山と溪を旅して

丹沢の溪でヤマメと遊び、風と戯れて心を解き放つ。林間の溪で料理を造り、お酒に酔いしれてまったり眠る。それが至福の時間。

一点張り!赤い花よ、咲き誇れ!!

2006-04-29 15:50:27 | 独り言
今日は、私と一緒に同じ株を買っている方々に、今後の投資戦略を伝えておきたい。

4月20日、当欄でお伝えした予想とは少し雲行きが変わってきた。
新興市場は、早くも4月中旬から調整に入り移動平均線を下回って来たため、下値リスクは薄くなった。連休明け以降、底打ちを確認してから新たな銘柄に打診買いを入れたいと考える。

東証1部は調整不足であり、連休明けも調整が継続と見る。もっとも、チマチマ投資を嫌って大きく狙う我らにとって東証1部銘柄は魅力に欠ける。相手にしない。

中国株は、ファンドの決算期到来のため急騰後に売りが出ている。あまり気にすることなく3倍達成まで持続方針は不変。ここで銘柄の一部を入れ替えたいところであるが面倒なのでやめましょう。

さて、新華ファイナンス。2月に8万円から買い下がり、平均買い単価7万円から
ようやく5割高の10万4千円になった。まだまだこれからである。
急騰後、先週末から今週初め、本尊による強烈なふるい落としに皆さんは耐えられたであろうか?本尊の視点に立って相場を見ていれば耐えられた筈である。

そして今週後半、10万円を挟んだもみ合いで、きれいな三角持ち合いのチャ-トを形成した。私のもっとも好きなチャ-トである。惚れ惚れするチャ-トである。
連休後、移動平均線の上昇を待って、一気に上っ放れ火柱高を描くと見る。

今週は10万5千円を抜けなかったが、10万4千円は引け新値である。12万円の節を抜ければ14万円へ。14万円の節を抜けられれば、あとは青天井である。
先ずは2倍増の14万円が達成できれば良しとするか。ひょっとすると、ひょっとするかも、、、?

人もジャンプするとき、一瞬かがみ込む。株も同じで、三角持ち合いを上っ放れる時には必ず少しだけ縮む。これを下っ放れと誤ってはならない。ただ確率は低いが下っ放れるリスクもある。移動平均線を下回ったら迷わず売りでよい。それでも充分利益は確保できよう。

新華ファイナンスを売ったあとの仕込み銘柄はまだ決めていないが、とりあえずの候補はダブルクリック、アウトソ-シングあたりか?いずれも6万円台である。
6~7万円前後の低位株の方が上昇力が強い。

昨年5月に6万6千円で仕込んだソフトフロントは7月に4倍増へ。
9月に13万5千円で仕込んだサンウッドは今年1月に2.7倍増へ。
そして今回の新華はどこまで行くか?楽しみである。チマチマやるより、あくまでも一点張りで大きく狙いたい。次の銘柄選択も楽しみである。

さあ咲き誇れ、赤い花!!





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どっちが悪い?

2006-04-26 23:54:24 | 独り言
日本経団連は、営業停止の行政処分を受けたアイフルに対して3ヶ月の経団連活動自粛処分を通達した。本日の時事通信の記事である。本来は除名処分が妥当ではないのか?東証の扱いと言い、経団連の扱いと言い、ライブドアとはえらい違いである。

アイフルの株価は、先々週末から大きく窓を開けて下落し回復の兆しが見えない。投資家にとっては晴天の霹靂であろうが、こんな品性のない会社が東証1部に上場していることの方が私には疑問である。利益さえ出していれば、どんなアコギなまねをしてもいいのか?東証の上場基準を厳しく問いたい。

私は修業時代に、いわゆる金貸業を担当していたことがある。社長をはじめ会社の人たちは至ってまともな人たちであったが、出入りする人間はろくなものはいなかった。

貸金の回収を請け負う業者をサルベ-ジ屋と呼んでいた。沈んだものを引き上げるという意味であろう。人間は暴力に弱い。サルベ-ジ屋は債務者を痛めつけて半殺しの目にあわせる。半殺しの目にあった債務者は、次は殺されるかも知れないという恐怖心から、人の金を盗んだりとどんなことをしてでも金を工面してくる。
こうして回収した貸し金の半分がサルベ-ジ屋の成功報酬となる。怖い世界である。

金貸しは、銀行から金を借りて営業が成り立っている。アイフルも他の消費者金融も同じである。中には銀行の傘下にあるものもある。これは、禁止されている迂回融資そのものではないのか?

