syuの日記・気まま旅

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伊東と頼朝-寿老神・最誓寺

2015-01-27 | 気まま旅

「源頼朝」 1147-99 武家政治の創始者・鎌倉幕府初代将軍、源義朝の嫡男・母は、名古屋熱田大宮藤原季範の娘
父義朝は平清盛に敗れ殺され、頼朝は伊豆に流された。20年の流人生活。治承4年「以仁王」の令旨をうけ、平家打倒の挙兵が、真鶴・石橋山で敗れ
房総へ逃れている。頼朝は、平清盛の異母弟「平家盛」と生き写しで清盛の継母「池禅尼」が清盛に命乞いし助かる。

「伊東氏と頼朝」
「曽我物語」によれば、14歳で伊豆国へ流罪となり、在地豪族の伊東祐親の監視下で日々を送っていた頼朝は、祐親が大番役で上洛している間に祐親の三女・八重姫と通じ、やがて男子を一人もうけて千鶴御前と名付けた。
千鶴御前が3歳になった時、大番役を終えて京から戻った祐親は激怒し、「親の知らない婿があろうか。今の世に源氏の流人を婿に取るくらいなら、娘を乞食に取らせる方がましだ。平家の咎めを受けたらなんとするのか」と平家への聞こえを恐れ、家人に命じて千鶴を轟ヶ淵に柴漬にして殺害し、
娘を取り返して同国の住人・江間の小四郎[1]に嫁がせた。
さらに頼朝を討つべく郎党を差し向けたが、頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた祐親の次男・祐清が頼朝に身の危険を知らせ、頼朝は祐清の烏帽子親である北条時政の邸に逃れたという。時政の下で暮らすようになった頼朝は、やがて時政の長女・政子と結ばれることになる。
その後の八重姫については、入水自殺したとも、北条氏や千葉氏と縁を結んだなど、様々に伝えられる。



八重姫と千鶴御前に関する記述は虚構の多い「曽我物語・や軍記物語の源平闘諍録」。
頼朝の流人時代を記した史料はなく、伝承の域を出ないが、ただし、鎌倉幕府編纂書である「吾妻鏡」の 1180年、条と1182年条に、
1175年、頼朝29歳、祐親が頼朝を殺害しようとした所を、次男・祐清がそのことを告げて、頼朝が走湯権現に逃れたこと、
挙兵後の頼朝に捕らえられた祐親が恩赦によって助命される所を「以前の行いを恥として」自害したことが記されており、頼朝と祐親の間に因縁があったことは認められている。
伊豆の国市中条に八重姫を祀った真珠院がある。伊東市音無町には頼朝と八重姫が逢瀬を重ねたという音無の森の「音無神社」
八重姫が千鶴丸を祀ったとされる、ここ「最誓寺」等が。




寿老人は,道教の神仙(神)、中国の伝説上の人物。南極老人星(カノープス)の化身とされる。七福神の一柱。
真言(サンスクリット)は、「オン バザラユセイ ソワカ」(普賢菩薩の延命呪と同じ)。

酒を好み頭の長い長寿の神とされ、日本では七福神として知られているが、福禄寿はこの寿老人と同一神と考えられていることから、七福神から外されたこともあり、その場合は猩猩が入ると云う。
寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである牡鹿を従え、手には、これも長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っている。




「最誓寺」山号ー宝珠山・現在曹洞宗・元伊東家の菩提寺
創建は鎌倉時代初期、江間小四郎北条泰時の室である八重姫の発願により開かれたのが始まりと云う。
八重姫は平家の重臣伊東祐親の3女にあたる人物で、源頼朝が当地に配流になっていた際、恋仲となり一子千鶴丸をもうけましたが、その話を聞いた祐親は逆鱗し千鶴丸を松川に沈め平家に忠誠を誓う。

八重姫は北条義時に嫁ぎ千鶴丸の菩提を弔う為、御堂を建立し西成寺と名付け、1596年、には宗銀が曹洞宗に改宗し寺号を最誓寺に改めた。
境内にある伊東家の墓は元々東光寺に建立されていたが、伊東家の衰えと共に寺運も衰退し江戸時代末期には廃寺。
再興され、一族の宝篋印塔や五輪塔などが最誓寺に移された。


    

「北条泰時」 1183-1242 武家法を制定、三代執権(義時の長男)「御成敗式目」制定。「道理」の泰時と云われている。   
           
                          歌ー事しげき 世のならひこそ ものうけれ 花の散るらん 春もしられず




1959年に再建された本堂(入母屋、桟瓦葺、桁行6間、正面1間唐破風向拝付)には本尊である阿弥陀如来像の他、
八重姫が奉納した千鶴丸地蔵菩薩像が安置されています。伊東氏の墓は伊東の歴史を語る貴重なもの。昭和34年、市指定史跡に、
境内にある大ソテツ(推定樹齢600年)も、市指定天然記念物指定。




「ソテツ」(蘇鉄)
学名:Cycas revoluta)は、裸子植物ソテツ科の常緑低木。ソテツ類の中で日本に自生がある唯一の種。
日本の九州南部および南西諸島に分布する。主として海岸近くの岩場に生育する。カナリーヤシ(フェニックス)やワシントンヤシ
(ワシントニアパーム)などと共に、九州・沖縄地方の南国ムードを強調する為の演出として映像素材に用いられることが多いと云う。
名前は、枯れかかったときに鉄クギを打ち込むとよみがえるというのに由来すると考え, 鉄を受けると元気になる(蘇鉄)という伝承があり、茎にクギを打ち込まれていることがよくある。

                     お釈迦様が蓮の一葉に、
    

           往昔、八重姫奉納したと云う地蔵菩薩と本尊阿弥陀如来が寺宝として祀られている
  


「北条早雲」 1432-1519 戦国武将の先駆け・小田原北条氏初代・京都の伊勢氏が有力で、名(長氏・新九郎)
駿河国の今川氏から「興国寺城」を貰い、伊豆国に乱入する。「堀越公方」の子「茶々丸」を殺して一国を平定する。
後、大森氏の小田原城を奪う、三浦氏・新井氏を滅ぼし相模国の併合と領地拡大。
大森藤頼を、早雲は「鹿狩りの為、勢子を入れたいと云い変装し夜襲し、一気に攻め奪ってしまう」
農民への租税は「四公六民」は知られている。88才の長生。

樹齢600年以上の「ソテツ」