まなくなりテントを担いで縦走するようになった。
山小屋はそれが当然とでも言うように6時頃には登山者が床につき、
酒を呑んだり情報交換したりすることさえうるさいからと許されなくなってしまったからである。
この日の平の小屋は釣り師5人登山者8人の宿泊であったが、食堂のテ-ブルは釣り師と登山者に分けられて釣り師に優しかった。
<8月22日、白き谷へ>
2日目の今日は『白き谷』へ入ろう。
午前6時、対岸に渡る渡船には『上ノ廊下』を遡行し『薬師沢』を目指す沢屋さんが4人、
針の木大雪渓を経て扇沢に下る登山者3名が同乗して朝靄の黒部湖を静かに遡上した。
渡しからは40分ほど登山道を歩いて『白き谷』に降り立った。
小高い台地には4張のテントが並んでいて6人ほどの釣り師が気だるそうにコ-ヒ-をすすっていた。
幕営は禁止の筈であるが野営派の僕は文句を言う気など更々無い。
話しを聞くと別のグル-プの3人がついさっき釣り登っていったと言う(内心はアチャアなのであるが顔には出さない)
コ-ヒ-をご馳走になりながら昨日の釣果を聞くと20センチほどの岩魚が6人で数えるほど、
仕方なく湖まで下ってニジマスをいくつか釣って食糧にしたそうである、今日もシブイのだろうか?
ここから釣り上がっていいかと訪ねると、これから撤収して帰るからどうぞと言って貰えた。
陽の昇っていない谷はまだ寒いほどである。
瀬脇や巻き返しを狙うと7寸ほどの白い岩魚が遊んでくれるが写真を撮るほどのサイズは出てくれない。
陽が昇ってくると谷は真っ白な世界へと変貌する。
この頃から岩魚は流芯から出るようになった。
谷が大きくて広いために思いのほか流れが細く見えてしまうが、実は水量も豊富できつい流れであり
そのままのスケ-ルを表現するための写真の難しさを痛感してしまう。
底石も白いためか釣れてくる岩魚はおしなべて白っぽく、しかも7寸と小さい。
それでもこの澄んだ群青の空の下、開豁な谷でロッドを振ることができる満足感は何ものにも代え難いと思う。
更に遡行を続けた。
時折吹く風はひんやりと心地いいのだけれど真上から照りつける日差しはジリジリと強く、日焼けして痛い手の甲はタオルを巻いて凌いだ。
太い流れに出くわした。
流心は激しく白泡を立てて轟いている。
真っ黒なドライフライを白泡の真上に投じた。
浮力を得るようにとハックルもウイングも特大に巻いた11番のフライは波乗りのように流心の真上を踊りながら流れた。
フライが流れの中程にさしかかろうとするその時
まるで潜水艦が浮上するかのように白泡の底から垂直に黒い影が浮かび上がった。
こんなに激しい白泡の底から果たしてフライは見えていたのであろうか?
黒い影の背中が見えたとき僕の鼓動は一瞬止まり体中の筋肉が強ばって動けなくなった。
黒い影はスロ-モ-ションのようにしばらくフライと対面して白泡の中を流れ一段浮き上がってフライを吸い込んだ。
また一瞬、僕の鼓動は止まり周囲のざわめきも聞こえなくなった。
それでも体は自然に反応するもので、反射的に手首を返して軽く合わせ、
我に返った僕は絶対にバラさないようにともう一度強めの合わせを入れた。
ここの岩魚は7寸でも思いのほか強い引きなのにこの岩魚の引きの強さは尋常ではなかった。
強いトルクでグッグッと白泡の底に突進されるとラインに受ける抵抗は尚更に強くなる。
『慎重に、慎重に』と心の中で繰り返し唱えながらも、慎重すぎると却ってバラシてしまうことも
良くあることを知っている僕は頭の中が混乱しながらも岩魚の動きだけを追い続けた。
どのくらい時が経ったのだろうか?
疲れを見せ始めた岩魚をようやく岸際に寄せネットを差し出して『よしっ、やったあ』と勝ち鬨を上げたとき
岩魚は長い尾を振ってネットを弾き飛ばしてまた流れに帰って行った。
それが最期の抵抗であった。
ランディングした岩魚は35センチ、このサイズなら真っ黒でも良いはずであるがやはり魚体は白っぽいものであった。
『ごめんな、君の命をもらうよ』
声に出して詫びてから石で〆た。
一撃のあと、一瞬驚いたような表情を浮かべ、やがて観念したように表情は優しげに変わった。
僕はためらいながらも、もう一度岩魚の頭頂部に石を振り下ろし岩魚は息絶えた。
僕は少し心に痛みを感じていた。
釣友との溪泊では何のためらいもなく岩魚を〆るのに
焚火を囲んで呑む酒に供するために嬉々として岩魚を〆るのに
何故に単独行のときに限ってこうも感傷的になってしまうのだろうか?
それでも僕は単独行に出たとき、納得の岩魚を必ず1尾頂くことにしている。
一対一で対峙し真剣勝負した末の岩魚への敬意とでも言ったらいいのだろうか?
山深い谿で生き抜いてきたこの岩魚の歴史、生命力、神秘性、その全てを僕の中に取り込んで誰にも渡したくない。
そうすることで、この谿とこの岩魚の記憶と想い出を深く心に刻みたいのだと。
それが、身勝手な行為であることも良く分かったうえでのことである。
美味しい水に棲む岩魚はまた美味しいものである。
冷やしておいたビ-ルを呑みながらヒラメのように甘い岩魚の命を噛みしめた。
岩魚の骨とアラはめんつゆで煮込んでソ-メンを味わった。
これで僕も、この谿に同化し、この谿の空気に溶けこんでいける。
そんな気がしてしばらくの間まどろんだ。
歓喜と感傷の一日が終わろうとしている。
渡船の時間が迫っていた。
溪を下り、登山道を1時間ほど歩いて渡船に乗った。
乗客は僕ひとりであった。
平の小屋のご主人に代わって船頭を務めたのは登山道整備の方で釣り好きの方であった。
今夜の宿泊客は、滋賀県の常連さん3人とこの船頭さんと僕だけであった。
船頭さんが持ち込んだウイスキ-と、昨夜呑み残したワインと日本酒があらかた空になる頃まで山小屋の酒宴は続いた。
『黒き谷編』につづく