仕事柄多くのバンカ-とおつきあいするが、強いものに取り入り弱いものを遠ざける姿勢はどこも同じである。経営者の夢や熱い思いを育てて行くことはバンカ-としての大きな使命であるはずである。古き良き時代の本物のバンカ-は消えてしまったのだろうか?

さて、金を借りる側の責任はどうか?
金は命の次に大切なものである。安易に過ぎないか?サラ金で金を借りる一部の人は、返済できるあてもないのに借りる。返せないのは当然である。あげくの果てに開き直る。貸金業者のあこぎな取り立ても仕方あるまい。

昔は、娘を売り飛ばしてでも金を工面して責任を果たした。今は、最後には自己破産で庇護される。取り立て側が加害者となってしまい、借金を踏み倒す側は最後には法律で庇護される。何かおかしいし安易すぎる。借りる側の責任をもっと厳しく問うべきである。借りる側の責任が一番重いはずである。

私たちが考えるべきは、先ずしっかり働くこと、そして相応に慎ましく生きることである。今日は、横浜のクリニックに伺った。慎ましく、駅の売店で崎陽軒のチャ-ハン弁当550円を仕込んで院長と食べながら、こんなことを熱く語った。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たまにはゆっくり歩いてみませんか

2006-04-23 22:05:46 | モモ
私の一日は、老犬モモとの散歩で始まる。モモは夏でも冬でも変わらず、朝6時になると私を散歩に誘う。老犬ゆえに、朝も夕もゆっくりのんびり40分をかけての散歩は私とモモの二人だけの時間である。

私の住む府中市は、緑の町と言われるように車道も歩道も緑に覆われた安らぎの町である。緑の公園も至る所に点在しており、特に朝の散歩は清々しく心地よい。

今日は日曜日。多分モモは私の休日を知っているのだと思う。いつもの散歩は6時に始まるのに、休日の朝は決まって8時である。しかもたっぷり1時間歩く。モモには体内時計があるのかも知れぬ。

モモと散歩を続けて14年半になる。モモのおかげで自分の住む町をずいぶん詳しく知ることができた。モモとのんびり歩いていると、思わぬ発見がしばしばである。こんな所にこんな家があったのかとか、ひっそりと咲く草花を発見したりとか。

親しい散歩友達も沢山できた。地域社会の中で、主婦のネットワ-クは思いのほか広いものであるが、男のそれは極端に狭い。モモのおかげで私のネットワ-クもずいぶん広がり、挨拶を交わしたり世間話をする相手も沢山出来た。季節の移ろいを感じられるのもモモのおかげである。モモ、ありがとうね。

モモは毎日飽きもせず、道すがら花のにおいを楽しんだり、仲良しの犬と挨拶を交わしたり、知り合いの犬の家に寄り道したりと、散歩を満喫しているようである。

あと何年、モモとふたりで散歩できるのだろうか?多忙すぎる毎日の中で、心の平安を保っていられるのはホントにモモのおかげかも知れない。心から感謝である。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国家の品格

2006-04-22 10:02:45 | 書籍
今朝のテレビ番組で藤原正彦著『国家の品格』が紹介されていた。リリ-ス5ヶ月でなんと180万部のペストセラ-だという。私も1ヶ月ほど前に読んだ。
ある講演記録を元に執筆されたもので、堅いタイトルとは裏腹に、とてもやさしい文体で、しかもユ-モアあふれる表現でとても読みやすい。共感する点も多く是非皆さんにもお勧めしたい一冊である。

著者からのメッセ-ジのいくつかを揚げてみよう。
先ず、真の国際人を育てるには英語より国語をしっかり学ぶこと。
市場原理主義、つまり究極の実力主義社会はケダモモの社会になりはてる。
子供の躾けに論理は不要。悪いことは悪い、問答無用で押しつけよ。
廃れた武士道精神をもう一度取り戻せ。

