「横須賀」は、三浦半島中央部、中世以来横須賀で、須賀・砂地の浜の横を意味している。北東部と浦賀半島の沿岸にリアス式海岸が発達し内陸部丘陵性台地や
谷やトンネルが多い。縄文遺跡が散在する町で、中世初期から三浦党の拠点。平作川に沿って古東海道が通り、三浦、房総への交通要地であった。
江戸時代は、幕府直轄地で浦賀に番所が置かれた。1809年 観音崎、平根山麓の鶴崎に台場を置き、江戸湾海防の役割を果たしていたs。
幕末のぺりーアメリカ東葉艦隊「黒船」が浦賀に来航し、久里浜で開国を迫った所でもある。
どぶ板通り
「どぶ板通り商店街」は、明治時代から第二次世界大戦終了時までは大日本帝国海軍横須賀鎮守府の門前町として栄え、戦後は進駐軍・在日アメリカ軍横須賀海軍施設の
兵隊向けに土産物店、肖像画店、バーや飲食店、テーラーショップなどが栄えた。
ベトナム戦争の頃と比較すると米兵向けのバーや飲食店は数を減らし、2000年代には日本人若者向けのアパレルショップ・美容院・アクセサリショップなども栄え、
横須賀ならではのスカジャン専門店やミリタリーショップなども観光客に人気がある。
アメリカと日本の文化が融合した独特の雰囲気を持つ商店街で、横須賀に縁がある有名人の手形が通りの路面に埋め込まれたり、週末にはフリーマーケットや
ストリートライブ、パフォーマンスが開催され、年4回開催される「どぶ板バザール」は多くの人で賑わうイベントとなる。
どぶ板通りにある建物に,「本町」とローマ字表示されていることから、米兵の間ではどぶ板通り一帯のことを「ホンチ」「ハンチ」などと呼んでいる。
かつて通りの脇を流れていたドブにたくさんのドブ板が架けてあったことからこの名が付けられたという。
基地の米兵相手ににぎわいを見せていたが、今日では、日本人向けに米軍の放出品を中心にTシャツやジーパン、ワッペン、グッズなどを扱うショップが並び、
発祥の地の「スカジャン」も健在。
横須賀のどぶ板通りといえばスカジャン。スカジャンといえばどぶ板通り。何軒かのスカジャン専門店がある。戦後間もなくから店を構えていると云う。
ジャンパーの背中に派手な刺しゅう。進駐軍が日本駐留のお土産などに買っていった洋服。刺繍店もある。
今日は年末大売出しのちんどん屋さん
諏訪大神社
かつての三浦四十八郷の総鎮守として、その由緒とたたずまいを今日に伝える諏訪大神社の創建は足利義満の頃の康暦2年(1380)で、
三浦氏の三浦貞宗が古谷山横須賀城(長峰城)の城口に当るこの地に、信州の諏訪大社より上下の両諏訪明神を勧請したことに始まる。
江戸時代の初期に、三浦一円の農政を管掌した代官、長谷川三郎兵衛により、農漁業の守護神を祀る神社にふさわしく大改修された。
現在の社殿は、明治24年(1891)に建て替えたもので、第二次世界大戦で社殿も傷み、昭和55年(1980)の創立600年に併せて改修し今日に至る。
諏訪大神社
「龍谷山良長院 」
元は米軍基地内の泊浦にあり、本尊は釈迦三尊像、開山堂にあります。横須賀市内唯一の鉄製の鉄仏です。
瀬尾重兵衛良長が創建したことにより、その名前から良長院となりました。
瀬尾重兵衛良長は、泊町の長峯城城主。どの戦で亡くなったのかわかっていませんが、没年は1253年と記されている。
本堂の脇に小さくたっているのが、出世閻魔堂。中には閻魔様が鎮座ましましている。脇には石塔が所狭しと並べられている。
その後、寺は次第に荒れ果てていき、徳川家康の信認の厚かった長谷川七左衛門長綱が三浦郡の総代官となり、前任地だった駿河の之原臨乎僧正を開山として、現在地に良長院を再建した。