「藍香尾高惇忠生家」
世界遺産になった官営ー富岡製糸場ー初代場長。渋沢栄一の義兄、尾高家の長男。
尾高藍香は天保元年の1830年、下手計村(しもてばか 現深谷市)に生まれ、通称、新五郎 惇忠と称し、藍香と号した。
「青淵 渋沢栄一」とは、従兄弟の関係にあたる。
知行合一の水戸学に精通し、渋沢栄一の人生に大きな影響を与えた。
藍香や渋沢栄一ら青年同志が時の尊皇攘夷論に共鳴し高崎城乗っ取りを謀議したのも、この尾高家の2階だったと云う。
「尾高(渋沢)平九郎」剣道道場は、生家の前に(土台のみ)。渋沢栄一の養子になる。
倒幕軍と戦い飯能戦争で敗れ22歳で自刃
この2階で、惇忠・長男、尾高長七郎・渋沢栄一が高崎城乗っ取り計画を密議し、末っ子の平九郎が諌めた。
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「尾高ちよ」・渋沢栄一と結婚、没42歳
「尾高ゆう」・惇忠の長女ー日本初の女工、14歳で富岡製糸場の伝習工女。
世界文化遺産富岡製糸場は、計画渋沢栄一・建設韮塚直次郎・経営尾高惇忠ー(深谷の三偉人)
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「韮塚直次郎」1823-1898 ー製糸場建設資材のまとめ役ー
深谷市明戸出身、当時日本で普及していない煉瓦を、地元瓦職人達を束ね、試行錯誤して焼き上げている。
石材・瓦・セメントなど資材を調達。
尾高惇忠生家ー「尾高ちよ」は、ここから渋沢栄一と結婚
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「尾高ゆう」 1858頃-1923
官営富岡製糸場の第1号の伝習工女として操業に携わり、日本の近代化に大きく貢献。
ゆうは、「尾高惇忠」の娘として、1858年頃に生まれ、父の惇忠は、有名な学者、教育者、渋沢栄一翁も惇忠に学ぶほど、深く尊敬されていた。
惇忠は、明治3年に、官営富岡製糸場長に。富岡製糸場の洋式技術の導入は、当時、富国強兵を図る明治政府の命運をかけた大事業
惇忠は、この総責任者として建設と運営に全力で取り組みますが、操業を支える工女の募集難にあいます。
それは、工場の外国人技術者たちが飲むワインを生き血と思い、女性たちの間で、工場では血を採られる、脂をしぼられるという噂が流れていたため。
驚いた惇忠は、それが噂であることを証明するために、また、伝習工女の手本とするために、自 らの娘「ゆう」を第1号の伝習工女にと考えます。
そのとき、14歳だったゆうは、父の意をくみとり、新しい技術を身に着け、パイオニアとなることに希望と誇りを抱いて富岡に赴いたのです。
ゆうの勇気ある決断は、近隣に伝え渡り、感銘した地元の女性たちは、連れ立って次々と伝習工女に志願し始めます。
こうして、富岡製糸場は操業を開始することができたのである。
ここで技術を得た女性たちは、製糸技術を各地に伝え、その後の日本の近代産業の発展を築いたと云う。
尾高ゆう(1858頃-1923)は、官営富岡製糸場の第1号の伝習工女。
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地元深谷をはじめ近隣の市町や群馬などから、「ゆう」に感銘した多くの工女が応募。
製糸工場は必要な工女を集めることができ、操業にこぎつけることができ、工女の中には、技術を収得した後、郷里に帰って、各地の製糸工業の発展に尽くした者も多くいたと云う。「ゆう」の決断は、明治期の日本の産業発展に大きな貢献をした女性である。
尾高家生家室内 煉瓦蔵
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カイコは家蚕(かさん)とも呼ばれ、家畜化された昆虫で、野生には生息しない。
またカイコは、野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、餌がなくなっても逃げ出さないなど、人間による管理なしでは生育することができない。
カイコを野外の桑にとまらせても、ほぼ一昼夜のうちに捕食されるか、地面に落ち、全滅してしまう。
幼虫は腹脚の把握力が弱いため樹木に自力で付着し続けることができず、風が吹いたりすると容易に落下してしまう。
成虫も翅はあるが、体が大きいことや飛翔に必要な筋肉が退化していることなどにより、羽ばたくことはできるがほぼ飛ぶことはできない。
家蚕(かさん)とも呼ばれ、家畜化された昆虫
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「絹」
独特の光沢を持ち、古来より珍重されてきた。蚕が体内で作り出すたんぱく質・フィブロインを主成分とするが、1個の繭から約800~1,200mとれるため、天然繊維の中では唯一の長繊維(フィラメント糸)である。