日本人には特有の情緒や形がある。
例えば、『もののあわれ』
例えば、『惻隠の情』
例えば、『卑怯を憎む心』

日本は、金銭至上主義の野卑な国々とは一線を画し、国家の品格をひたすら守り、孤高を保つべきである。日本人一人ひとりが美しい情緒と形を身につけ、品格ある国家を保つことは、日本人として生まれた真の意味であり、人類への責務である。
この世界を本格的に救えるのは、武士道精神に裏付けられた日本人しかいないと締めくくる。

確かに今、日本人に武士道精神が失われつつある。
ご老人などの弱者に手をさしのべる人が少なくなった。ふるさとを懐かしみ、親を敬う心、家族の絆が薄れつつある。万引きすることを卑怯と思わなくなった。
子供の躾けさえ放棄してしまった感がある。

会津藩校『日新館』に什の掟(じゅうのおきて)がある。
一つ、年長者の言うことに背いてはなりませぬ。
二つ、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
三つ、嘘をいうことはなりませぬ。
四つ、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
五つ、弱いものいじめをしてはなりませぬ。
六つ、戸外で物をたべてはなりませぬ。
ならぬものはならぬものです。

正月の長編時代劇『白虎隊』の中で、日新館の先生であった森繁久弥がさん言った教えである。

私と妻は、子供のしつけのことでしばしば対立したものである。
会津生まれの妻は、日新館の教えどおりに子供を躾けた。ならぬものはならぬもの、問答無用の躾け方であった。これに対して私は、ロボットを育てているのではない、理由をきちんと伝えて躾けなければ意味がないという立場をとった。

妻は頑として譲らず、『問答無用』の躾を貫いた。この本を読んで私の認識が誤りであったことを痛感した。会津武士の武士道精神は、妻のDNAの中にしっかり受け継がれているのかも知れない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

百花繚乱

2006-04-20 08:36:54 | 独り言
株式市場が活況である。まさに百花繚乱の様相である。景気回復、地価上昇など理由はどうでもいい。株をやってるものには上がればいいのであって理由は後からついてくる。我々弱小投資家は買って待つのみ、後は大口投資家が買いに入るのを待つしかない。

先ずは中国株。春になってから動意づき今週の上げピッチは急である。
アンガンニュ-スチ-ル、チャイナライフ、フレンドシップ、上海陸家、振華機械、万科企業などが軒並み2倍となっている。売りたければ売ってもよいが、あと1年まって当初の目標どおり3倍以上を目指そう。

チャイナシッピング、中海発展、PICC、COFCOなど上昇力の乏しいものもあるが、心配はない。必ず先行銘柄にさや寄せするはずである。全銘柄平均で3倍は頂くとしよう。

さて日本株である。これも日本市場にしか上場していない新華ファイナンス。やっと急騰してきた。あと一息である。もしかしたらとんでもないことになるかも知れない。それを期待してもう少し様子見といこう。

東京市場の特徴として、4月末にかけて上昇して、連休明けから急落するパタ-ンが続いている。特に新興市場では、信用買いしている連中が信用解消売りを出すため、売りが売りを呼び急落が続く。

4月末にかけて利益確定させ、キャッシュフロ-を高めておいて、5月の連休明け以降の急落を買いチャンスと捉えるべきかも知れない。
これから月末までの動きに注目したい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

断酒宣言!!

2006-04-19 01:49:22 | 川飯.B級グルメ
断酒宣言!?
なんてことを言い出すのか。やめときなはれ!意志の弱いお前にできる訳ないだろうに。実は、私もそう思う。今まで、よほど体調の悪い日でもなければ酒を飲まぬ日はなかった。酒を飲まないと、その日一日損した気分になる。酒好きの貴兄にはこの気持ち、ご理解頂けるのではないだろうか?

