青森県南東部太平洋岸「八戸市」に。
岩手県北に源とする馬淵川と新井田川の下流域、沖積低地と河川本支流の広い台地と海岸低地に立地する。
中世支配者は「南部氏」で、「四門九戸の制」東西南北の四門一戸~九戸を統括している。
城下町と水産で、是川石器遺跡・貝塚・縄文遺跡や遺物が多数発掘している。
大正時代の日の出セメント(現住友)早くから工業化が進んだ「八戸地域新産業都市」昭和39年指定されている。
海は、八戸港・三陸海岸の要港として知られ、魚市場・冷凍工場・水産加工場・漁獲水揚高全国有数を誇る。
天然記念物に蕪島ウミネコ繁殖地や種差海岸は素晴らしい。
城跡は、本八戸駅南約200mにある。
平城跡、築城は、不明であるが中世には、西部の「根城」・南部の「新井田城」の3館一城体制で防御あっている。
八戸駅は、1891年・明治24年開業している。八戸の次が新青森駅で東京から631.9km。



「JR八戸線・本八戸駅」
八戸城跡は、駅の南側に位置し、北に向かって丸く突き出した台地上の一帯。
現在、城跡の一部は眺望の良い三八城公園として整備。
八戸城跡発掘調査ー八戸城角御殿表門の構造は棟門といわれ、通常は二本の柱(鏡柱)の上部を冠木でつなぎ、切妻屋根を載せるものであるが、
この門の場合は、四本の柱を一列に並べて冠木でつなぐ大規模なもので、平衡を保つため裏側に二本の支柱(控柱)を取付けるという特異な構造。
本八戸駅に至る縦の道路は、本丸と二の丸を区切る内堀であったと云う。
本八戸駅の南に出て坂を上がると、すぐ右手に、城公園、下の住居表示図のうち、内丸二丁目・三丁目の一画は、城の二の丸にあたり、
藩主一族や重臣の屋敷地であった。
JR八戸線・青森県八戸駅~岩手県久慈駅を結ぶ、25.9km。(孤立路線)



1664年、「南部重直」が世継ぎを決めずに亡くなったため「盛岡藩」は、
御家断絶の危機を、幕府は南部藩10万石を「八戸」2万石と「盛岡」8万石に分け、「南部直房により八戸城が築かれた」
八戸藩の始まりである。八戸藩の領地と現在の八戸市の領域にはかなり違いがあり、久慈市あたりまでが八戸藩であった。
八戸城下町には三日町、十三日町など市の立つ日を名前とした街が並んでおり、現在も八戸市中心市街地となっている。
港町である八戸市は、港湾と共に発展し、八戸藩誕生のころ、八戸の港はー鮫浦ーと呼ばれる漁港であった。
新井田川河口は湊川口と呼ばれ、こちらも漁港および商港として重要な拠点、大正4年、鮫浦港修築工事が開始され、昭和4年、に商港に指定されると鮫浦と湊川口を合わせて八戸港・八戸漁港と呼ぶようになった。
市には馬淵川と新井田川という二本の河川が流れているが、特に馬淵川は蛇行が激しく流量も多いため、水害の多い河川で、河口部分、馬淵川が大きく曲がって新井田川と合流するような形で太平洋に注ぎ込んでいた。
昭和12年、馬淵川の改修工事(河口付近の直線化)が開始されたが難航し、戦争のために中断、昭和24年、に工事が軌道に乗り、
新産業都市に指定ー昭和36年。臨海地域を工業地帯として利用可能となった。
セメント、火力発電所、製紙業、非鉄金属工業などの工場が相次いで進出し、工業港としての整備が本格化した。
3.11、の津波により港湾を中心に壊滅したが、岩手県以南よりは、比較的被害が少なかったと云う。

「岩岡徳兵衛」
岩岡徳兵衛翁は、明治33年、八戸町に生まれ、味噌醤油醸造の家業を継ぎ、政治を志し、初代八戸市長近藤喜衛氏の薫陶をうけ、
弱冠32歳にして八戸市会議員に当選、悠揚迫らぬうちにも時流を洞察する卓抜した識見、豊かな人間性はよく衆望を集め
昭和22年から6年有余議長の要職に在った。
28年9代目市長に就任、爾来3期12年にわたり市勢の伸展に奔走した。
特に、国立工業高等専門学校の誘致、新産業都市の指定等に際して発揮した政治力は、八戸市の近代化に大きな転機をもたらした。
昭和40年逝去、従五位勲四等瑞宝章を賜る。(碑文から)
岩岡徳兵衛翁像(公園内)