蚕の繭(まゆ)を製糸し、引き出した極細の繭糸を数本揃えて繰糸の状態にしたままの絹糸を生糸(きいと)というが、これに対して生糸をアルカリ性の薬品(石鹸・灰汁・曹達など)で精練してセリシンという膠質成分を取り除き、光沢や柔軟さを富ませた絹糸を練糸(ねりいと)と呼ぶ。
ただし、100%セリシンを取り除いたものは数%セリシンを残したものに比べ、光沢は著しく劣る。前者は化学染料、後者はいわゆる草木染めに向くが、歴史的に前者の手法が用いられはじめたのは明治維新以降であり、昔の文献や製品にあたる際、現在の絹織物とは別物に近い外観と性質をもつことに注意が必要である。
養殖(養蚕)して作る家蚕絹と野性の繭を使う野蚕絹に分けられる。
絹
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明治時代の富岡製糸場の絵
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渋沢栄一は、7歳頃から「尾高惇忠」従兄から「論語」を初めとする学問を習う、栄一は、生涯を通じ論語に親しんだと云う。
「道徳経済合一」説を唱え「近代日本資本主義経済の父」と呼ばれるにいたった。
栄一が、惇忠の家まで通った道は、何時しか「論語の道」と呼ばれた、またこの地域を「論語の里」とも云う。
渋沢栄一記念館・八基公民館
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「渋沢栄一」 1840-1931 明治・大正期の実業家のリーダー・(現、埼玉県大里郡生まれ)
養蚕・藍玉・金融を扱う豪農と云う。1867年「徳川慶喜の弟・昭武」に随行してパリ万博博覧会へ。各国の近代的産業施設・経済制度を見聞した。
これが、我が国の産業近代化を推進。
明治68年帰国・明治新政府から紙幣拝借金「50万両」余りをもとに「商法会所」を設立。日本初の株式会社である。
大蔵省を辞職し事業に専念「王子製紙」「東京瓦斯」「煉瓦製造」「銀行」、、、、500余りの会社を設立した。教育・文化面でも力を注いだ。
渋沢栄一氏
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「渋沢栄一記念館・八基公民館」
栄一翁ゆかりの写真や遺墨等が展示。
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ー誠之堂・清風亭、東京世田谷から深谷へ移築ー
「誠之堂」(国指定文化財)
大正5年の1916年、渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って第一銀行の行員たちの出資により建築物。
「誠之堂」の名は、渋沢栄一自身により命名。
儒教の代表的な経典のひとつ「中庸」の一節「誠者天之道也、誠之者人之道也(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)」にちなんだもの。
煉瓦造平屋建、建築面積112㎡。外観は英国農家に範をとりながらも、室内外の装飾に、中国、朝鮮、日本など東洋的な意匠を。
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「清風亭」は、大正15年の1926年、に、当時第一銀行頭取であった「佐々木勇之助」の古希(70歳)を記念して、清和園内に誠之堂と並べて建てられ、
建築資金は、誠之堂と同じくすべて第一銀行行員たちの出資によるもの。
清風亭は、当初、佐々木の雅号をとって「茗香記念館」等と呼ばれていましたが、後に「清風亭」と呼ばれ、 設計時点の資料に、「清和園記念館」のほか「清風亭」という名称がすでに見られると云う。
建築面積168平方メートルで、鉄筋コンクリート造平屋建。 外壁は、人造石掻落し仕上げの白壁で、対称的に黒いスクラッチタイルと鼻黒煉瓦が。
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「人見山・昌福寺」
深谷、上杉第5代(深谷城初代城主)房憲の開基。
本堂裏の庭園は深谷市の名勝で、仙元山麓を生かした禅宗庭園で、室町時代の造園といわれている。
猫の伝説など遠ざける寺が多いが、世田谷区の豪徳寺、長野県の法蔵寺などは伝説を寺院経営に生かしている。
ここは、「寺に、猫の報恩譚の「猫壇中」という伝説が・寺の衰退を一匹の虎猫が救う話」
人見山・昌福寺ー「上杉第5代(深谷城初代城主)房憲の開基」
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「猫壇中」伝説
