syuの日記・気まま旅

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吉祥寺と井の頭公園

2012-12-12 | syu散歩

吉祥寺界隈は、各デパート、名店街、専門店、ステーションデパート、飲食店と若者にうけ、原宿、下北沢と並んで急速に発展、静かな住宅街から繁華街へと変遷している。
駅前の「サンロード」「ハーモニカ横丁」「仲見世」と小さな、特徴ある店が密集し見て歩くのも楽しい。通りに名がついていて、サンロード、ロンロン、
チェリナード、ローズナード、平和通り、仲見世、ターミナルエコー、シネマビル、井の頭通り。

吉祥寺は、武蔵野台地の茅場であったが、1657年の明暦の大火により、文京区の本郷元町、吉祥寺門前の住民が、五日市街道沿いに移住。
1889年甲武鉄道(現中央線)が開通している。1934年京王帝都が延長乗り入れ、1923年関東大震災で、造成され住宅や学校が移されていく。

吉祥寺駅前
    

「井の頭自然文化園」は、御殿山本園と井の頭池の突き出た「中之島」にある。本園は、つるの放し飼い、リスの小径、猿山等と花壇と彫刻
(北村西望氏)500点が
展示されている。ペンギン池、水鳥池、水生植物などもある。有料。

  

「井の頭恩賜公園」三鷹市、武蔵野市の都立公園。面積385,844.m²、競技場(400mトラック)、テニスコート(6面)、野外ステージ、ボート場等、
井の頭池(弁天堂近辺)と「お茶の水」と呼ばれる湧水口がある。
一段高が文化園を御殿山と云い、一段低い部分が公園で池は、「七井ノ池」と呼ばれ7か所からの湧水がある。江戸時代は、飲料水として利用されていた。
池には、多数の鴨が渡って來る。

  

井の頭は、三鷹市北東部の地区で、神田上水、南に玉川上水に流れ、名は徳川家光が数回の鷹狩で、名付けたと云う。武蔵野の面影が一番感じるところでもある。

  

京王電鉄井の頭線・井之頭公園前駅は、井の頭線12.1km(渋谷ー吉祥寺)、2面2線、乗降 6,590人/日 -2011年- 開業年 1933年(昭和8年)。



歌川広重「名所雪月花・井の頭の池 弁財天の社雪の景」がある。
三宝寺池(石神井公園)・善福寺池と並び、武蔵野三大湧水池として知られる「井の頭池」を中心に、日本さくら名所100選に選定されている。

    

ボート乗り場も休業中、広い池でのんびり水鳥が遊んでいた。

  

動物園、開園の歴史は、1905年、渋沢栄一が井の頭御殿山御料地の一角(現在の自然文化園本園)を皇室から拝借して、非行少年を収容する東京市養育院感化部を創設。
1917年、御料地全体が東京市に下賜され、「井の頭恩賜公園」が開園。
1934年、現在の分園の位置に「中之島小動物園」が開園。1939年、井の頭学校が移転すると、この地に大きな動物園を作る計画が進められた。上野動物園に匹敵する「一大動物園」が構想されたが、戦時中のために予算と物資が不足し、大型動物を集めることができず、「自然生態観察園」という趣旨に
変更されて1942年5月17日に開園した。開園当時にはキリンが2頭飼育されていたが、2頭とも終戦までに死亡している。

目玉となる大型動物はアジアゾウの「はな子」で、その他にはニホンカモシカやアライグマなど可愛らしい動物が飼育されている。
樹木が多く、地元の住民の憩いの場となっている。「モルモットコーナー」や「ヤギ舎」、「リスの小径」のように動物と触れ合ったり、間近で観察したりできる施設が多い。
ツシマヤマネコの分散飼育に取り組んで、体調不良で公開を中止していたが、2008年公開。

動物園入口
  

冬の備え、桜の古木に藁がまかれていた。
    

「園内の弁財天」、井の頭池は豊かな湧水を誇っている。園内武蔵野市側の御殿山遺跡からは縄文時代の竪穴式住居遺跡も出土することから、井の頭池は古くから
人間の生活に不可欠な水源となってきたことが窺える。
井の頭池西端の島に現存する井の頭弁財天(別当寺は天台宗大盛寺)は、その起源が、平安時代中期に六孫王経基が伝教大師作の弁財天女像を安置するため
この地に建てたお堂であるとされる。
弁財天の縁起には、その後源平合戦の頃、源頼朝が東国平定を祈願し、その大願成就ののちに改築されたことが伝えられている。
その後、鎌倉時代末期の元弘の乱の際に、新田義貞と北条泰家との対戦の兵火で弁財天が焼失した。
数百年の間放置された後、江戸幕府三代将軍徳川家光により弁財天が再建された。

    

「明静山圓光院・大盛寺」は、通称 井の頭辨才天。開創は、不詳、本尊 薬師如来。

    

神田川の水源、 井の頭の池に朱塗りの姿を映す弁天堂、 その本坊が「大盛寺」。
江戸時代神田上水の清涼で豊富な水は弁天様の御水として江戸城内の飲料水に供されるとともに、 神田、 日本橋、 芝神明さらには水船と称される運搬船によって
墨田川を渡り本所、 深川界隈にまで生活用水として供給。御水の恩恵を戴いていた将軍家や江戸下町庶民の篤い弁才天信仰もあった。
将軍家光の弁天堂 は、大正13年焼失後 の造営、 池辺の石造文化財十数点は総て江戸下町の人びとが弁天様へ寄進したもという。
弁天様が技芸、 音曲をも司るといわれ、中村勘三郎、 瀬川菊之丞ほか大勢の江戸歌舞伎役者の信仰も集めていた。
浮世絵師・広重も度々参詣に訪れては四季折々の弁天堂を描いる。

  


次回は千歳烏山方面へ。