「古河街道」
前橋古河線を名乗ったが、1993年に館林市赤土町から茨城県古河市まで間の道路が国道354号に昇格したため、現在の名称に変更された。
群馬・埼玉(加須市(旧北川辺町)・茨城(古河市)県道であった。
太田市竜舞町付近から館林市北成島町交差点までは、国道122号と重複する。
前橋市中心部から伊勢崎市、太田市の中心部を通過して終点へと至る。群馬県内の都市間連絡道路として国道50号、国道354号とともに重要な道路。
そのため交通量も全線に渡って多いが、車線数は駒形バイパス区間と太田市中心部の国道407号との重複部分が4車線になっている以外はほとんど2車線で渋滞が多発する街道。
「新田町」は、県南東部・利根川北岸。奈良時代は北部に「東山道」が通り、日光例弊使街道・銅山街道が交差し、宿場町であった。
「世良田・東照宮」
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世良田は、徳川氏発祥の地が近い。隣町には新田義貞の出身地新田町もある。
徳川氏は、その新田氏の傍系にあたるのである。それによって、この父祖の地である世良田に建立された。
現在の建物は、江戸初期天海僧正によって、この地に移築されたもので、もともとは徳川秀忠公によって日光に建立された東照社の社殿である。
現在の日光東照宮を新築するにあたり、いままでの東照社社殿を天海が拝領し、世良田の地に移されたのである。
この地域は、利根川沿いにあり、河川交通の要衝でもある。
また中世関東における文化の中継地、 世良田は、関東天台宗の学問の中心地である長楽寺もあり、この東照宮ももともと長楽寺の境内に建立されたものである。
世良田東照宮・徳川家発祥の地
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「新田荘遺跡」-中世を代表する荘園の遺構。
太田市新田地区を中心として11箇所に点在する新田氏の遺跡が一括して国の史跡指定に。
荘園は十二世紀の中ごろ新田義重によって開かれもので、はじめは旧新田町南部と尾島町付近を再開発して成立。
しだいに新田全域・太田市一帯に拡大し、新田氏は源氏の有力な一族として栄え、鎌倉攻めに挙兵した「新田義貞」が良く知られている。
生品神社境内 太田市新田市野井町・反町館跡 太田市新田反町・江田館跡 太田市新田上江田町・重殿水源 太田市新田市野井町
矢太神水源 太田市新田大根町・総持寺境内 太田市世良田町・長楽寺境内 太田市世良田町・東照宮境内 太田市世良田町
明王院境内 太田市安養寺町・円福寺境内 太田市別所町・十二所神社境内 太田市別所町、指定
上番所 東照宮平成27年・400年式典が 銅灯籠
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徳川家光が日光東照宮の造り替えを実施したときに、旧社殿を移築させたもの。
拝殿、唐門、本殿が国の重要文化財に指定されている。また日本一大きい鐵灯籠も国の重要文化財に指定.
