「浅草」江戸中期浅草寺の裏手 奥山には見世物やが並んでいた。天保の改革で「中村」「市村」「守田」江戸芝居三座が浅草の色彩を強めていた。
浅草寺一帯を浅草公園と云っていた。1区観音堂、2区仲見世、3区伝通院、4区木馬館、5区花やしき、6区映画興行街と1884年整備された。
大正のオペラ、昭和の軽演劇女剣劇などが次々出来て行った。1970年木馬館、国際劇場閉館し活気を落とした。
年中行事の3月観音示現会・金龍の舞、5月三社祭、7月ほうずき市、8月カーニバル、11月酉の市、12月羽子板市などの賑わいは
衰えていない。
「助六」碑は、「助六にゆかりの雲の紫を弥陀の利剣で鬼は外なり」団洲、の歌を刻む。九世市川団十郎が自作の歌を揮亳したもの「団洲」は団十郎の雅名である。
歌碑は明治12年、九世市川団十郎が中心となり、日頃から世話になっていた日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して彦兵衛の
菩提寺仰願寺(清川1-4-6)に建立したが、大正12年の関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが後に発見しこの地に再造立された。
ほぼ完成のスカイツリー 花川戸公園

姥ケ池碑・昔隅田川に通じた大池で、明治24年に埋め立てられた。姥ケの池の伝説は、浅草寺本堂に展示してある大きな絵馬の「一ツ家」にも描かれている。
浅茅ケ原の一軒家に老女と若い娘が住んでいて、道行く旅人を家に泊めてはその頭を叩き殺していた。
それを知った浅草観音は旅人に変身してその家に泊まり、老女は例によって旅人をしとめるが、なんと殺したのはわが娘であった。
なげき苦しんだ老女は仏眼を開き、大きな竜となって池の中へ消えていった。
その池はここ、「花川戸公園」辺りに位置し、園内には人工の池が作られ、碑もある。

「仲見世商店街」は、「新」といえば、新仲見世に対して、ただの仲見世と言えば、江戸の仲見世、昭和の新仲見世で区別している。
浅草 最大の商店街。 浅草寺山門

「浅草寺」鎌倉時代の『吾妻鏡』に、181年、鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せている。
また、1192年、鎌倉の勝長寿院で後白河法皇の四十九日法要が営まれた際、浅草寺の僧が参加。
1590年、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。
浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは1631年、1642年に相次いで焼失したが、3代将軍徳川家光の援助により、
1648年に五重塔、1649年に本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた。
浅草寺境内

「仲見世・新仲見世・伝通院通り」伝通院から浅草寺の参道の両側に,びっしりと商店が軒を並べ石畳の道は賑やかな門前町を形成している。
小店ばかりだが,江戸時代からつづく老舗が多く,扱う品もさまざまで,
仲見世商店街 伝通院通り

「六区通り」 浅草の街は浅草寺を中心に、北は言問通り南 は雷門通り、西は国際通り東は隅田川に囲まれた一体を浅草。
その中の繁華街が「六区通り」と云う。
縦横無尽に幾つもの細い道がひしめき合っている。
一番の繁華街 六区通り

国際道りを横断、菊水通りの東本願寺へ。
浅草寺一帯を浅草公園と云っていた。1区観音堂、2区仲見世、3区伝通院、4区木馬館、5区花やしき、6区映画興行街と1884年整備された。
大正のオペラ、昭和の軽演劇女剣劇などが次々出来て行った。1970年木馬館、国際劇場閉館し活気を落とした。
年中行事の3月観音示現会・金龍の舞、5月三社祭、7月ほうずき市、8月カーニバル、11月酉の市、12月羽子板市などの賑わいは
衰えていない。
「助六」碑は、「助六にゆかりの雲の紫を弥陀の利剣で鬼は外なり」団洲、の歌を刻む。九世市川団十郎が自作の歌を揮亳したもの「団洲」は団十郎の雅名である。
歌碑は明治12年、九世市川団十郎が中心となり、日頃から世話になっていた日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して彦兵衛の
菩提寺仰願寺(清川1-4-6)に建立したが、大正12年の関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが後に発見しこの地に再造立された。
ほぼ完成のスカイツリー 花川戸公園



姥ケ池碑・昔隅田川に通じた大池で、明治24年に埋め立てられた。姥ケの池の伝説は、浅草寺本堂に展示してある大きな絵馬の「一ツ家」にも描かれている。
浅茅ケ原の一軒家に老女と若い娘が住んでいて、道行く旅人を家に泊めてはその頭を叩き殺していた。
それを知った浅草観音は旅人に変身してその家に泊まり、老女は例によって旅人をしとめるが、なんと殺したのはわが娘であった。
なげき苦しんだ老女は仏眼を開き、大きな竜となって池の中へ消えていった。
その池はここ、「花川戸公園」辺りに位置し、園内には人工の池が作られ、碑もある。



「仲見世商店街」は、「新」といえば、新仲見世に対して、ただの仲見世と言えば、江戸の仲見世、昭和の新仲見世で区別している。
浅草 最大の商店街。 浅草寺山門


「浅草寺」鎌倉時代の『吾妻鏡』に、181年、鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せている。
また、1192年、鎌倉の勝長寿院で後白河法皇の四十九日法要が営まれた際、浅草寺の僧が参加。
1590年、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。
浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは1631年、1642年に相次いで焼失したが、3代将軍徳川家光の援助により、
1648年に五重塔、1649年に本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた。
浅草寺境内


「仲見世・新仲見世・伝通院通り」伝通院から浅草寺の参道の両側に,びっしりと商店が軒を並べ石畳の道は賑やかな門前町を形成している。
小店ばかりだが,江戸時代からつづく老舗が多く,扱う品もさまざまで,
仲見世商店街 伝通院通り


「六区通り」 浅草の街は浅草寺を中心に、北は言問通り南 は雷門通り、西は国際通り東は隅田川に囲まれた一体を浅草。
その中の繁華街が「六区通り」と云う。
縦横無尽に幾つもの細い道がひしめき合っている。
一番の繁華街 六区通り


国際道りを横断、菊水通りの東本願寺へ。