山と溪を旅して

丹沢の溪でヤマメと遊び、風と戯れて心を解き放つ。林間の溪で料理を造り、お酒に酔いしれてまったり眠る。それが至福の時間。

みずがき秋味ハナイグチ

2013-09-23 21:27:42 | キノコ狩り
今年の9月は散々なものであった。
初旬は飯山の寅さんと黒部に、中旬の3連休はオ-ちゃんと南アルプスへと
わくわく遠征計画が台風のお蔭ですべて水に流れ仕事三昧の日々を楽しむ羽目になる。

疲れた時には野宿がいい。
秋の風情を楽しんで野宿でまったりするなら何と言っても瑞垣の森がいい。
乾ききった森でキノコたちも雨を待ち焦がれていた筈、久しぶりに熊さんとふたり可愛いハナイグチと遊んだ。






和やかな7人家族、可愛い双子の兄弟、まだ若い3人家族、みなウキウキとこの季節を楽しんでいるように見えて微笑ましい。






沢畔に腰をおろして一息いれる。
沢沿いを歩いていたら沢山のイワナがびっくりして走るはしる。






ほんの3時間ほどで篭2つ分の収穫、台風の後の今週がベストウィ-クになったようだ。
熊さんがポリ袋をぶちまけるとゴミだらけのハナイグチが出てきた、僕の篭のキノコと比べると性格の違いが一目瞭然。





沢水できれいに洗ってゴミを落とすとこの輝きになる!





なめこのような幼菌も深い麺ザルに一杯になった。





採れたてのハナイグチを軽く炒めて酒と醤油で煮込んできのこラ-メン、森の恵みを堪能する。






ビ-ルの酔いにまかせて午睡を楽しんだ後は野宿と宴会の準備に取り掛かる。
焚火を起し、テ-ブルをしつらえ、酒を並べ、エアマットの上にシュラフを広げる。
体の芯から森に包まれて眠りたいならテントもタ-プも無い方がいい。





湯がいただけのハナイグチはもみじおろしとポン酢で歯触りとのど越しを味わう。
ちょっと手間がかかるけれど茎は酒と醤油でじっくり煮込むと実はこれが一番おいしい。
酒肴の一品に加えるのもいいのだけれど、ご飯に汁ごとぶっかけてかっ込めば箸が止まらなくなってしまう。






今回のメインディッシュは熊さんのパエリア、ジンライムをやりながら出来あがりを待つひと時を楽しむ。





もうすぐ訪れる錦秋の季節にふさわしい美しい出来栄えになった。





申し分なく旨い、しかもワインに良く合う!




気心の知れた男同士、焚火の前では寡黙なくらいがちょうどいい!
ほろ酔い加減のままシュラフにもぐり込めば浮遊しながら深い森に吸い込まれるような感覚になって眠りに落ちた。





少し寒さを感じて目を覚ますと熊さんがコ-ヒ-を淹れている。
凛と澄み切った森の朝にコ-ヒ-とタバコほど旨いものはない。





この森にはイワナの棲むこんな沢が何本も流れているというのに僕も熊さんも一度もロッドを振ることはなかった。




2日目も山ほどのハナイグチが採れた。
考えてみれば山菜もキノコもイワナも同じような気がする。

そこにイワナが居れば釣れるし、居なければ釣れない。
たくさん釣れれば自分の腕が上がったような気になるのだけれど大きな間違いだと悟る。
殆どの場合、そこに居たから釣れたのだし、居なかったから釣れなかった、ただそれだけのこと。

だから釣り師はイワナのいる渓を求めて何時間でも歩くし、人が来る前に入ろうと早起きにもなる。
釣り師の性といえばそれまでなのだけれど釣れても釣れなくてもお気に入りの森と渓に身を置く時間を楽しむことができればそれでいい。


今シ-ズンの締めくくりは、ひとり黒部の山を歩いて少しの時間だけイワナと遊べたらいいかなあ。



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ぼくがいま、死について思うこと

2013-09-08 01:45:45 | 独り言
シ-ナさんにしては珍しいテ-マだと思って4月下旬リリ-ス早々手に取ってみた。

方々を旅して見聞きした様々な国や民族の葬送の様式(土葬、火葬、風葬、水葬、鳥葬など)が語られている。
それは、それぞれの国や民族の死生観の違いによって葬送の様式がそれぞれに異なっているというものである。
シ-ナさん独自の死生観が説得力ある言葉で語られているのかと期待して読み進んだが、その期待は見事に裏切られた。
僕の先入観が強すぎたためであろうか、この本のタイトルと内容の違いに少々違和感を覚えた次第である。
まあ、紀行文のひとつと言えば言えなくもないのだけれど、、、、、。






先週、僕の近しい人が神に召されました。
突然の訃報に少なからず混乱もしました。

彼女はプロテスタントゆえに、彼女と親しい信徒の方々や近しい人たちとともに何曲かの讃美歌とともに神の御国(みくに)に送られました。
司祭は死生観を平易な言葉で語られ、別れは悲しいことではあるが悩みや苦しみのない神の御国に行くことは祝福すべきことでもあると言われました。
お別れの会は終始和やかに、彼女の生前を讃え、神の御国に行かれることを祝福し、いずれまた神の御国で再会できることを心から信じていると、、、。
あぁ、これが信仰というものの一つの形なのだろうかと、信仰心の薄い僕はそんなことを感じ、垣間見たひとときでもありました。
幾たびかキリスト教の葬送に立ち会っていつも思うことは、あぁ、僕も最期はこんな風に送ってもらえたらいいなあということでした。

仏葬のように、意味も良く分からない導師の読経を聞きながらあの世に送るのも送られるのも何故か空しさを感じてしまうのです。

さて、我ら日本人の殆どは仏教徒であろうと思います。
しかし、殆どは信仰心篤い信徒とはとても恥ずかしくて言えるものではなく、ただ葬式で読経してもらうだけの檀家にすぎません。
自分の菩提寺が禅宗であれ真言宗であれ、その教義すら知らない日本人が殆どであろうし坊さんも説法ひとつ唱えてもくれません。

キリスト教徒は聖書を、イスラム教徒はコ-ランを、絶えず読んで学び、神や教義に準じて生きているのでしょうか?
様々な悩みを抱え、神に救いを求め、信徒同士が姉妹のように親密な絆で結ばれ、お互いに心の支えになっているのでしょうか?
それに引き替え、なんちゃって仏教徒の我らは何を信仰の対象とし、どんな教義を心の支えとして生きているのでしょうか?

憲法もまた然り、我らは日本人でありながら国の最高規範である日本国憲法のなんたるかを深く知らぬままでいます。
学校でも本気で理解させようとせず、我らも本気で学ばず、掘り下げて知ろうとしてこなかった報いなのかもしれません。

信仰心も薄く、憲法さえも深く知らず、
それでも我らは、高い道徳心を持ち、常識をわきまえ、法(犯罪)を犯すこともせず、民族同士で争うこともせず、経済発展を遂げてきました。
信仰心の篤い国々の人たちから見れば、これは摩訶不思議な国民性と映るでしょうし、我ら自身が客観的に見ても同じことが言えるのかもしれません。

あぁ、分からないことだらけです。
まだまだ学ぶべきことがたくさんありますねえ!



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単独行遭難

2013-09-02 00:41:58 | 山歩き.散歩
僕の方向音痴はどうも天性のものらしい。
天性の才が備わっているのなら嬉しいのだけれど天性の方向音痴なんて自慢にもならない。

初めてお客様を訪ねるときには間違いなく道を間違える。
しかし有り難いもので都会には日本語が通じる人が沢山いるので何とか目的の場所には辿りつける。

車を駆るのは好きなのだけれど道迷いは相変わらずである。
今でもカ-ナビが本心では信用しきれずにガイドに楯突いて迷うこともあるけれど何とかなっている。

これは一人で山を歩いていても良くあることで、山地図が悪いのか指導標が悪いのか僕自身が悪いのか真実は闇の中である。
山で道に迷うとき、実は道迷いの初めから直感で分かる、分かっていても誤った道を進んでしまうのが僕の方向音痴たる所以であろうか。
誤った方向に進んでも15分も歩けば道迷いであることが直感で確信になる、もしかしたらこれが僕の天性の才なのかもしれない。

道迷いは実は不思議と楽しいものでもあって、道迷いかと確信したときにさあこれからどうしようかと迷うのは不安以上に楽しいものである。
引き返そうか、このまま尾根まで登ってしまおうか、迷ったままビバ-クしちゃおうか、せっかくビバ-クするなら独り酒でも楽しもうかなんてネ!


さて、本題に入りましょうか。
自由で気ままな故に単独行の魅力に憑りつかれているのはおそらく僕だけではないと思います。
しかし、ひとたびアクシデントが生じた時には単独行ならではの不安と恐怖そして大きなリスクがつきまといます。
連絡はどうしようか、救助を待つべきか進むべきか、食料はどうしようか、ケガの痛みに耐えられるのか、その時の心理状態はどんなだろうか?
本書は実際に単独行遭難した当事者に取材し検証してまとめられた、言わば我ら単独行者のケ-ススタディになるものとして一読の価値ありと思います。







本書に紹介されている遭難の多くが転落や滑落による骨折で動けなくなった事例です。
もしあなたがちょっとした不注意で登山道を踏み外し谷に転落して解放骨折(骨が皮膚を突き破った状態)の重傷を負い
身動きもできない状態で4~5日もの間、ひとり救助を待たなければならない状態に置かれたとしたらどうしますか?

登山届を出していなかったら、家族や友人に行き先や日程を知らせておかなかったら、、、、、
そして携帯電話も通じない谷底であったなら、、、、、救助を期待するのはほぼ絶望的でしょう。
これが単独行の最大のリスクかもしれません、あとは偶然に誰かが遭難場所を通りかかってくれるのを待つしか方法はありません。
パ-ティ山行と違って連絡手段のない単独行遭難の2割が行方不明、つまり遺体さえ見つからない状態にあるというのも頷ける話です。

登山届を出し家族にも知らせておいたとして、救助隊が捜索を開始してくれるのは早くても下山予定日の翌日あたりからになるでしょう。
それまでの間、ツェルトやタ-プがない状態で大雨に降られたらどうしますか、寒さをどのようにして凌ぎますか?
予備の食糧と水が1日分しかないとしたら4~5日間の空腹をどうやって凌ぎ、どのようにして生命を繋ぎますか?

足の骨が皮膚を突き破るほどの骨折の痛みにどうやって耐えますか、数日分の強力な鎮痛剤は携行していますか?
傷口からブクブクと吹き出す出血をどうやって止められますか?
出血が止まらずに死の恐怖におののきながら幾つもの夜を明かす心理状態を想像できますか?


私たちは、いつこのような事態に遭遇するかもしれません。
単独行に必要なもの、それは上に揚げたような周到な事前準備と事故に対する覚悟そして絶対に死ぬものかという強い意志なのかもしれませんね。







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