「玉川上水緑道」は、福生市、昭島市、立川市、小平市、三鷹市、武蔵野市と流れ樹木、草花と植物の宝庫である。
三鷹市牟礼に来た、牟礼は、都・市のほぼ中央部、古語に無礼、無連が牟礼になったと聞くが、牟礼の中央に「明神山・明神社」がその由来とも言われている。
現在は、牟礼団地、住宅街となり人気の街。所々に、農家直販の野菜を売る無人店がある。
隣接する井の頭にも含まれる部分がある。後、三鷹村を経て三鷹市に編入された。また昭和20年代に発生した「牟礼事件」の舞台として知られている。
「牟礼事件」は、1950年、渋谷区神南町に住む祝田玉穂さん(21)が突然失踪、土地家屋と家財道具が何者かに売り払われていた。
1952(昭和27)年秋、売買に関わっていた佐藤誠など二名を逮捕。牟礼の神社わきで玉穂さんの遺体が発見された。
死刑判決を受けた佐藤は再審を訴えつづけたが、1989年、獄中で病死した。最終判決は無罪。
「神明神社」は、三鷹・牟礼の氏神として、牟礼の里に鎮座、1537年、約471年の歴史がある。緑豊かな井の頭公園のほど近く三鷹の一番高い所にある神社。
御祭神の天照大神様、一家の家内安全から健康その他で、稲荷神社を合わせてお祀りし、商売繁盛等にもご利益のある神社とされている。
扇谷上杉氏の家臣・難波田弾正の立て籠もる深大寺城に対して、北条氏綱の家臣・北条綱種がこの地に陣を構え、陣内鎮護として芝の飯倉神明宮(芝大神宮)から
御分霊を勧請したことを創祀とする。綱種は、牟礼を拓いた北条康種の父である。
1868年、稲荷山に祀られていた稲荷神社を合祀。牟礼地区の鎮守として地域住民の崇敬を集めている。
地域の「牟礼の里公園」は、1995年、三鷹市が「昔ながらのふるさとの農風景を保全した公園」としてオープン。
面積は約5800㎡で規模はそれほど大きくはないが、園内には中央部の広い芝生の広場を囲むように栗林や竹林がある。
芝生の広場は斜面になっており、全体的に平地の三鷹の市域では最も標高が高いところにあるため見晴らしがよい。
芝生広場の上の富士見台からは晴れた日には富士山を望むことができるという。
園内は手入れが行き届いていて公園としてのまとまりがよく、くつろげる。秋には「牟礼の里秋祭り」が開催され、地域で各種の催し物が開催される。
「三木露風」は、1889年 - 1964年、日本の詩人、童謡作家、歌人、随筆家。本名は三木 操。異父弟に映画カメラマンの碧川道夫がいる。
近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並び「白露時代」と称された。
若き日は日本における象徴派詩人。1963年、紫綬褒章受章。1964年、三鷹市下連雀郵便局から出てきたところを、タクシーにはねられ、75歳で死去。
没後、勲四等瑞宝章。1928年より在住し、三鷹市に墓がある。
「赤とんぼ」は、三木露風の作詞、山田耕筰の作曲による、日本の代表的な童謡の一つ。
夕暮れ時に赤とんぼを見て、懐かしい故郷を思い出すという、郷愁にあふれた歌詞である。三木が1921年(大正10年)に、故郷である兵庫県揖保郡龍野町で
過ごした子供の頃の郷愁から作ったといわれ、童謡集「眞珠島」で発表された。1927年(昭和2年)に山田が曲をつけた。
三鷹牟礼「花と緑の広場」は、平成22年「花と緑の広場」がオープン。この広場は農家の地主が無償で借り土地を暫定的に整備し、地域の住民に開放しているという。
面積は約6,900㎡あり、芝生広場や広大な敷地を活かした花畑などがある。
広場の特徴は、創り上げられた公園ではなく、みんなの手で創っていく公園という点、ボランティア花壇やボランティアによる庭づくり、種まきから行う花畑など、
花や緑に触れ合いながら楽しむことのできる広場となっている。
世田谷区北烏山に入る。この先に中央自動車道が見えた。烏山寺町である。
そこには、二十六の寺院がまとまって並んでいる。まず、日蓮宗「妙寿寺」の楼門を潜る。
「妙寿寺」は、法華宗本門流、本覚山と号し、1631年 江戸谷中に日受上人が妙感寺と号して開山。
1661-1673年以前に本所猿江へ移転、猿江稲荷社の別当を勤めると共に、寺号を「妙寿寺」と改め、関東大震災で罹災後、烏山に移転している。
妙寿寺には、心学者「中沢道二」の墓。豪徳寺の梵鐘、浅草寺弁天山の梵鐘などの作者が鋳造した梵鐘などがある。江戸心学参前舎 開祖 中沢道二翁墓と刻まれた碑石がある。
道二は、京都上京新町で生まれ、父と織職をしていたが、後に石田梅厳の教を受け、手島堵安の門に入り、塩町で心学道話を講じ、また1791年神田相生町に参学舎をたてて、
1803年、79歳で没している。
心学は儒教などより平易に身近な例をもって説き、心の持ち方によって不安を解消する道を教え、私心を去り、倹約・正直・堪忍を守り、足るを知って分に安んぜよというのである。
これは江戸市民、なかでも商人に歓迎され、学ぶ者が多かったといわれている。(世田谷社寺と史跡より)。
「専光寺」は、1603年 穩譽上人専光大和尚により品川に開基。 後に馬喰町に移るが明暦の大火により浅草北松山町に移る。
1927年 関東大震災後、当地に移転、現在に至る。
1944年 敷地の拡張にせまられ南側へ352坪拡張。うち300坪は世田谷野毛田村長次郎氏の寄進によるという。
これにより全敷地1000坪余となり、喜多川歌麿(江戸時代を代表とする浮世絵師)の墓は中央に位置し歌麿寺として境内地も整った。
「永願寺」は、真宗大谷派寺院、横河山と号し、1617年 越後の僧浄林坊浄順が浅草に創建、明暦3年の大火により報恩寺内へ、1811年下谷、昭和11年に当地へ移転した。
次回は千歳烏山寺町の続き。