秩父山地の東縁に位置する高尾山。
明治の森高尾国定公園に指定され、植物の採取、鳥類の捕獲も禁止。中腹には、数多くの建物や文化財を有する「高尾山薬王院」「サル園」
「野草園」や標高500mからの夜景を楽しめる山、山頂には、展望台や高尾ビジターセンターがある。
長さ1,697kmの東海自然歩道の起点であり、参拝客に、振る舞った「とろろそば」は、名物。
暖温帯系の照葉樹林帯(カシなどの常緑広葉樹)と冷温帯系の落葉広葉樹林(ブナ・イヌブナ・ナラ・ホオノキなど)・中間温帯林(モミ・ツガなどの針葉樹林)の境界に位置するため植生が豊かで、しかも都市部に近い割には比較的よく保たれている高尾山。
山は、元来は修験道の霊場で、「真言宗智山派大本山高尾山薬王院有喜寺の寺域」
高尾山という名前から真言密教の聖地の一つ・京都高雄山神護寺に見立てられたこともあり、天然の森林が守られてきた。
中世には、八王子城(慈護寺城)主北条氏康・北条氏照親子がこの山を保護し、氏照による「本山の竹木の伐採を禁じる」という制札が薬王院に
残され、江戸時代にも幕府直轄領となり八王子代官・大久保長安が山林保護政策をとり、その書状が同じく薬王院に残されていると云う。
その後も帝室御料林、国有林と常に保護されてきた。
明治以降、牧野富太郎をはじめ、多くの研究者により高尾山が最初の発見地として新しい植物が発表。
筑波山、房総半島、江の島まで眺めることができると云うが。
西側は、丹沢山地・富士山が。(八王子八十八景にも選ばれている)
高尾山には古くから天狗が存在しているとの伝説もある。
山頂から見て東側の地下には、ケーブルカーの下をくぐる形で、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の「高尾山トンネル」(下り線(南から北方向)1348m、上り線(北から南方向)1329m)が南北に掘られ、南側には、高尾山ICが。
「高尾杉」
弘法大師が高尾の参道を登ってこられ、杉の木達は枝を震わせたり、葉を鳴らしたりして騒ぎはじめた。
ところが途中の並木の1本が枯れ木となっていたので、弘法大師は、傍らの杉の木にたずねたところ、この間の落雷に打たれてしまったとのこと
「千年を共にし弘法大師様のおこしを待っていたのですが非常に哀れです」と別の杉が言ったところ、弘法大師は、1枚の飯盛りの杓子を取り出すと、
枯れ木の跡に突き立てた。
するとあれよあれよと見る間に、ぐんぐん杉の木が伸びはじめ、枯れ木がよみがえって見事な「千年杉」となりましたとさ。
「高尾山・薬王院 有喜寺」
山号ー高尾山・真言宗智山派 ・寺格ー大本山 ・本尊ー薬師如来・飯縄権現・創建年ー伝、天平16年(744年)・開基ー伝、行基、聖武天皇(勅願)
札所ー関東九十一薬師5番・関東三十六不動8番・ 多摩四国八十八箇所68番・ 東国花の寺百ヶ寺 東京8番
永和年間の1375 - 1379年、京都の醍醐寺から「俊源大徳」が入り、飯縄権現を守護神として奉ったことから、
飯縄信仰の霊山であるとともに修験道の道場として繁栄することとなる。
寺に伝わる「北条氏照」文書に拠れば、戦国期に高尾山は後北条氏当主「北条氏政」の弟「北条氏照」が高尾山一帯に広がる椚田郷を寄進し、
江戸時代には氏照文書を根拠に境内である高尾山を朱印地とする運動が。
「十善戒」
不殺生(むやみに生き物を傷つけない)・不偸盗(ものを盗まない)・不邪婬(男女の道を乱さない)・不妄語(うそをつかない)
不綺語(無意味なおしゃべりをしない)・不悪口(乱暴なことばを使わない)・不両舌(筋の通らないことを言わない)
不慳貪(欲深いことをしない)・不瞋恚(耐え忍んで怒らない)・不邪見(まちがった考え方をしない)
お釈迦様の教え「十善戒」が
文化財ー本社(権現堂)・大師堂・奥の院不動堂(都文化財)・木造不動明王及び二童子立像(都文化財)
木造地蔵菩薩立像(都文化財)等。
「大本堂」本尊ー薬師如来・中興本尊ー飯縄権現
薬王院の中心となる本堂で、薬師如来と飯縄権現を祀る。
現在の堂宇は、明治34年、建立。彩色は施されていないが、彫刻で装飾され、入母屋造である。
堂内には護摩壇がある。
「弁財天」
日本では後に財宝神としての性格が付与され、「才」が「財」の音に通じることから「弁財天」と表記する場合も多い。
弁天とも言われ、弁才天(弁財天)を本尊とする堂宇は、弁天堂・弁天社などと称されることが多い。