猫と寂しく暮らす和尚が胸中を語ると、人語で猫が答えた。「檀家だった長者が近いうちに死ぬ。葬式のとき棺をつりあげるので、南無トラヤヤと唱えるように」と。はたして、猫の予言のとおり長者は亡くなった。その葬列を突然の稲妻と大雨が襲う。雨が去り、棺を置いたままいったん退散した葬列の人々が戻ってみると、棺が宙づりとなっているではないか。なみいる僧たちが経文を読んだり手を尽くすが、棺をおろすことができない。そこで昌福寺の和尚が呼ばれ、猫の言うとおり「南無トラヤヤ」と唱える。棺はするすると降り、そのまま昌福寺の墓地に行ってしまった。これを見て驚いた長者家では、死人が昌福寺が好きなのだろうということで、再び昌福寺の檀家に戻った。嵐を呼び棺を宙づりにしたのが昌福寺の猫だと知れ、以来、昌福寺の檀家を「猫壇中」というようになったと云う。
「道元禅師」
1246年、 大佛寺を永平寺に改め、自身の号も希玄と改める。1248-49年、「執権北条時頼・波多野義重」らの招請により教化のため鎌倉に下向。
鎌倉での教化期間は半年間であったが、関東における純粋禅興隆の嚆矢となった。
1253年、 病により永平寺の貫首を、弟子孤雲懐奘(「正法眼蔵随聞記」を編す)に譲り、俗弟子覚念の屋敷(京都高辻西洞院)で没す、享年54(満53歳没)。死因は瘍とされる。
人見山・昌福寺
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「深谷・山内上杉家」
上杉憲英・憲光・憲信・「4代・房憲」・憲清・憲賢・「7代・憲盛」・氏憲・憲俊。
1518年頃、7代・憲賢が「深谷城」を築く。
4代・房憲の時代は、1441年ー結城合戦が終結・1445年ー憲光没。1450年ー浅間山噴火・憲長没。1455年ー古河公方氏と官領上杉氏、関東大乱。1456年ー房憲が深谷へ。1482年ー武蔵国洪水。1487年ー太田道灌殺害。1495年ー北条早雲小田原城襲う。
人見山・昌福寺
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深谷城は1456年・、深谷上杉氏の上杉房憲が古河公方のに備えて築いたといわれる城。(南北600メートル、面積20ヘクタールの大規模な城郭には土塁と深い空堀がめぐらされていた)
関東管領上杉氏の庶流で上杉房憲から5代が居城としたことから「深谷上杉氏」と呼ばれている。
人見山・昌福寺
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次回は、寄居・長瀞方面へ。
世界遺産になった官営ー富岡製糸場ー初代場長。渋沢栄一の義兄、尾高家の長男。
尾高藍香は天保元年の1830年、下手計村(しもてばか 現深谷市)に生まれ、通称、新五郎 惇忠と称し、藍香と号した。
「青淵 渋沢栄一」とは、従兄弟の関係にあたる。
知行合一の水戸学に精通し、渋沢栄一の人生に大きな影響を与えた。
藍香や渋沢栄一ら青年同志が時の尊皇攘夷論に共鳴し高崎城乗っ取りを謀議したのも、この尾高家の2階だったと云う。
「尾高(渋沢)平九郎」剣道道場は、生家の前に(土台のみ)。渋沢栄一の養子になる。
倒幕軍と戦い飯能戦争で敗れ22歳で自刃
この2階で、惇忠・長男、尾高長七郎・渋沢栄一が高崎城乗っ取り計画を密議し、末っ子の平九郎が諌めた。
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「尾高ちよ」・渋沢栄一と結婚、没42歳
「尾高ゆう」・惇忠の長女ー日本初の女工、14歳で富岡製糸場の伝習工女。
世界文化遺産富岡製糸場は、計画渋沢栄一・建設韮塚直次郎・経営尾高惇忠ー(深谷の三偉人)
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「韮塚直次郎」1823-1898 ー製糸場建設資材のまとめ役ー
深谷市明戸出身、当時日本で普及していない煉瓦を、地元瓦職人達を束ね、試行錯誤して焼き上げている。
石材・瓦・セメントなど資材を調達。
尾高惇忠生家ー「尾高ちよ」は、ここから渋沢栄一と結婚
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「尾高ゆう」 1858頃-1923
官営富岡製糸場の第1号の伝習工女として操業に携わり、日本の近代化に大きく貢献。
ゆうは、「尾高惇忠」の娘として、1858年頃に生まれ、父の惇忠は、有名な学者、教育者、渋沢栄一翁も惇忠に学ぶほど、深く尊敬されていた。
惇忠は、明治3年に、官営富岡製糸場長に。富岡製糸場の洋式技術の導入は、当時、富国強兵を図る明治政府の命運をかけた大事業
惇忠は、この総責任者として建設と運営に全力で取り組みますが、操業を支える工女の募集難にあいます。
それは、工場の外国人技術者たちが飲むワインを生き血と思い、女性たちの間で、工場では血を採られる、脂をしぼられるという噂が流れていたため。