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「世良田氏と松平氏」
政親の祖先である世良田頼氏は三河守であり、三河の支配者の先祖として、着眼した清康は、
自身の安祥松平家の世襲の通称「次郎三郎」を用い、「世良田次郎三郎清康」と称したという。
清康の孫の松平家康は初め藤原氏の子孫と称していたが、三河国統一を完成させると再び祖父の世良田氏=新田源氏末裔の主張を行うようになった。
1566年に朝廷に働きかけて首尾よく得川義季の末裔であるとの勅許を受けるが、源姓ではなく藤原姓の徳川氏としてしか認められることが出来なかったので、以後も藤原姓を名乗ったという。
しかし、豊臣秀吉政権の傘下に入ったころから、再び新田源氏の末裔であるとの主張を繰り返し始め、その頃安房の里見氏(新田一族)に送った書状では、徳川氏と里見氏が新田一族の同族関係にあることを主張している。
家康は1590年に関東へ移封された前後には徳川氏を藤原姓ではなく源姓の家として公認させることに成功していたようで、新田一族に繋がる岩松氏の末裔を召し出して新田氏の系譜を尋ねている事項が記録にある。
この過程で家康が整理させた徳川氏の系譜では、松平氏の祖は、親季の子で、政親の兄の親季の遺児とする有親(長阿弥)ということにされている。
その伝承によると、親季の戦死後、その子の有親も南朝方として戦った(信濃で戦死したとも言う)。
有親の子世良田親氏は北朝方の追捕を逃れて時宗の僧となって徳阿弥と称し、流浪した。
やがて三河国に流れつき、加茂郡松平郷の領主 松平信重(左衛門少尉)の娘婿になり、還俗して松平氏の名跡を継ぎ松平親氏(松平太郎左衛門親氏)と名乗ったとする。
七代将軍家継も幼少時世良田を称している。
東照宮境内
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「新田公並一族従臣忠霊供養塔」ー昭和16年、世良田村有志十数名からなる発起人により、
組織され、その呼びかけに応じた県の内外数百名に及ぶ篤志家と世良田国民学校児童をはじめ各種団体の賛同により、その浄財が寄せられ完成した。
新田義貞公戦没して六百余年、公の事蹟は国民の広く知るところであり、国や県等においても神として奉斎されているが、新田一族のそれはあまり世に現ず、従臣に至ってはほとんど顧みみられない現状を遺憾とするもの。
太平記により、堀口貞満の言を借りれば「義を重んじ節に殉じて死屍を戦場に曝した者は、一族百三十二人、郎党士卒八千余人」とある。その後の転戦を合せれば、万余に及ぶ将兵が、二度と再びふるさとの地を踏むことなく異郷の土と化し、ここに義貞公と並んで新田一族従臣の忠霊を供養のため造塔、、
新田公並一族・供養塔
「長楽寺」
山号ー世良田山・宗派ー天台宗・本尊ー釈迦如来・創建年ー1221年・開基ー世良田義季
長楽寺お堂
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臨済宗の僧[1]栄朝を開山として創建されたという。
早い時期から官寺として扱われていた。室町時代初期(南北朝時代)には関東十刹のひとつに列せられ、開基当初は臨済宗であったが、徳川家の祖とされる世良田義季(得川義季)が創建したとされることから徳川家の帰依を得、江戸時代江戸幕府に起用された天台宗の僧天海により天台宗に改宗。
長楽寺本坊と太鼓門
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重要文化財ー石造宝塔 (1276年)建立・紙本墨画出山釈迦図・紙本墨書長楽寺文書 7巻(117通)
県指定重要文化財ー勅使門・三仏堂・太鼓門・絹本墨画淡彩呂洞賓図・絹本墨画月湖観音像・絹本墨画葡萄図 伝・日観筆 双幅
絹本墨画枯木図・紙本墨画蘭図・絹本著色無準師範像・絹本著色牧翁了一像・絹本著色荏柄天神像・絹本著色律台栄宗像・絹本著色慈覚大師像等多数。
長楽寺山号「額」
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鎌倉時代は、約6万坪の境内に塔頭寺院が軒を並べ、あまたの学僧が兼学修行に励んだといわれ,室町時代の初期に日本五山十刹の制度が成立すると、
長楽寺は十刹の第7位に、しかし、新田氏の衰退とともに長楽寺も荒廃している。