最近、お客様も仕事量もめっぽう増えた。おまけにスタッフの入れ替えで戦力低下の状態にあり、しばらくは一人深夜までデスクに向かわざるを得ない。
酒を飲んでしまうと仕事にならない。本も読めない。かえって血糖値の抑制には良いのかも知れぬ。

午後7時、事務所の仕事を終えた妻は小料理屋の女将に変身し、酒の肴を次々と造りながらお酒を飲み会話を交わす。お酒のおかげで夫婦の会話は途切れることなく続き、議論が白熱して大げんかになることもしばしばである。しかし、これもまた良しである。

そして決断した。事務所の体制が整うまでの間、ウイ-クデ-は断酒しようと。
土日祝祭日は飲む。妻のために?と言うことは、ゴ-ルデンウイ-クは毎日飲めるぞ。いやいや連休中はめいっぱい仕事である。

テレビでトヨタの副会長を見た。70歳をとうに過ぎているのにスケジュ-ルは8月まで昼も夜も埋まっているとのことである。負けたと思った。とにかく企業のトップはタフである。しかし、私はこんな生き方はしたくない。

心理学者であり哲学者でもあるユングの『38歳変曲点説』
38歳までは勉学も仕事も選ばずがむしゃらにやって体制を整えよ。体制が整ったあとは自分の時間をたっぷりとって、新たな研究に取り組んだり、やりたい仕事だけを選んで納得できる仕事をしたりと、つまり人生の後半は理想とする人生を生きろという訳である。

私もその通りにしてきたつもりである。少なくとも50歳になるまでは。しかし、今はちがう。この2~3年は『38歳変曲点説』にも自分の意志にも反する生き方をしてしまっている。これはいかん!なんとかしなければ。このままでは忙しい忙しいと言いながら人生を終えてしまいかねない。

どんなことにも陰と陽がつきまとう。ひとつのことに注力すると、必ず他の何かを犠牲にしなければならない。人生、とくに後半生はバランスが大切である。もちろん仕事はしっかり、そして、遊びやお酒も楽しまなければ決して豊かな人生にはならない。これは、今年1年の私の重大なテ-マでもある。一日も早く断酒宣言など解除したいものである。







コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひとりしずか

2006-04-17 00:30:47 | 独り言
先週、石砂山で『ひとりしずか』に出会った。林の中でひっそりとそよ風に揺れていた。『ひとりしずか』にも花言葉はあるのだろうか?

ひとりしずかの『しずか』は、源 義経の愛妾『静御前』のことである。
『ひとりしずか』は写真のとおり、1本の花穂を立てて咲くのに対して『ふたりしずか』は2本の花穂を立てて咲く。それは、静御前とその幽霊の二人が寄り添うように舞う姿に喩えられる。

信州駒ヶ根の太田切川のほとりに『ふたり静』という名のホテルがある。駒ヶ根の中では、美しく由緒あるホテルである。毎年釣りに訪れる太田切川から上がるとき、釣友といつも話したものである。

俺たちに愛人ができたら、あの『ふたり静』を定宿にすっか?チト高そうだな。
まあな、、、。そこで話が途切れる。いつもの事である。
どだい俺たちには愛人などできまい。女は面倒である。男同士で遊ぶ方が性に合っている。と、思いこもうとしているのか?

やはり、かみさんが怖いのか?
私は今まで、どんな嘘も妻に見抜かれてきた。私が嘘をついているときは鼻がふくらんでヒクヒクするのだという。真剣に嘘をつき通そうとすればするほど鼻がふくらんでヒクヒクし、口元と目元が一瞬にやけるのだという。

これからも、その一瞬を妻が見逃す筈がない。
自分の顔の微妙な動きさえコントロ-ルできないのだから、妻をごまかせる訳がない。やはり俺たちには『ふたり静』は無縁なのだろうか?

ひとりしずかに酒を飲むか、二人騒がしく酒を飲むか、いずれにしても害のない、いや芸のない男たちである。さてと、今夜もまた飲みながら妻をごまかす技でも研究するとしようか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本物の清々しさ

2006-04-15 23:19:21 | 川飯.B級グルメ
4年ぶりに岐阜の高原川に立った。あまりの寒さに、途中から釣り旅は温泉の旅に変更した。奥飛騨の平湯で露天風呂に浸かって正気を取り戻したら、あとは地酒と地元の食材を肴に酒盛りに突入である。

温泉の隣の飲み屋に入った。午後6時のことである。閉店時間を聞くと店の親父は素っ気なく8時と答える。看板にもそう書いてある。つけいる島がない、頑固そうな親父である。仕方ない、2時間で飲み明かそう。そう誓って飲み始めた。