驚いた惇忠は、それが噂であることを証明するために、また、伝習工女の手本とするために、自 らの娘「ゆう」を第1号の伝習工女にと考えます。
そのとき、14歳だったゆうは、父の意をくみとり、新しい技術を身に着け、パイオニアとなることに希望と誇りを抱いて富岡に赴いたのです。
ゆうの勇気ある決断は、近隣に伝え渡り、感銘した地元の女性たちは、連れ立って次々と伝習工女に志願し始めます。
こうして、富岡製糸場は操業を開始することができたのである。
ここで技術を得た女性たちは、製糸技術を各地に伝え、その後の日本の近代産業の発展を築いたと云う。
尾高ゆう(1858頃-1923)は、官営富岡製糸場の第1号の伝習工女。
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地元深谷をはじめ近隣の市町や群馬などから、「ゆう」に感銘した多くの工女が応募。
製糸工場は必要な工女を集めることができ、操業にこぎつけることができ、工女の中には、技術を収得した後、郷里に帰って、各地の製糸工業の発展に尽くした者も多くいたと云う。「ゆう」の決断は、明治期の日本の産業発展に大きな貢献をした女性である。
尾高家生家室内 煉瓦蔵
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カイコは家蚕(かさん)とも呼ばれ、家畜化された昆虫で、野生には生息しない。
またカイコは、野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、餌がなくなっても逃げ出さないなど、人間による管理なしでは生育することができない。
カイコを野外の桑にとまらせても、ほぼ一昼夜のうちに捕食されるか、地面に落ち、全滅してしまう。
幼虫は腹脚の把握力が弱いため樹木に自力で付着し続けることができず、風が吹いたりすると容易に落下してしまう。
成虫も翅はあるが、体が大きいことや飛翔に必要な筋肉が退化していることなどにより、羽ばたくことはできるがほぼ飛ぶことはできない。
家蚕(かさん)とも呼ばれ、家畜化された昆虫
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「絹」
独特の光沢を持ち、古来より珍重されてきた。蚕が体内で作り出すたんぱく質・フィブロインを主成分とするが、1個の繭から約800~1,200mとれるため、天然繊維の中では唯一の長繊維(フィラメント糸)である。
蚕の繭(まゆ)を製糸し、引き出した極細の繭糸を数本揃えて繰糸の状態にしたままの絹糸を生糸(きいと)というが、これに対して生糸をアルカリ性の薬品(石鹸・灰汁・曹達など)で精練してセリシンという膠質成分を取り除き、光沢や柔軟さを富ませた絹糸を練糸(ねりいと)と呼ぶ。
ただし、100%セリシンを取り除いたものは数%セリシンを残したものに比べ、光沢は著しく劣る。前者は化学染料、後者はいわゆる草木染めに向くが、歴史的に前者の手法が用いられはじめたのは明治維新以降であり、昔の文献や製品にあたる際、現在の絹織物とは別物に近い外観と性質をもつことに注意が必要である。
養殖(養蚕)して作る家蚕絹と野性の繭を使う野蚕絹に分けられる。
絹
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明治時代の富岡製糸場の絵
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渋沢栄一は、7歳頃から「尾高惇忠」従兄から「論語」を初めとする学問を習う、栄一は、生涯を通じ論語に親しんだと云う。
「道徳経済合一」説を唱え「近代日本資本主義経済の父」と呼ばれるにいたった。
栄一が、惇忠の家まで通った道は、何時しか「論語の道」と呼ばれた、またこの地域を「論語の里」とも云う。
渋沢栄一記念館・八基公民館
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「渋沢栄一」 1840-1931 明治・大正期の実業家のリーダー・(現、埼玉県大里郡生まれ)
養蚕・藍玉・金融を扱う豪農と云う。1867年「徳川慶喜の弟・昭武」に随行してパリ万博博覧会へ。各国の近代的産業施設・経済制度を見聞した。
これが、我が国の産業近代化を推進。
明治68年帰国・明治新政府から紙幣拝借金「50万両」余りをもとに「商法会所」を設立。日本初の株式会社である。
大蔵省を辞職し事業に専念「王子製紙」「東京瓦斯」「煉瓦製造」「銀行」、、、、500余りの会社を設立した。教育・文化面でも力を注いだ。
渋沢栄一氏
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「渋沢栄一記念館・八基公民館」
栄一翁ゆかりの写真や遺墨等が展示。
