吉祥寺はは杉並、練馬に接し、平坦、1928年東京府に編入、江戸幕府のカヤ刈場御鷹場、ここも明暦の大火で江戸から移住した人々が開拓し商業地域に発展。
大学も多い、その駅から400m南西に井の頭公園がある。
「井の頭公園の御茶ノ水」湧水は、1917年に開園した日本で最初の郊外公園。
公園の歴史は、古くは豊臣秀吉が全国統一を成し遂げた安土桃山時代末期に。江戸を中心に関東地方を治めることになった徳川家康は、市民の飲み水を確保するため、
この地にある七井の池(7つの湧水があったことから、こう呼ばれた)の水質調査を命じ、日本で最初の上水道となる自然流路の神田上水を完成させた。
江戸時代には徳川将軍家の鷹場となり、歴代の将軍からも愛されたこの一帯。初代・徳川家康はお茶をたてるのに、この湧水池の水を用いたと言われ、
現在でも「お茶の水」という通称で残されている。
3代・家光には「1番の井戸」と絶賛され、現在では公園のシンボルともなっている「井の頭池」の呼び名を与えられた。
御殿山エリアを中心にケヤキ、イヌシデ、ムクノキ、コナラといった広葉樹、メタセコイア、ラクウショウなどの針葉樹も立ち並び、武蔵野の原風景の代名詞
とされる雑木林の面影を今に伝えている。
家康が好んだ湧水
公園内に、詩人「野口雨情」の書斎(植物園)と公園中央に碑が立っていた。野口雨情は、1882年 北茨城市に生まれ、1924年 から武蔵野市に住んだ。
十五夜お月さん」や「七つの子」「赤い靴」「青い眼の人形」などの童謡詩の作者として知られ、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人といわれている。
野口雨情の碑は全国に数か所あり、ここはそのひとつ。1952年 に「東京雨情會」が建立。
啼いてさわいで、日の昏れ頃は、葦に行々子(よしきり)はなりやせぬと「井の頭音頭」の一節が刻れていた。
野口雨情の碑
「三鷹井心亭」は、市民の施設で、木造数奇屋造りの茶室と和室大広間それに庭園のある純和風建築、庭には「太宰治の家から移植された百日紅(さるすべり)の木がある。」
この木は道路の近くに立っていて、一般道からも見る事ができ「太宰治ゆかりの百日紅という事で説明板が建てられていた。
施設は、市民が茶道・華道・歌会などの目的で利用することができ、また「寄席井心亭」という落語会が毎月1回開かれていると云う。
「太宰治」1909-1948 無頼派作家 青森県 津軽の大地主で封建的な家庭 弘前から東大仏文科 共産主義非合法活動。
「思い出、晩年、富嶽百景、お伽草紙、戦後 斜陽、人間失格」。
39歳で玉川上水入水自殺 4回 苦難と波乱の人生 「グッドバイ」が遺作となる。山本有三を尊敬していた。
太宰の家にあった百日紅
太宰治・森鴎外の眠る寺、禅林寺。
「禅林寺と三鷹駅」は、その寺地750坪を駅の敷地として寄附し、JRは、車庫敷地等の買収に着手、昭和5年に待望の三鷹駅が開設された。
現在にいたり、禅林寺も現在地に移転している。
禅林寺
禅林寺墓地には、「太宰治」本名島津修治 昭和26・6・13没
「森鴎外」本名森林太郎 大正11・7・9没の墓と、明暦大火慰霊塔などがある。
太宰治の墓 森鴎外の墓
「山本有三」 1887-1974 栃木都賀 東大独文卒 「波、女の一生、路傍の石」参議院議員 昭和40年文化勲章 86歳で亡くなる。
記念館は、1936-1946まで生活、路傍の石、米百俵、ミタカ小国民文庫、「三鷹は忘れがたい土地」と語っている。
有三の生涯、作品、施設、として公開。建物は、大正末期本格的洋風建築で個性的デザイン、1994年三鷹市の文化財指定に、
武蔵野台地と玉川上水、水と緑の中にどっぷりと建っている「有三記念館」 下連雀2丁目になる。入館料¥300