店のメニュ-には、うまそうな定食以外には、飛騨牛のすじ煮込みと餃子しかない。ビ-ルと酒があるのだから酒の肴がないはずはない。すじ煮込みを頼んでからあれこれ聞くが口を割らない。これには参った。しかし、これでは帰れぬ。

ひょんなことから釣りの話になった。気がつけば私たちの席の前に立っている。
聞けばこの親父さん、鮎プロで渓流もやる。某ロッドメ-カ-の鮎竿のテスタ-で今年は新作の竿も出るという。鮎が解禁になると、毎日店が始まるまで川に立ち、釣った鮎は東京の割烹に卸すのだとか。

この親父さんの生き方が素晴らしい。やりたいことしかやらない。嫌いなやつとはつきあわない。かといって決して世間を狭めている訳ではない。日本中の川と釣りを知り尽くしている。好きだからである。交友関係も実に広く深い。好きな奴としかつきあわないからである。

幸せな生き方とは、好きな人とだけつきあい、好きな事だけをやり続けること。これが私の幸福論である。この頑固で我が儘な親父さんと同じである。私の生き方もまんざらではないと確信した瞬間である。

この親父さん、やっと私たちを受け入れてくれた。しぶちんの顔が笑顔に変わっている。飛騨牛の刺身がないかと聞くと、ないけど作るという。うまかった。
山菜はないかときくと、今日摘んできたといってタラの芽やら聞いたこともない地元の山菜を天ぷらにしてくれた。これも実にうまかった。

イワナの刺身が食べたいと言えば、ないけど作るという。あとは、頼みもしないのに酒の肴でテ-ブルは一杯になつた。こんなに酒の肴があるのに、なぜメニュ-に載せないのかと聞くと、食べさせたいと思う奴だけにしか食べさせたくないのだという。我が儘もここまで来たら本物で、かえって清々しい。

いつしか近くの温泉旅館の板長も加わって釣り談義が続く。閉店時間の8時はとうに過ぎ、10時になっても釣り談義は佳境に入ったままである。飲みつぶれて、ふらつく足で店を出たのは何時だったろうか?

再会を誓って記念写真を撮る。真ん中が鮎プロの頑固親父。我が儘な生き方がこの風格をつくるのか、白いあごひげが見事でした。左が某温泉旅館の板長にして釣りバカ。そして右が我が釣友Oちゃん、彼も鮎ではプロ並である。あえてフラッシュを使わなかったのは3人の頭頂部の輝きを強調したかったからのこと。これもまた見事である。

親父さん、素晴らしい出会いと楽しい夜をありがとうございました。親父さんの素敵な生き様に共感できた一日でした。

岐阜の一日は当ホ-ムペ-ジにてご覧下さい。
http://www.tax-takasaki.com/
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春の女神たち

2006-04-09 17:20:24 | 山歩き.散歩
今年もまた、あの山に『春の女神』が舞う季節になった。私のふるさとの山『石砂山』の岐阜蝶である。華奢でなまめかしくて気品漂うたたずまいに魅了された私は、この季節になると、もう会いたくて会いたくてたまらず気もそぞろになる。

そして今日、会いに行ってきました。春の女神の気品漂う舞いを見ると、いつも感動して『あゝ、やっと会えたね』と声に出してしまう。

この岐阜蝶は、丹沢周辺では既に絶滅し『石砂山』周辺にしか生息していないと言われている。藤野町あげての、そして岐阜蝶を守る会の地元有志の皆さんの保護活動の成果であり、この活動が評価されて、藤野町に生息する岐阜蝶に限定して、神奈川県の天然記念物として採取が禁止されている。

にも拘わらず、平日には捕虫網を隠し持った不届きものが徘徊する。葉の裏に生み付けられた卵を根こそぎ持ち帰る者もいると聞く。嘆かわしい限りである。
岐阜蝶が絶滅したのは、何も自然環境の劣化だけが原因ではあるまい。不届き者の精神の荒廃が大きく関与していると思う。