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ー誠之堂・清風亭、東京世田谷から深谷へ移築ー
「誠之堂」(国指定文化財)
大正5年の1916年、渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って第一銀行の行員たちの出資により建築物。
「誠之堂」の名は、渋沢栄一自身により命名。
儒教の代表的な経典のひとつ「中庸」の一節「誠者天之道也、誠之者人之道也(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)」にちなんだもの。
煉瓦造平屋建、建築面積112㎡。外観は英国農家に範をとりながらも、室内外の装飾に、中国、朝鮮、日本など東洋的な意匠を。
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「清風亭」は、大正15年の1926年、に、当時第一銀行頭取であった「佐々木勇之助」の古希(70歳)を記念して、清和園内に誠之堂と並べて建てられ、
建築資金は、誠之堂と同じくすべて第一銀行行員たちの出資によるもの。
清風亭は、当初、佐々木の雅号をとって「茗香記念館」等と呼ばれていましたが、後に「清風亭」と呼ばれ、 設計時点の資料に、「清和園記念館」のほか「清風亭」という名称がすでに見られると云う。
建築面積168平方メートルで、鉄筋コンクリート造平屋建。 外壁は、人造石掻落し仕上げの白壁で、対称的に黒いスクラッチタイルと鼻黒煉瓦が。
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「人見山・昌福寺」
深谷、上杉第5代(深谷城初代城主)房憲の開基。
本堂裏の庭園は深谷市の名勝で、仙元山麓を生かした禅宗庭園で、室町時代の造園といわれている。
猫の伝説など遠ざける寺が多いが、世田谷区の豪徳寺、長野県の法蔵寺などは伝説を寺院経営に生かしている。
ここは、「寺に、猫の報恩譚の「猫壇中」という伝説が・寺の衰退を一匹の虎猫が救う話」
人見山・昌福寺ー「上杉第5代(深谷城初代城主)房憲の開基」
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「猫壇中」伝説
猫と寂しく暮らす和尚が胸中を語ると、人語で猫が答えた。「檀家だった長者が近いうちに死ぬ。葬式のとき棺をつりあげるので、南無トラヤヤと唱えるように」と。はたして、猫の予言のとおり長者は亡くなった。その葬列を突然の稲妻と大雨が襲う。雨が去り、棺を置いたままいったん退散した葬列の人々が戻ってみると、棺が宙づりとなっているではないか。なみいる僧たちが経文を読んだり手を尽くすが、棺をおろすことができない。そこで昌福寺の和尚が呼ばれ、猫の言うとおり「南無トラヤヤ」と唱える。棺はするすると降り、そのまま昌福寺の墓地に行ってしまった。これを見て驚いた長者家では、死人が昌福寺が好きなのだろうということで、再び昌福寺の檀家に戻った。嵐を呼び棺を宙づりにしたのが昌福寺の猫だと知れ、以来、昌福寺の檀家を「猫壇中」というようになったと云う。
「道元禅師」
1246年、 大佛寺を永平寺に改め、自身の号も希玄と改める。1248-49年、「執権北条時頼・波多野義重」らの招請により教化のため鎌倉に下向。
鎌倉での教化期間は半年間であったが、関東における純粋禅興隆の嚆矢となった。
1253年、 病により永平寺の貫首を、弟子孤雲懐奘(「正法眼蔵随聞記」を編す)に譲り、俗弟子覚念の屋敷(京都高辻西洞院)で没す、享年54(満53歳没)。死因は瘍とされる。
人見山・昌福寺
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「深谷・山内上杉家」
上杉憲英・憲光・憲信・「4代・房憲」・憲清・憲賢・「7代・憲盛」・氏憲・憲俊。
1518年頃、7代・憲賢が「深谷城」を築く。
4代・房憲の時代は、1441年ー結城合戦が終結・1445年ー憲光没。1450年ー浅間山噴火・憲長没。1455年ー古河公方氏と官領上杉氏、関東大乱。1456年ー房憲が深谷へ。1482年ー武蔵国洪水。1487年ー太田道灌殺害。1495年ー北条早雲小田原城襲う。
人見山・昌福寺
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深谷城は1456年・、深谷上杉氏の上杉房憲が古河公方のに備えて築いたといわれる城。(南北600メートル、面積20ヘクタールの大規模な城郭には土塁と深い空堀がめぐらされていた)
関東管領上杉氏の庶流で上杉房憲から5代が居城としたことから「深谷上杉氏」と呼ばれている。
人見山・昌福寺
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次回は、寄居・長瀞方面へ。