徳川家康は、1590年、小田原北条氏討伐の功により、関東の地を与えられ、そこで、祖先開基の寺とする「長楽寺」に、「天海大僧正」を住職とし
復興に当たらせ、寺領100石を与えている。
天海は臨済宗から天台宗に改宗し、境内を整備し、伽藍を修復し、幕府庇護のもと末寺700寺有余の大寺院に成長
現在、境内には文殊山の中世石塔群や蓮池、江戸時代の建物である勅使門、三仏堂(県重文)、太鼓門(県重文)、開山堂などがある。
長楽寺境内 蓮池
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「天海」 ~1643 東叡山・寛永寺創建、徳川家康の側近中の側近
天台宗の僧、陸奥国高田出身、比叡山三井寺で修行。幕閣の一員で天海の進言する政策で採用されないものはなかったと云う。
日光山再興し家康を改葬している。
長楽寺 三仏堂 本殿
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「太田市立新田荘歴史博物館・東毛歴史博物館」
東毛歴史資料館
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平安時代、源氏の流れをくむ源義国父子は新田郡を中心に開発を進め、子の「義重」は、領地を広げて新田荘を興し、東国武士の礎を築く。
新田氏は鎌倉・室町時代、長楽寺を支え、寺にはすぐれた文化財が伝えられ、 新田氏の一族は上野国を中心に栄え、鎌倉幕府を倒幕し、建武新政を成し遂げた新田義貞のような武将を生みましたが、室町・戦国時代には衰退し、戦国末期には上杉・武田・北条氏の勢力が相争う地となる。
中世を代表する文化財には、複合的な11カ所の遺跡からなる荘園遺跡としての史跡「新田荘遺跡」が。
新田荘の原風景を彷彿させる貴重な遺跡。
中世戦国時代の文化財として史跡「金山城跡」がある。1469年、岩松家純により築城された中世の山域で、金山丘陵のほぼ全域に及び、現在、市民のシンボルであり、街場に近い里山としての自然景観と相俟った存在に。
歴史館は、古代~近代を判りやすく展示されている。
月曜日休館
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「さつき寺・永徳寺」ー 医王山和光院永徳寺は天台宗の寺
寺伝によると平安時代初期の806~809年に、最澄の弟子「宥海」が創建したという。
「杉戸絵」(市重文)は、江戸期に杉正目板に描かれた襖絵で、本堂の各部屋に配置されていると云う。
作者は徳川郷の郷役人であった「正田隼人義芳」。杉板戸53枚の表裏の86面に描かれている。
部屋ごとに画題が統一されており、その図柄は十六羅漢図や花鳥図・山水図など。
さつき・永徳寺
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「縁切寺・満徳寺」ー日本に二つしかない縁切寺、永徳寺の県道を挟み前・県太田市徳川町
開山浄念尼像・徳川歴代将軍位碑、離縁状その他縁切り文書をはじめ寺役場の資料などが展示されていると云う。(本日休館)
満徳寺
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江戸時代、満徳寺は,
鎌倉の東慶寺とともに、世界で2つしか存在しなかった縁切寺。徳川氏始祖の徳川義季の娘「浄念尼」の開山による尼寺。
江戸時代、一度嫁いだ女性は、たとえ夫と不和を生じて実家へ戻っても、夫からの離縁状がなければ再婚することができない。そこで、離婚を求めて駆け込んだ妻を救済し、夫との離婚を達成させたのが縁切寺。
入寺後25ヶ月間寺で生活すると夫に三くだり半(離縁状)を書くよう要求できたと云う。
満徳寺が縁切寺の特権を持つようになったのは、徳川家康の孫娘千姫にかかわる由緒によります。千姫は、豊臣秀頼に嫁ぎましたが、大坂城落城後、豊臣家と縁を切り本多家へ再嫁するため、満徳寺に入寺したと伝えられている。
遺跡公園には、本堂や駆け込み門も復元され往時を偲ぶことができる。
遺跡公園に隣接した資料館には、三くだり半や縁切り文書をはじめ、徳川歴代将軍の位牌などが展示されていると云う。
満徳寺・本日休館。 徳川義季神社
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「徳川義季公館址・徳川館」
満徳寺~小さい東照宮この一帯が「館跡」、寺の北側に東照宮が、その境内に「徳川義季公館址」の石碑が。