津久井4町には、大小数十本もの沢がある。釣りブ-ムのかげでほとんどの沢からヤマメが消えた。地元の釣り人ではなく都会の不届き者の仕業である。
今、地元の有志たちの手によって多くの沢にヤマメの放流が続けられ、やっと沢にヤマメの泳ぐ姿が見られるようになった。私も毎年、釣友と放流活動を続けている。

地元有志たちが放流活動を続けているのは、釣り人に釣らせるためではない。魚のいない沢を見るのがいたたまれないからである。ヤマメが泳ぐ本来の沢であって欲しいという願いからである。今、ヤマメたちはやっと復活はしたが、水量が激減した沢でかろうじて生きながらえている。沢に力がないため魚体も極めて小さい。

にも拘わらず、都会の不届き者はヤマメを持ち帰る。持ち帰りたいなら、漁協が管理し、漁協が放流している川で釣ればよい。ここにも身勝手な人間の精神の荒廃が見て取れる。

今日、石砂山でほほえましい親子に出会った。お二人は千葉からはるばる来られた由。お母様は、日本百名山の登頂を目指して精力的に登山を続けておられるとのことで息子さんより健脚である。息子さんは方々を巡って写真に納めHPをアップしたいと言われた。HPをアップしたら真っ先にリンクしようと約束して別れた。

山田さん、おもしろしホ-ムペ-ジ、期待していますよ。そしてリンクしましょう。約束です。





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤とんぼ

2006-04-08 16:57:30 | 独り言
『聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥』なんてえことを申しますが、もしやあなたもこんな経験はこざいませんでしょうか?
かく言う私にも沢山あるわけで、その中のひとつを。

『あかとんぼ』という童謡唱歌、知らないとは言わせません。
あなたは、初めてこの童謡を歌ったときに、その歌詞を正確に理解していたでしょうか?私はこの解釈を巡って学生時代に友人たちから大笑いされた経験があるのです。

『夕焼け小やけの赤とんぼ おわれてみたのはいつの日か』
遠い昔、まだ小さかった私は、いつも姉やの背におんぶされて、夕焼けの空を飛び交う赤とんぼを眺めていたっけ。あゝあのころがなつかしいなあ。

ところが私はというと、負われてを→追われてと勘違いしていたわけで、そうなると人間であるはずの私は、トンボのボクに立場が変わってしまうわけで。

遠い昔、赤とんぼのボクは、夕焼けの空を両手を広げて気分爽快に飛んでいたんだっけ。でもそのとき、虫取り網をかざしたガキ大将たちがボクを追いかけ始めたんだ。あのときは怖かったなあ、殺されるかと思って一生懸命逃げたんだ。と、こうなるわけで、、。

そして2番。『15で姉やは嫁にゆき お里の便りも絶え果てた』
ええ?赤とんぼが15年も生きるわけねえっしょう!赤とんぼが手紙なんか書くのかあ?おかしいよ、この歌。この歌作ったひと、バカじゃねえのお?

小学1年生の時から大学生になるまで、この勘違いは変わらなかったわけで。
これが友人から失笑をかった理由なわけで。
実は、小学生の頃、おかしいよ?と思ったときに先生に聞いてみようと思ったものの、成績が良くてリ-ダ-格であった私は、バカにされそうで聞くこともできず、
結局、大学生になってから笑いものになったわけで。

『聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥』
勘違いが『赤とんぼ』ごときで本当に良かった。今でも思い出すと赤面なわけで。
あなたも、疑問に思ったことはすぐに解決しておきましょうね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村八分

2006-04-06 02:15:02 | 独り言
『村八分』。村の掟を破った者に対しての厳しい仕打ちである。村のつきあいのうち、水の配分と葬式のつきあいはするが、それ以外のつきあいは一切断たれた。貧しい村と民の生活を守るためには必要な掟であった。

ここまで厳しくはないが、今でも地方の小さな村社会には厳しい周りの目がある。
村社会の中で暮らす人たちは、周りの目を気にしながら後ろ指を指されないように生きなければならない。何か不都合な事を起こせば、叱られたり噂になったりと何かと生きにくくなる。だから自ずと自分を律しながら生きることとなる。煩わくはあるが、これも悪くはない。

