syuの日記・気まま旅

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風雪に耐えた松本城

2011-11-18 | 気まま旅

現役の頃、長野県を担当していたので懐かしく暇ができると行ってみたくなる。今回は松本、上田、別所温泉あたりをまわってきた。
約10回ほどになりそう、飽きずにご覧ください。

「諏訪湖」中央高速諏訪エリアから見た湖。諏訪盆地にある断層湖で面積は県内一、浅いので汚染、浄化が必要。
厳寒期には、氷が割れ「御神渡」と呼ばれている(諏訪大社上社の男神が下神の女神の基に通う道)現象がある。
温泉が湧出し観光地となっている。面積13.3km2、周囲17km、深さ6m。

  

400年余の風雪に耐えた
国宝、「松本城」。市は、古くは筑摩、深志と呼んだ、平安初期、信濃(上田)の国府が松本に移された。
中世「信濃一国守護館」の所在地。1590年石川氏が松本城整備し城下町を築いた。以降小笠原、戸田、松平が入封、
1726年以降松平藩戸田氏6万石の城下町に。

江戸時代は、糸魚川、飛騨、伊奈、等の街道の中心地で商業都市として発展した。その丸の内に城があり、「深志城」「鷲湖城」ともいう。
小笠原貞慶が改名し松本城を、その後石川数正、その子康長が継ぎ1594年完成。天守は屋根五重、内部六重である。姫路城、彦根城、犬山城と並ぶ城。

  

小笠原氏の家臣等が林城取り囲むように守りを固め、その後甲斐の武田信玄が、「小笠原長時」を追い占領し信濃の拠点にした。
1582年本能寺の変「小笠原貞慶」が回復し、「松本城」と改名。徳川家康に従い、小笠原氏は、下総へ、豊臣秀吉は「石川数正」を松本城に。
数正・康長父子は、天守三棟、御殿、太鼓門、黒門、櫓、堀などで本丸、二の丸を固め三の丸に武士を集めた。城下町の経営のも尽力した。

    

築城技術を今に伝えている。天守六階、天守四階、天守三回、特徴的窓、丸太の柱、渡り櫓、石落としの狭間、月見櫓、太鼓門
黒門、御殿跡など、風格ある環境景観と歴史、文化を感じさせる。     観覧料¥600

  

木造天守としては、日本最古の城「松本城」。歴代藩主石川数正、康長(1590-1613)。小笠原秀政、忠真(1613-1617)
戸田康長、康直(1617-1633)。松平直政(1633-1638)。堀田正盛(1638-1642)。水野9代~14代(1642-1725)
戸田15代~23代(1726-1869) 六家二十三代のめまぐるしい交替。

  

石川数正 ~1592 家康を裏切った老臣、今川方から家康の子「信康」を奪還し西三河の旗頭。家康のもとを出て、秀吉に臣従し、
信濃の国松本8万石に転封された。
家康背信行為説、秀吉の人柄に魅了された数正は、同僚から顰蹙を買った、家康のスパイなどと、周囲からは、家康裏切り者として寂しく没している。

城内で「菊まつり」が開催されていた。
  

次回は旧開智学校方面へ。