平安時代末期、後三年の役の内乱を鎮定した八幡太郎義家は、その後東国に強力な武士団を結成し、源氏は東国に基盤を築いた。
義家の子義国は関東に下り、その長子義重が新田の庄を開き、新田氏の祖となった。義重の子義季は徳川の地を領して徳川義季と称したと云う。
鎌倉幕府滅亡後、義重の後裔義貞の南朝方と義康の後裔足利尊氏の北朝方とが争った南北朝の抗争に義季の後裔は義貞と運命を共にして敗北を喫した。
その後、足利政権の圧迫を受けた義季の後裔有親・親氏父子は当地を離れ、親氏は仏門に入って徳阿弥と名乗り、松平郷(愛知県豊田市)に移って
松平太郎左衛門信重の入婿になったと伝えられている。
徳川義季館址
小さな徳川義季館址に「東照宮」
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「新田義貞駒つなぎの松」
この辺りは、古くは利根川の河道であり岸辺であったと云う。
現在は、この付近から利根川土手までは1.5km程離れている。また、松も植え替えられてゐると云う。
新田義貞駒つなぎの松・旧道街道筋に
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「冠稲荷神社」
1125年、源義国によって創建。
1333年、新田義貞が挙兵の際、社殿の前で兜(冠)の中に神霊を呼び必勝祈願したことから「冠稲荷」と呼ばれるようになったと云う。
冠稲荷神社・境内に咲く木瓜の花は有名
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古墳時代より1500年の間、祭祀祭礼が行われてきた宮の森に佇む冠稲荷神社は、平安時代創建、源氏ゆかりの社
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子供ができずに悩んでいた女性が、修験者に授かった木瓜(ぼけ)の実を服した途端、良縁と子宝に恵まれ…という縁.
子宝伝説と共に、県の天然記念物に指定されている樹齢400年の「冠稲荷のボケ」。
様々な縁を見守りながら、伝説のとおり古代より現代に至るまで子宝安産、子育てを願う人々や、花の美しさを愛でる人々に慕われるとともに、その花のたたずまいは多くの人々に愛されてきたと云う。
「冠稲荷の木瓜」とともに縁結びの「実咲社」がある。
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「高山 彦九郎」1747ー1793、江戸時代後期の尊皇思想家。名は正之
父は、高山良左衛門正教、母はしげ。兄は高山正晴。子に、高山義介ほか娘など。
林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人と云う。
高山彦九郎記念館
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上野国新田郡細谷村・現太田市の郷士高山良左衛門正教の二男として生まれ、先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身で、新田十六騎の一人である
「高山重栄」とされている。
13歳の時に「太平記」を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳の時に遺書を残して家を出て、各地を遊歴して勤皇論を説く。
前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓・蒲池崑山など多くの人々と交友し、蝦夷地へ渡ろうとするが果たせず。
京では岩倉具選宅に寄留し、奇瑞の亀を献上したことにより光格天皇にも拝謁したと云う。
その感激を詠った。(愛国百人一首に)
我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ
尊号一件と呼ばれる事件に遭遇し、公家中山愛親の知遇を得た事が老中の松平定信など幕府の警戒を呼ぶ。
1791年には、九州各地を旅した後に薩摩藩を頼ろうとするが退けられ、一時は豊後国日田において捕縛される。
その後も幕府の監視を受け、1793年、筑後国久留米の友人森嘉膳宅で自刃する。享年46。
多年にわたる日記を残しており、吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物と云う。