日本の弁才天は、吉祥天その他の様々な神の一面を吸収し、インドや中国とは微妙に異なる特質をもち、本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神の
一柱である市杵嶋姫命と同一視される。
「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。
古くから弁才天を祭っていた社では明治以降、宗像三女神または市杵嶋姫命を祭っているところが多い。
日本ではのちに「辨財天」とも書かれるようになった。「辯」と「辨」とは音は同じであるが異なる意味を持つ漢字であり、意味の上では、
「辯才(言語の才能)」を「辨財(財産をおさめる、財産をつぐなう)」で代用することはできない。
その一方、琵琶湖竹生島やその他各地には「辨才天」の名称も存在する。
戦後、当用漢字の制定により「辯」と「辨」は共に「弁」で代用することになったので、
現在は「弁才天」または「弁財天」と書くのが一般的である。
渡辺水巴の句碑。「白日はわが霊たまなりし落葉哉」水巴、1882ー1946年。
浅草生で、鳴雪・虚子に師事 俳句を専業とする俳人でホトトギスを代表する作家。
鈴木龍二の歌碑。「あはれかの八月二日の佛暁の 面影遠く 街復興す」
八王子は第二次世界大戦の終戦間際8月2日未明、米軍B29による空襲を受け、市内全域が焦土と化し、それから20年経ち、
鈴木龍二が、ここ高尾山に登り、ここから八王子市街を望み見て感慨にふけり歌ったものといわれている。
碑が多数ある。
「八王子城ー高尾山・ハイキングコース」
八王子城・ 本丸・ 大天守・ 富士見台・ 狐塚峠・小下沢登山口・ 景信山・小仏峠・ 小仏城山・一丁平・もみじ台・ 高尾山。
2~3時間コース
「高尾たこ杉」
露出した根の形がタコの足に似ていることから、この名前が付けられ、なぜこのような根の形をしているかは不明。
かつてまだ参道が整っていなかった頃、参詣の人たちが参道がきついのに難渋していたため、山の天狗たちが道普請をはじめましたが、途中で大きな根を四方に張る杉にぶつかりました。そこで、天狗たちは明日にでも杉を引き抜こうと相談し、次の日の朝に来てみると、杉は根をくるくると縮めて、邪魔にならないようになっていた、という伝説が。
次回は、高幡不動へ。
明治の森高尾国定公園に指定され、植物の採取、鳥類の捕獲も禁止。中腹には、数多くの建物や文化財を有する「高尾山薬王院」「サル園」
「野草園」や標高500mからの夜景を楽しめる山、山頂には、展望台や高尾ビジターセンターがある。
長さ1,697kmの東海自然歩道の起点であり、参拝客に、振る舞った「とろろそば」は、名物。
暖温帯系の照葉樹林帯(カシなどの常緑広葉樹)と冷温帯系の落葉広葉樹林(ブナ・イヌブナ・ナラ・ホオノキなど)・中間温帯林(モミ・ツガなどの針葉樹林)の境界に位置するため植生が豊かで、しかも都市部に近い割には比較的よく保たれている高尾山。
山は、元来は修験道の霊場で、「真言宗智山派大本山高尾山薬王院有喜寺の寺域」
高尾山という名前から真言密教の聖地の一つ・京都高雄山神護寺に見立てられたこともあり、天然の森林が守られてきた。
中世には、八王子城(慈護寺城)主北条氏康・北条氏照親子がこの山を保護し、氏照による「本山の竹木の伐採を禁じる」という制札が薬王院に
残され、江戸時代にも幕府直轄領となり八王子代官・大久保長安が山林保護政策をとり、その書状が同じく薬王院に残されていると云う。
その後も帝室御料林、国有林と常に保護されてきた。
明治以降、牧野富太郎をはじめ、多くの研究者により高尾山が最初の発見地として新しい植物が発表。
筑波山、房総半島、江の島まで眺めることができると云うが。
西側は、丹沢山地・富士山が。(八王子八十八景にも選ばれている)
高尾山には古くから天狗が存在しているとの伝説もある。
山頂から見て東側の地下には、ケーブルカーの下をくぐる形で、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の「高尾山トンネル」(下り線(南から北方向)1348m、上り線(北から南方向)1329m)が南北に掘られ、南側には、高尾山ICが。
「高尾杉」
弘法大師が高尾の参道を登ってこられ、杉の木達は枝を震わせたり、葉を鳴らしたりして騒ぎはじめた。
ところが途中の並木の1本が枯れ木となっていたので、弘法大師は、傍らの杉の木にたずねたところ、この間の落雷に打たれてしまったとのこと