最近、あちこちで若者たちのはしたなく嘆かわしい行為が目立つ。電車の座席に座ったままで化粧を始めるバカおんな。裏拳ではり倒したろかと思う。制服のままで電車の床にあぐらをかくバカ女子高生たち。靴裏で頭を踏みつけたろかという衝動にかられる。私には、恥ずかしくてとてもできそうにない行為を平気でやってのける。

なぜだろうか?一言で言えば、人と人との関わりが希薄になってしまったからだと思う。悲しいことである。皆が人に対して無関心になった。だから人は周りの目を気にしなくなった。はしたない行為であっても恥ずかしいと思わなくなった。

昔なら、隣近所の目を気にした。親は子に、隣近所から後ろ指を指されるようなことは決してさせなかった。子もそのことは良く解っていて自分を律して生きていた。いまはそれがない。

昨日、4人の男子高生が電車の座席で大声でふざけあっていた。立って雑誌を読んでいた私は我慢も限界にきて、そのうちの一人を丸めた雑誌で思いっきりはり倒し『やかましい!』と一喝した。幸い彼らは『すいません』と素直に謝ってくれたが、もし刃向かってきたらどうしようかと、はり倒した後で恐ろしくなった。
でも許せないことは黙っていられない性分である。

駅のエスカレ-タ-で割り込みする人がいる。『すみません』の一言がなぜ言えないのだろうか? 混雑した電車で、人を押しのけながらおりる人がいる。『すみません、おりま-す』の一言があれば、皆気持ちよく道を空けるのにといつも思い、私は必ず一言声をかけることにしている。

おとなも子供も万引きが多い。人が見ていなければ、捕まらなければ良いというものではない。法律があろうとなかろうと悪いことは悪い。自分の良心に照らして、恥ずかしいことは自分にも人に対しても律して生きたい。地方の村社会の中にある人と人との濃密な関わりが都会の人間関係の中にも少しは復活して欲しいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

哲学と科学

2006-04-05 03:59:09 | 書籍
日本語とは何と難解なことでしょうか?皆さんは『哲学』という漢字をご覧になって、いったい何を意味するのか解るでしょうか。実は私はさっぱり解りません。
日本語を勉強している外国の人などは、もうお手上げだと思います。

ギリシャ語では哲学をフィロソフィと言います。それではこれをちょっと分解してみましょうか?『フィロ』とは『愛』することを意味し、『ソフィ』とは『知る』ことを意味します。

直訳すると、『哲学』とは、知ることを愛すること.....知りたいと思うこと.....深く、深く、深~く知りたいと思うこと..すなわち、真理の探究。
こんな感じでしょうか?

哲学と科学。平凡な私たちにとっては、とても難解で縁などなさそうに思われるでしょうが、実は毎日、私たちは日々の生活の中でこの哲学と科学を繰り返しながら生きているのです。哲学者でも科学者でもないのに?信じられませんか?

では、もう少しかみ砕いて考えてみましょうか。
休日の朝、あなたは目を覚まし『そうだ、今日は彼女を誘って映画でも観に行こうか』。これが哲学です。そしていよいよ、ここからが科学の始まりです。彼女に電話をして、何を観ようかを決めて、何時にどこで待ち合わせるかを決めて、ならば電車は何時に乗るのかを調べて、何を着ていこうかを決めて、さあ出発です。

つまり、映画を観に行こうと発想することが哲学することであり、哲学を実現するためのプロセスが科学すること。そうです、皆さんは誰でも皆、哲学と科学を繰り返しながら生きている哲学者であり科学者なんですね。

ライト兄弟は、鳥のように自由に空を飛んでみたいと思った。これが哲学です。
そして、研究とテストを重ね、大けがをしながらも遂に空を飛んだのです。これが科学。

人は皆、あの月へ行ってみたいと夢を見ました。これが哲学です。そして、多くの科学者たちは、その夢を実現するために英知を結集し、実験と失敗を繰り返しながら遂に人類を月の大地に立たせることに成功したのです。
壮大な哲学と、地道な科学の力が結実した歓喜の瞬間でした。

理解して頂けたでしょうか?ここでひとつ、ご注意頂きたいことがあります。
それは、決して間違った哲学をしてはならないこと。間違った哲学は、間違った科学をし、間違った結果を導くこととなります。必ず、そうなります。くれぐれも、くれぐれもご注意を。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする