「三ノ輪(箕輪)」
都電荒川線の終点として有名、昔は、浅草田圃の新吉原が近く、「雨の三の輪の里こえて、田の面に落つる雁の声」の芝居台詞で有名。
南千住から三ノ輪に向かうと、「円通寺」がある。その入り口に黒門が、1868年彰義隊の激戦となった上野戦争の山門である。
至る所に弾痕や刀傷の跡が残っている。彰義隊戦死者200名以上は、見せしめの為放置されたという。
これを「円通院」の和尚が、焼骨し寺内に墓石死節之墓をたてた、その本門はその縁で移された。
「都電荒川線」
現在東京都内を走っている都電は、早稲田~三ノ輪橋を走る都電荒川線一本のみ。
線路は荒川区・北区・豊島区・新宿区の四つの区をまたぎ、全30駅ある12kmの区間を約50分で運行している。
交通手段として何度か利用している、馴染みのある乗り物。終点の「三ノ輪橋」駅である。
「ジョイフル三ノ輪」商店街、下町の雰囲気を今に残した商店街、三ノ輪橋駅と隣接
「三ノ輪橋」とは,かつてあった音無川に架かっていた橋の名前によるもの、三ノ輪とは,かつては東京湾に出た台地の先端部だったことから、
「みのはな(水の鼻)」と呼ばれていたものが,三ノ輪になったといわれている。
音無川(石神井用水)滝野川の王子大堰で石神井川から取水され、王子から北側に用水を分けつつ南西に流れ、
日暮里からは北東に向きを変え最終的には隅田川に落ちていた灌漑水路。三ノ輪で山谷堀・思川などを分ける。
石神井川の北側に分水される根村用水・上郷用水に比して下郷用水とも呼ばれた。
江戸時代に開削された人口水路で、明治後期という比較的早い時期に廃止された。
「浄閑寺」
「生きては苦海 死しては浄閑寺」は、吉原遊女の投げ込み寺としてしられ、1657年から200余年約1万を超える遊女が葬られているという。
遊女たちの骨に雨が降り、リンが燃えて墓地のあちこちで青い火がともるという。
「病気などで死んだ遊女は、吉原遊廓の場合、投げ込み寺と呼ばれた浄閑寺に、「~~売女」という戒名で、文字通り投込まれた」という説もあるが、
それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「~~売女」の戒名は、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など
吉原の掟を破った者に限られていることが、最近の研究で明らかになっている。
無縁の遊女たちの供養塔「新吉原総霊塔」と永井荷風が寺内を散策し、荷風の遺品を埋め荷風碑もある。
永井荷風1879-1959 断腸主人と号した、「アメリカ物語」文名上げる、「闇の叫び」「夢の女」「日記断腸亭日乗」
文化勲章受章、江戸情緒の美を求めた。
次回浅草方面に