山本有三記念館と広大な庭園
次回は、三鷹駅から。
大学も多い、その駅から400m南西に井の頭公園がある。
「井の頭公園の御茶ノ水」湧水は、1917年に開園した日本で最初の郊外公園。
公園の歴史は、古くは豊臣秀吉が全国統一を成し遂げた安土桃山時代末期に。江戸を中心に関東地方を治めることになった徳川家康は、市民の飲み水を確保するため、
この地にある七井の池(7つの湧水があったことから、こう呼ばれた)の水質調査を命じ、日本で最初の上水道となる自然流路の神田上水を完成させた。
江戸時代には徳川将軍家の鷹場となり、歴代の将軍からも愛されたこの一帯。初代・徳川家康はお茶をたてるのに、この湧水池の水を用いたと言われ、
現在でも「お茶の水」という通称で残されている。
3代・家光には「1番の井戸」と絶賛され、現在では公園のシンボルともなっている「井の頭池」の呼び名を与えられた。
御殿山エリアを中心にケヤキ、イヌシデ、ムクノキ、コナラといった広葉樹、メタセコイア、ラクウショウなどの針葉樹も立ち並び、武蔵野の原風景の代名詞
とされる雑木林の面影を今に伝えている。
家康が好んだ湧水
公園内に、詩人「野口雨情」の書斎(植物園)と公園中央に碑が立っていた。野口雨情は、1882年 北茨城市に生まれ、1924年 から武蔵野市に住んだ。
十五夜お月さん」や「七つの子」「赤い靴」「青い眼の人形」などの童謡詩の作者として知られ、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人といわれている。
野口雨情の碑は全国に数か所あり、ここはそのひとつ。1952年 に「東京雨情會」が建立。
啼いてさわいで、日の昏れ頃は、葦に行々子(よしきり)はなりやせぬと「井の頭音頭」の一節が刻れていた。
野口雨情の碑
「三鷹井心亭」は、市民の施設で、木造数奇屋造りの茶室と和室大広間それに庭園のある純和風建築、庭には「太宰治の家から移植された百日紅(さるすべり)の木がある。」
この木は道路の近くに立っていて、一般道からも見る事ができ「太宰治ゆかりの百日紅という事で説明板が建てられていた。
施設は、市民が茶道・華道・歌会などの目的で利用することができ、また「寄席井心亭」という落語会が毎月1回開かれていると云う。
「太宰治」1909-1948 無頼派作家 青森県 津軽の大地主で封建的な家庭 弘前から東大仏文科 共産主義非合法活動。
「思い出、晩年、富嶽百景、お伽草紙、戦後 斜陽、人間失格」。
39歳で玉川上水入水自殺 4回 苦難と波乱の人生 「グッドバイ」が遺作となる。山本有三を尊敬していた。
太宰の家にあった百日紅
太宰治・森鴎外の眠る寺、禅林寺。
「禅林寺と三鷹駅」は、その寺地750坪を駅の敷地として寄附し、JRは、車庫敷地等の買収に着手、昭和5年に待望の三鷹駅が開設された。
現在にいたり、禅林寺も現在地に移転している。
禅林寺
禅林寺墓地には、「太宰治」本名島津修治 昭和26・6・13没
「森鴎外」本名森林太郎 大正11・7・9没の墓と、明暦大火慰霊塔などがある。
太宰治の墓 森鴎外の墓
「山本有三」 1887-1974 栃木都賀 東大独文卒 「波、女の一生、路傍の石」参議院議員 昭和40年文化勲章 86歳で亡くなる。
記念館は、1936-1946まで生活、路傍の石、米百俵、ミタカ小国民文庫、「三鷹は忘れがたい土地」と語っている。
有三の生涯、作品、施設、として公開。建物は、大正末期本格的洋風建築で個性的デザイン、1994年三鷹市の文化財指定に、
武蔵野台地と玉川上水、水と緑の中にどっぷりと建っている「有三記念館」 下連雀2丁目になる。入館料¥300
山本有三記念館と広大な庭園
次回は、三鷹駅から。