三八城とは、「三戸郡八戸城」という意味で、1644年、南部氏第28代の重直が盛岡で没するが、嗣子がいなかった。
盛岡は、重直の弟である重信が継ぎ、八戸は末弟の直房が領主となり、1666年築城、「八戸城が完成」。
八戸城は、2階建ての屋形と長屋だけの平山城で、天守閣はなかった。
以後明治時代まで八戸南部氏10代の居城として栄えた。
三八神社ー城跡の三八城公園には藩祖南部直房、甲斐源氏の祖新羅三郎義光、南部氏の祖である南部光行の3人を祭る三八城神社がある。
「みやぎさん」と呼称していると云う。
公園は本八戸駅のすぐ南西側にあり、繁華街の三日町にも近く、市民の憩いの場となっている。
公園の入り口の右手に、旧南部子爵邸(現在の南部会館)が、その門は「古桜門」と呼ばれ、旧城の表門であった朱塗りの薬医門が保存。


「八戸城」-馬渕・新井田両川の形成した沖積平野に突き出た洪積台地の先端部を利用して築城された平城ー
戦国時代の末に、三戸の南部信直・初代盛岡藩主)が、豊臣秀吉から朱印を受け、南部内七群を支配するようになった。
その子利直・第2代盛岡藩主は、1627年、に根城南部氏を遠野に移して、八戸を直支配とし、みずから縄張りをして当城および城下町の作事・普請をしたと伝えられる。
城および城下町の本格的な整備は、盛岡城に移った重直・第3代盛岡藩主・利直三男)が、1664年、世継ぎを定めないまま没したため、
幕府が新たに弟重信・第4代盛岡藩主・利直五男)に盛岡八万石を相続させ、同じく弟南部直房・初代八戸藩主・利直七男)に八戸2万石を分封したことにより、八戸藩が誕生。
三八城公園に建つー八戸藩初代藩主・南部直房公像ー(本丸跡地)

「城角御殿表門」
八戸市役所前、八戸藩政時代、後に御番頭となる煙山氏が寛政年間に創建した棟門と云う。
昭和53年の倒壊と翌年から行われた修理の際、棟札3枚(1797年の最古)と(毘沙門天像)が発見されたと云う。


本丸は、東西約150 m・南北200mの規模があり、三八城公園、三八城神社の敷地。



「源義経」1159-1189 源義朝の九男、藤原秀衡の庇護を受け、兄ー頼朝挙兵に参加するが、頼朝の許可を得ず任官し怒りをかい対立。
秀衡の子泰衡に襲われ自殺。?
「弁慶」 ~1189 義経の従臣で僧侶「吾妻鏡」には登場する。義経を守るため無数の矢を受け立ったまま死んだと云われる。



義経・弁慶伝説
大石を蹴り上げた時に出来たものと伝えらる「弁慶石」。
岩には大きな歪な足型と指の跡と思われる3個の穴が、又、義経は、平泉(岩手県平泉町)から脱出し北海道へ逃れてた「義経北行伝説」
逃避行程に八戸市内が含まれていたこともあり、義経、弁慶にまつわる伝説や史跡が市内に16ヵ所あり弁慶石もその1つ。
義経は久慈の侍浜から海上で北上し種差海岸に上陸、熊野神社の境内で休息し、その後、源治囲内の有力者に囲われ、その娘と恋仲となり
女児を設けた。高舘に屋敷を構え、小田八幡宮に毘沙門天を奉納したり、馬渕川の東の野原を京ヶ原、その北の州崎を京ヶ崎と名付けたり、
藤ヶ森稲荷神社、1732年、八戸藩の御側医格である関諄甫が編纂した「類家稲荷大明神縁起」には八戸での義経の行動が記載されていると云う。
数年後に蝦夷地を目指して八戸の地を去ったとも伝えられている。



「龗神社(おがみ)」
青森県八戸市内丸に鎮座し八戸市内で最古と言われる神社。
歴史は記録上判断できる限りでも約900年前の平安後期にまで遡り、創建の理由などを類推するとさらに遡ると考えられている。
正しくは「法霊山・龗神社」、江戸になり盛岡に南部藩が誕生すると、その領内にある八戸城の館神とされていたが、江戸時代初期の1665年
八戸藩が成立すると藩神の地位を得て八戸藩総鎮守。(南部家の祈願所)
規模拡張とともに八戸城内「二の丸」に遷座された事もあり、当時は一般領民などが簡単に参拝できる神社ではなかったと云う。
八戸三社大祭(重要無形民俗文化財)発祥の神社でもあり、
神社が所蔵している御神輿が長者山に渡る事が三社大祭の本来の由緒であると云う。
神社の「おがみ」の漢字は珍しい文字で、雨かんむりの下に「口」を横並びに3つ、その下に「龍」を書く。



二の丸は、 本丸の東南に位置し、現在の八戸市内丸二丁目・三丁目付近 にあたる。
角御屋敷、学校、馬屋が置かれ、
法霊山・おがみ神社、 八戸藩の祈祷寺であった豊山寺等があった。



「八戸三社大祭」ー約290年の歴史と 伝統を誇る八戸地方最大のお祭りー
華やかな山車絵巻が繰り出される。
国の重要無形民俗文化財に指定。(毎年7月31日から8月4日までの5日間)


次回は、新幹線で新青森駅へ。