二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられている。
邸宅跡など休館
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「中島飛行機・太田製作所組立工場」
太田製作所は、現在の富士重工業群馬製作所本工場
当時東西600m、南北700m余りの20万㎡の大工場で、東側と南側に鉄道の引込み線があり、また南門から南方向へ約1,000mにある専用飛行場も。完成した機体の翼を広げたまま搬送できる通称「専用道路」があったと云う。
1940年小泉製作所が完成するまでは、陸軍機海軍機ともに、ここで設計開発および生産がされていた。
鉄道で搬入された部品は2つの倉庫に納められ、一部は熱処理工場を経て板金加工部門に回され、そこで裁断、成形、プレス、溶接される。
その後集成工場で骨格が組み立てられ飛行機として形作られる。さらに最終組み立て艤装工場に送られ、着陸ギヤ、操縦装置、燃料系統や発動機が搭載され、最終検査を経て飛行場へ送られた。
日中戦争勃発以降拡張につぐ拡張であったと云う。
中島飛行機太田製作所組立工場跡(現富士重工業)
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次回は、工場に沿っている大光院と金山城跡へ。
前橋古河線を名乗ったが、1993年に館林市赤土町から茨城県古河市まで間の道路が国道354号に昇格したため、現在の名称に変更された。
群馬・埼玉(加須市(旧北川辺町)・茨城(古河市)県道であった。
太田市竜舞町付近から館林市北成島町交差点までは、国道122号と重複する。
前橋市中心部から伊勢崎市、太田市の中心部を通過して終点へと至る。群馬県内の都市間連絡道路として国道50号、国道354号とともに重要な道路。
そのため交通量も全線に渡って多いが、車線数は駒形バイパス区間と太田市中心部の国道407号との重複部分が4車線になっている以外はほとんど2車線で渋滞が多発する街道。
「新田町」は、県南東部・利根川北岸。奈良時代は北部に「東山道」が通り、日光例弊使街道・銅山街道が交差し、宿場町であった。
「世良田・東照宮」
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世良田は、徳川氏発祥の地が近い。隣町には新田義貞の出身地新田町もある。
徳川氏は、その新田氏の傍系にあたるのである。それによって、この父祖の地である世良田に建立された。
現在の建物は、江戸初期天海僧正によって、この地に移築されたもので、もともとは徳川秀忠公によって日光に建立された東照社の社殿である。
現在の日光東照宮を新築するにあたり、いままでの東照社社殿を天海が拝領し、世良田の地に移されたのである。
この地域は、利根川沿いにあり、河川交通の要衝でもある。
また中世関東における文化の中継地、 世良田は、関東天台宗の学問の中心地である長楽寺もあり、この東照宮ももともと長楽寺の境内に建立されたものである。
世良田東照宮・徳川家発祥の地
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「新田荘遺跡」-中世を代表する荘園の遺構。
太田市新田地区を中心として11箇所に点在する新田氏の遺跡が一括して国の史跡指定に。
荘園は十二世紀の中ごろ新田義重によって開かれもので、はじめは旧新田町南部と尾島町付近を再開発して成立。
しだいに新田全域・太田市一帯に拡大し、新田氏は源氏の有力な一族として栄え、鎌倉攻めに挙兵した「新田義貞」が良く知られている。
生品神社境内 太田市新田市野井町・反町館跡 太田市新田反町・江田館跡 太田市新田上江田町・重殿水源 太田市新田市野井町
矢太神水源 太田市新田大根町・総持寺境内 太田市世良田町・長楽寺境内 太田市世良田町・東照宮境内 太田市世良田町
明王院境内 太田市安養寺町・円福寺境内 太田市別所町・十二所神社境内 太田市別所町、指定
上番所 東照宮平成27年・400年式典が 銅灯籠
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徳川家光が日光東照宮の造り替えを実施したときに、旧社殿を移築させたもの。
拝殿、唐門、本殿が国の重要文化財に指定されている。また日本一大きい鐵灯籠も国の重要文化財に指定.
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「世良田氏と松平氏」
政親の祖先である世良田頼氏は三河守であり、三河の支配者の先祖として、着眼した清康は、
自身の安祥松平家の世襲の通称「次郎三郎」を用い、「世良田次郎三郎清康」と称したという。
清康の孫の松平家康は初め藤原氏の子孫と称していたが、三河国統一を完成させると再び祖父の世良田氏=新田源氏末裔の主張を行うようになった。
1566年に朝廷に働きかけて首尾よく得川義季の末裔であるとの勅許を受けるが、源姓ではなく藤原姓の徳川氏としてしか認められることが出来なかったので、以後も藤原姓を名乗ったという。
しかし、豊臣秀吉政権の傘下に入ったころから、再び新田源氏の末裔であるとの主張を繰り返し始め、その頃安房の里見氏(新田一族)に送った書状では、徳川氏と里見氏が新田一族の同族関係にあることを主張している。
家康は1590年に関東へ移封された前後には徳川氏を藤原姓ではなく源姓の家として公認させることに成功していたようで、新田一族に繋がる岩松氏の末裔を召し出して新田氏の系譜を尋ねている事項が記録にある。
この過程で家康が整理させた徳川氏の系譜では、松平氏の祖は、親季の子で、政親の兄の親季の遺児とする有親(長阿弥)ということにされている。
その伝承によると、親季の戦死後、その子の有親も南朝方として戦った(信濃で戦死したとも言う)。
有親の子世良田親氏は北朝方の追捕を逃れて時宗の僧となって徳阿弥と称し、流浪した。
やがて三河国に流れつき、加茂郡松平郷の領主 松平信重(左衛門少尉)の娘婿になり、還俗して松平氏の名跡を継ぎ松平親氏(松平太郎左衛門親氏)と名乗ったとする。
七代将軍家継も幼少時世良田を称している。
東照宮境内
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「新田公並一族従臣忠霊供養塔」ー昭和16年、世良田村有志十数名からなる発起人により、
組織され、その呼びかけに応じた県の内外数百名に及ぶ篤志家と世良田国民学校児童をはじめ各種団体の賛同により、その浄財が寄せられ完成した。
新田義貞公戦没して六百余年、公の事蹟は国民の広く知るところであり、国や県等においても神として奉斎されているが、新田一族のそれはあまり世に現ず、従臣に至ってはほとんど顧みみられない現状を遺憾とするもの。
太平記により、堀口貞満の言を借りれば「義を重んじ節に殉じて死屍を戦場に曝した者は、一族百三十二人、郎党士卒八千余人」とある。その後の転戦を合せれば、万余に及ぶ将兵が、二度と再びふるさとの地を踏むことなく異郷の土と化し、ここに義貞公と並んで新田一族従臣の忠霊を供養のため造塔、、
新田公並一族・供養塔
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「長楽寺」
山号ー世良田山・宗派ー天台宗・本尊ー釈迦如来・創建年ー1221年・開基ー世良田義季
長楽寺お堂
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臨済宗の僧[1]栄朝を開山として創建されたという。
早い時期から官寺として扱われていた。室町時代初期(南北朝時代)には関東十刹のひとつに列せられ、開基当初は臨済宗であったが、徳川家の祖とされる世良田義季(得川義季)が創建したとされることから徳川家の帰依を得、江戸時代江戸幕府に起用された天台宗の僧天海により天台宗に改宗。
長楽寺本坊と太鼓門
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重要文化財ー石造宝塔 (1276年)建立・紙本墨画出山釈迦図・紙本墨書長楽寺文書 7巻(117通)
県指定重要文化財ー勅使門・三仏堂・太鼓門・絹本墨画淡彩呂洞賓図・絹本墨画月湖観音像・絹本墨画葡萄図 伝・日観筆 双幅
絹本墨画枯木図・紙本墨画蘭図・絹本著色無準師範像・絹本著色牧翁了一像・絹本著色荏柄天神像・絹本著色律台栄宗像・絹本著色慈覚大師像等多数。
長楽寺山号「額」
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鎌倉時代は、約6万坪の境内に塔頭寺院が軒を並べ、あまたの学僧が兼学修行に励んだといわれ,室町時代の初期に日本五山十刹の制度が成立すると、
長楽寺は十刹の第7位に、しかし、新田氏の衰退とともに長楽寺も荒廃している。
徳川家康は、1590年、小田原北条氏討伐の功により、関東の地を与えられ、そこで、祖先開基の寺とする「長楽寺」に、「天海大僧正」を住職とし
復興に当たらせ、寺領100石を与えている。
天海は臨済宗から天台宗に改宗し、境内を整備し、伽藍を修復し、幕府庇護のもと末寺700寺有余の大寺院に成長
現在、境内には文殊山の中世石塔群や蓮池、江戸時代の建物である勅使門、三仏堂(県重文)、太鼓門(県重文)、開山堂などがある。
長楽寺境内 蓮池