「千年を共にし弘法大師様のおこしを待っていたのですが非常に哀れです」と別の杉が言ったところ、弘法大師は、1枚の飯盛りの杓子を取り出すと、
枯れ木の跡に突き立てた。
するとあれよあれよと見る間に、ぐんぐん杉の木が伸びはじめ、枯れ木がよみがえって見事な「千年杉」となりましたとさ。
「高尾山・薬王院 有喜寺」
山号ー高尾山・真言宗智山派 ・寺格ー大本山 ・本尊ー薬師如来・飯縄権現・創建年ー伝、天平16年(744年)・開基ー伝、行基、聖武天皇(勅願)
札所ー関東九十一薬師5番・関東三十六不動8番・ 多摩四国八十八箇所68番・ 東国花の寺百ヶ寺 東京8番
永和年間の1375 - 1379年、京都の醍醐寺から「俊源大徳」が入り、飯縄権現を守護神として奉ったことから、
飯縄信仰の霊山であるとともに修験道の道場として繁栄することとなる。
寺に伝わる「北条氏照」文書に拠れば、戦国期に高尾山は後北条氏当主「北条氏政」の弟「北条氏照」が高尾山一帯に広がる椚田郷を寄進し、
江戸時代には氏照文書を根拠に境内である高尾山を朱印地とする運動が。
「十善戒」
不殺生(むやみに生き物を傷つけない)・不偸盗(ものを盗まない)・不邪婬(男女の道を乱さない)・不妄語(うそをつかない)
不綺語(無意味なおしゃべりをしない)・不悪口(乱暴なことばを使わない)・不両舌(筋の通らないことを言わない)
不慳貪(欲深いことをしない)・不瞋恚(耐え忍んで怒らない)・不邪見(まちがった考え方をしない)
お釈迦様の教え「十善戒」が
文化財ー本社(権現堂)・大師堂・奥の院不動堂(都文化財)・木造不動明王及び二童子立像(都文化財)
木造地蔵菩薩立像(都文化財)等。
「大本堂」本尊ー薬師如来・中興本尊ー飯縄権現
薬王院の中心となる本堂で、薬師如来と飯縄権現を祀る。
現在の堂宇は、明治34年、建立。彩色は施されていないが、彫刻で装飾され、入母屋造である。
堂内には護摩壇がある。
「弁財天」
日本では後に財宝神としての性格が付与され、「才」が「財」の音に通じることから「弁財天」と表記する場合も多い。
弁天とも言われ、弁才天(弁財天)を本尊とする堂宇は、弁天堂・弁天社などと称されることが多い。
日本の弁才天は、吉祥天その他の様々な神の一面を吸収し、インドや中国とは微妙に異なる特質をもち、本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神の
一柱である市杵嶋姫命と同一視される。
「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。
古くから弁才天を祭っていた社では明治以降、宗像三女神または市杵嶋姫命を祭っているところが多い。
日本ではのちに「辨財天」とも書かれるようになった。「辯」と「辨」とは音は同じであるが異なる意味を持つ漢字であり、意味の上では、
「辯才(言語の才能)」を「辨財(財産をおさめる、財産をつぐなう)」で代用することはできない。
その一方、琵琶湖竹生島やその他各地には「辨才天」の名称も存在する。
戦後、当用漢字の制定により「辯」と「辨」は共に「弁」で代用することになったので、
現在は「弁才天」または「弁財天」と書くのが一般的である。
渡辺水巴の句碑。「白日はわが霊たまなりし落葉哉」水巴、1882ー1946年。
浅草生で、鳴雪・虚子に師事 俳句を専業とする俳人でホトトギスを代表する作家。
鈴木龍二の歌碑。「あはれかの八月二日の佛暁の 面影遠く 街復興す」
八王子は第二次世界大戦の終戦間際8月2日未明、米軍B29による空襲を受け、市内全域が焦土と化し、それから20年経ち、
鈴木龍二が、ここ高尾山に登り、ここから八王子市街を望み見て感慨にふけり歌ったものといわれている。
碑が多数ある。
「八王子城ー高尾山・ハイキングコース」
八王子城・ 本丸・ 大天守・ 富士見台・ 狐塚峠・小下沢登山口・ 景信山・小仏峠・ 小仏城山・一丁平・もみじ台・ 高尾山。
2~3時間コース
「高尾たこ杉」
露出した根の形がタコの足に似ていることから、この名前が付けられ、なぜこのような根の形をしているかは不明。
かつてまだ参道が整っていなかった頃、参詣の人たちが参道がきついのに難渋していたため、山の天狗たちが道普請をはじめましたが、途中で大きな根を四方に張る杉にぶつかりました。そこで、天狗たちは明日にでも杉を引き抜こうと相談し、次の日の朝に来てみると、杉は根をくるくると縮めて、邪魔にならないようになっていた、という伝説が。
次回は、高幡不動へ。