syuの日記・気まま旅

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伊東 三浦按針の船-惠比須神・新井神社

2015-01-29 | 気まま旅

「黒船来航」
1853年に、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。
当初、久里浜に来航したが、当時久里浜の港は砂浜で黒船が接岸できなかったことから、幕府は江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に誘導した。
アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本では主に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。



産業革命によってアメリカ国内の工場やオフィスは夜遅くまで稼動するようになり、その潤滑油やランプの灯火として、主にマッコウクジラの鯨油が使用されていた。
この需要を満たすため、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で、捕鯨を盛んに行なっていた。
捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行ってたため、大量の薪・水が必要であり、長期航海用の食料も含め、太平洋での補給拠点が求められていたが、アメリカも例外ではなかった。
アメリカ海軍の任務の一つとして漂流民の保護があり、1849年にはジェームス・グリンが難破した米国捕鯨船乗組員を保護するために長崎に来航している。その費用の観点からも、太平洋に面する日本と条約を締結することは有利と見ていた。

アメリカの開国要求を受け入れた。
ペリーは約500名の将官や船員とともに武蔵国神奈川近くの横浜村に上陸し日本側から歓待を受け、その後交渉が開始され全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれた。
その後、5月下旬(嘉永7年4月下旬)に視察のため箱館港に入港、松前藩家老格・松前勘解由に箱館港に関する取り決めを求めるが、権限がないとして拒絶される。箱館から戻った後、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、嘉永7年5月に和親条約の細則を定めた全13箇条からなる下田条約を締結した。その後、アメリカ国内は、南北戦争に入る。



「アダムス・三浦按針」 1564-1620 我が国最初に訪れたイギリス人航海士・水先案内人
イギリス、ケント州出身・日本名「三浦按針」-リーフで号で豊後国漂流した。家康に謁見して「250石」を貰い家臣と成る。
江戸は日本橋近くを与えられ、日本女性と結婚、一男一女をもうけた。
知識の広さで家康から厚遇され、伊豆国伊東で、西洋風の船を造り信任を得ている。
外交上の意見を開陳・幾何学・数理学等も講じている。貿易活動も行い、横須賀にアダムスと妻の「按針塚」がある。


「惠比須神」は、日本の神。
七福神の一柱、狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的。初春の祝福芸として、えびす人形を舞わせてみせた大道芸やその芸人のことも「恵比須(恵比須回し)」と呼んだ。
神格化された漁業の神としてのクジラのこと。
古くは勇魚ともいい、クジラを含む大きな魚全般をさした。海からたどり着いたクジラを含む、漂着物を信仰したもの。
寄り神信仰や漂着神ともいう。



「新井神社」は、伊東港、魚市場を見下ろし、遠く相模湾を望む高台にある神社。祭神は、蛭子神、諏訪神、八幡神の合祀です。


里人の伝承によると、昔新井の東の浜に流れ着いた蛭子さまを、西の浜の漁師が拾い祠を建てお祭りしたところ、その年は豊漁・豊作になったという
故事にならい始まったとされている。

新井神社には、産土祭の神興が別に1基あり、毎年7月15日に「お天王さん」の祭も行われると云う。が、最近は神輿の担ぎ手が減少との事。
明治30年蛭子神社・村内諏訪神社・八幡神社を合祀


            祭典は隔年正月七日俗に伊東の“裸まつり”として、神輿の海上渡御がある。
    
                 大祭・神輿の海上渡御は、平成5年に県無形民俗文化財に指定。


裸の若衆により勇壮に催される。
下帯一本の若衆にかつがれた大神輿が真冬の海に繰り出し、海上安全・大漁・満作・招福を祈願する。
里人の伝承によると、昔新井の東の浜に流れ着いた蛭子さまを、西の浜の漁師が拾い祠を建てお祭りしたところ、その年は豊漁・豊作になったという故事にならい始まったとされています。

新井神社には産土祭の神興が別に1基あり、毎年7月15日に「お天王さん」の祭も行われるそうです

  

次回は、奥野ダムに近い福禄寿ー林泉寺へ。