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「天海」 ~1643 東叡山・寛永寺創建、徳川家康の側近中の側近
天台宗の僧、陸奥国高田出身、比叡山三井寺で修行。幕閣の一員で天海の進言する政策で採用されないものはなかったと云う。
日光山再興し家康を改葬している。
長楽寺 三仏堂 本殿
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「太田市立新田荘歴史博物館・東毛歴史博物館」
東毛歴史資料館
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平安時代、源氏の流れをくむ源義国父子は新田郡を中心に開発を進め、子の「義重」は、領地を広げて新田荘を興し、東国武士の礎を築く。
新田氏は鎌倉・室町時代、長楽寺を支え、寺にはすぐれた文化財が伝えられ、 新田氏の一族は上野国を中心に栄え、鎌倉幕府を倒幕し、建武新政を成し遂げた新田義貞のような武将を生みましたが、室町・戦国時代には衰退し、戦国末期には上杉・武田・北条氏の勢力が相争う地となる。
中世を代表する文化財には、複合的な11カ所の遺跡からなる荘園遺跡としての史跡「新田荘遺跡」が。
新田荘の原風景を彷彿させる貴重な遺跡。
中世戦国時代の文化財として史跡「金山城跡」がある。1469年、岩松家純により築城された中世の山域で、金山丘陵のほぼ全域に及び、現在、市民のシンボルであり、街場に近い里山としての自然景観と相俟った存在に。
歴史館は、古代~近代を判りやすく展示されている。
月曜日休館
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「さつき寺・永徳寺」ー 医王山和光院永徳寺は天台宗の寺
寺伝によると平安時代初期の806~809年に、最澄の弟子「宥海」が創建したという。
「杉戸絵」(市重文)は、江戸期に杉正目板に描かれた襖絵で、本堂の各部屋に配置されていると云う。
作者は徳川郷の郷役人であった「正田隼人義芳」。杉板戸53枚の表裏の86面に描かれている。
部屋ごとに画題が統一されており、その図柄は十六羅漢図や花鳥図・山水図など。
さつき・永徳寺
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「縁切寺・満徳寺」ー日本に二つしかない縁切寺、永徳寺の県道を挟み前・県太田市徳川町
開山浄念尼像・徳川歴代将軍位碑、離縁状その他縁切り文書をはじめ寺役場の資料などが展示されていると云う。(本日休館)
満徳寺
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江戸時代、満徳寺は,
鎌倉の東慶寺とともに、世界で2つしか存在しなかった縁切寺。徳川氏始祖の徳川義季の娘「浄念尼」の開山による尼寺。
江戸時代、一度嫁いだ女性は、たとえ夫と不和を生じて実家へ戻っても、夫からの離縁状がなければ再婚することができない。そこで、離婚を求めて駆け込んだ妻を救済し、夫との離婚を達成させたのが縁切寺。
入寺後25ヶ月間寺で生活すると夫に三くだり半(離縁状)を書くよう要求できたと云う。
満徳寺が縁切寺の特権を持つようになったのは、徳川家康の孫娘千姫にかかわる由緒によります。千姫は、豊臣秀頼に嫁ぎましたが、大坂城落城後、豊臣家と縁を切り本多家へ再嫁するため、満徳寺に入寺したと伝えられている。
遺跡公園には、本堂や駆け込み門も復元され往時を偲ぶことができる。
遺跡公園に隣接した資料館には、三くだり半や縁切り文書をはじめ、徳川歴代将軍の位牌などが展示されていると云う。
満徳寺・本日休館。 徳川義季神社
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「徳川義季公館址・徳川館」
満徳寺~小さい東照宮この一帯が「館跡」、寺の北側に東照宮が、その境内に「徳川義季公館址」の石碑が。
平安時代末期、後三年の役の内乱を鎮定した八幡太郎義家は、その後東国に強力な武士団を結成し、源氏は東国に基盤を築いた。
義家の子義国は関東に下り、その長子義重が新田の庄を開き、新田氏の祖となった。義重の子義季は徳川の地を領して徳川義季と称したと云う。
鎌倉幕府滅亡後、義重の後裔義貞の南朝方と義康の後裔足利尊氏の北朝方とが争った南北朝の抗争に義季の後裔は義貞と運命を共にして敗北を喫した。
その後、足利政権の圧迫を受けた義季の後裔有親・親氏父子は当地を離れ、親氏は仏門に入って徳阿弥と名乗り、松平郷(愛知県豊田市)に移って
松平太郎左衛門信重の入婿になったと伝えられている。
徳川義季館址
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小さな徳川義季館址に「東照宮」
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「新田義貞駒つなぎの松」
この辺りは、古くは利根川の河道であり岸辺であったと云う。
現在は、この付近から利根川土手までは1.5km程離れている。また、松も植え替えられてゐると云う。
新田義貞駒つなぎの松・旧道街道筋に
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「冠稲荷神社」
1125年、源義国によって創建。
1333年、新田義貞が挙兵の際、社殿の前で兜(冠)の中に神霊を呼び必勝祈願したことから「冠稲荷」と呼ばれるようになったと云う。
冠稲荷神社・境内に咲く木瓜の花は有名
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古墳時代より1500年の間、祭祀祭礼が行われてきた宮の森に佇む冠稲荷神社は、平安時代創建、源氏ゆかりの社
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子供ができずに悩んでいた女性が、修験者に授かった木瓜(ぼけ)の実を服した途端、良縁と子宝に恵まれ…という縁.
子宝伝説と共に、県の天然記念物に指定されている樹齢400年の「冠稲荷のボケ」。
様々な縁を見守りながら、伝説のとおり古代より現代に至るまで子宝安産、子育てを願う人々や、花の美しさを愛でる人々に慕われるとともに、その花のたたずまいは多くの人々に愛されてきたと云う。
「冠稲荷の木瓜」とともに縁結びの「実咲社」がある。
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「高山 彦九郎」1747ー1793、江戸時代後期の尊皇思想家。名は正之
父は、高山良左衛門正教、母はしげ。兄は高山正晴。子に、高山義介ほか娘など。
林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人と云う。
高山彦九郎記念館
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上野国新田郡細谷村・現太田市の郷士高山良左衛門正教の二男として生まれ、先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身で、新田十六騎の一人である
「高山重栄」とされている。
13歳の時に「太平記」を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳の時に遺書を残して家を出て、各地を遊歴して勤皇論を説く。
前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓・蒲池崑山など多くの人々と交友し、蝦夷地へ渡ろうとするが果たせず。
京では岩倉具選宅に寄留し、奇瑞の亀を献上したことにより光格天皇にも拝謁したと云う。
その感激を詠った。(愛国百人一首に)
我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ
尊号一件と呼ばれる事件に遭遇し、公家中山愛親の知遇を得た事が老中の松平定信など幕府の警戒を呼ぶ。
1791年には、九州各地を旅した後に薩摩藩を頼ろうとするが退けられ、一時は豊後国日田において捕縛される。
その後も幕府の監視を受け、1793年、筑後国久留米の友人森嘉膳宅で自刃する。享年46。
多年にわたる日記を残しており、吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物と云う。
二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられている。
邸宅跡など休館
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「中島飛行機・太田製作所組立工場」
太田製作所は、現在の富士重工業群馬製作所本工場
当時東西600m、南北700m余りの20万㎡の大工場で、東側と南側に鉄道の引込み線があり、また南門から南方向へ約1,000mにある専用飛行場も。完成した機体の翼を広げたまま搬送できる通称「専用道路」があったと云う。
1940年小泉製作所が完成するまでは、陸軍機海軍機ともに、ここで設計開発および生産がされていた。
鉄道で搬入された部品は2つの倉庫に納められ、一部は熱処理工場を経て板金加工部門に回され、そこで裁断、成形、プレス、溶接される。
その後集成工場で骨格が組み立てられ飛行機として形作られる。さらに最終組み立て艤装工場に送られ、着陸ギヤ、操縦装置、燃料系統や発動機が搭載され、最終検査を経て飛行場へ送られた。
日中戦争勃発以降拡張につぐ拡張であったと云う。
中島飛行機太田製作所組立工場跡(現富士重工業)
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次回は、工場に沿っている大光院と金山城跡へ。