658年ー「安倍比羅夫」渡島を討つー「安倍高星丸」藤崎にのがれ「安東氏」の祖となるー1051年
阿倍比羅夫 は、七世紀に多数の軍船を率いて日本海側から北方遠征 (航海)をした人物、( 日本書紀)
「ねぶたの題材に」
斉明天皇4年4月のこの時の遠征には180艘の船団を組んだ。
越国守であった阿倍比羅夫はその船団を率いて蝦夷征伐に出発。 遠征先は雄物川河口の齶田(後の秋田市)と米代川河口の渟代(後の秋田県能代市)を中心に居住する蝦夷の地であった。
古代から狩猟や漁労が生業で、弥生時代前期のB.C.300年余の一時期には、水田稲作も営まれた豊かな地方。
秋田市四ツ小屋末戸松本字地蔵田に所在する地蔵田遺跡は、旧石器時代・縄文時代・弥生時代と営まれてきた遺跡が、弥生時代の集落が、B.C.3世紀の弥生時代前期に成立し、初期の稲作農耕文化を受容した痕跡を留めている。
弘前市大字三和にある砂沢遺跡から、1枚の面積が70~80㎡ある6枚の水田遺構が発掘された。この水田遺構は、青森県田舎館村の垂柳水田よりもさらに250年ほども遡ることになり、現段階では東日本最古の水田という。
ここに、大船団を組んで遠征する阿倍比羅夫の目的は、その地を大和政府の支配下に入れることにあった。
大和政権は聖徳太子以来、天皇中心の国家体制の確立を目指しながら、逆に蘇我氏が崇峻天皇を暗殺するほどに台頭。
「皇極天皇」(645)、中大兄皇子と中臣鎌足らにより蘇我入鹿を暗殺し、政治の実権を握ると、かつての氏姓制度を改革し、中央集権国家を強力に進める「大化の改新」策を実施する。その一方列島全域を統治するための軍事も敢行。
「大化」の年号が意味する「大いなる風化」とは、「徳の教えを以て、すべての人心を善導する」ことである。
「風化」の「風」とは、上の者が下位の者を教え導くという意味で、また「風俗」とは地方の民族文化ではなく、中央の文化を指した。
いわば大和政権の「皇命に服従させ、その傘下に入れる事、即ち「王化に服させる事」である。
しかしながら実際に戦いが行われたことの記録に乏しく、後世、桓武朝における「坂上田村麻呂」の武力遠征とは異なり、懐柔策を主体にした
王化策とみられ、比羅夫の遠征は蝦夷の風俗を調査し、服属と朝貢を促すことが目的であったと云う。
遠征後、都に蝦夷と一緒に 虜も連れて戻っているので、多少の戦闘はあったと云われている。
齶田(飽田)・渟代の2カ所の蝦夷は、その大軍を見て怖れを為して、降伏。
阿倍比羅夫は船団を齶田浦(雄物川河口付近)に停泊して降伏の 儀式を行い、 ここで齶田の蝦夷恩荷に小乙上の位を授けている。
その冠位は冠位十三階を改訂した大化5年の649年、施行の冠位十九階のもので、17階に当たると云う。
1891年、上野ー青森間全通
青森県五所川原の「福島城」はー(1312~17年頃安東氏城築く)。
十三湖北岸の丘陵地に築かれた平城で、内郭と外郭から構成された、とりとめないほど広大な城域を有した城である。
内郭は、方形単郭の城館で、周囲に土塁と水堀が残っていると云う。
外郭は、内郭から東に500m程も離れた位置にあり、国道脇に外周を防衛する高土塁と空堀、門跡が残っている。
土塁は高さ5m程もある豪壮なもので、途中で屈曲して横矢を掛けており、その南側に外郭東門や井戸の跡が、外郭は、延々十三湖の北岸まで続いていた
いう広大な城。中世城郭も珍しく、十三湊の海運を支配して莫大な富を誇っていた安東氏の勢威を今に伝えている。
青森県は、本州の最北端、東は太平洋・西は、日本海・南は、岩手、秋田県・北は、津軽海峡で北海道と相対し、県中央に奥羽山脈で東西を二分。
主の河川は、馬淵川・奥入瀬川が太平洋へ、岩木川.陸奥湾へ、堤川、田名部川、八戸平野・津軽平野・青森平野等で十和田湖・宇曾利山湖の火山湖
面積比は、山地32%・火山地18%・丘陵地16%・台地19%・低地15%。
青森と云えばー馬、海、リンゴ、県木ヒバー馬は、南部駒で、藩政時代に「藩牧」の経営に力を入れ、明治以降も軍馬・馬車に使っている。
又、戊辰戦争では、盛岡藩と弘前藩の不幸な戦いで、シコリが残っていると云う。
平成27年9月16日、北海道新幹線新青森~新函館北斗間の開業日を、平成28年3月26日(土)と発表。
青森市は、県庁所在地(前、弘前)、その、堤川が中央部を貫通している。
1624年、津軽藩の東・西廻両航路の起終点として開港され、物資集散地として栄えた。明治以降、北海道開拓の進展により「函館ー青森定期航路」が
1873年、開始している。東北本線・奥羽本線1891~4年開通している。
青函トンネル開通により連絡船は1988年で廃止されている。今後新幹線延長で年々変化。
ねぶた会館ー坂上田村麻呂伝説等十数台収納展示されている。
「大間マグロ」
太平洋と日本海の海流が交わり、漁場として全国的に知られ、大型マグロの一本釣り漁法は今でも健在である。
人形灯籠に灯りをともし、勇壮な囃子にのせて練り歩く「青森ねぶた」 自然美の「仏ヶ浦」
「太宰治」 1909-48 苦難と波乱に満ちた作家ー遺書のつもりで書いたと云う「思い出」~未完成の「グッド・バイ」遺作に。
次回、弘前で取り上げます。
「棟方 志功」ー板画家。青森県出身。
20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。
川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意。
1942年以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。
記念館
1970年文化勲章受章ー庭は、回遊庭園―1975年開館している。
「青函連絡船メモリアルシップ・八甲田丸」
活躍した船を公開。
操舵室・エンジン室などが、「近代産業遺産」登録
「リンゴの歌」
赤いリンゴに 口びるよせて
だまってみている 青い空
リンゴはなんにも いわないけれど
リンゴの気持は よくわかる
リンゴ可愛(かわ)いや可愛いやリンゴ
あの娘よい子だ 気立てのよい娘
リンゴによく似た かわいい娘
どなたが言ったか うれしいうわさ
かるいクシャミも とんで出る
リンゴ可愛いや可愛いやリンゴ、、、。
並木路子さんの「リンゴ唄」-昭和20年を思い出した。
1889年、弘前でリンゴ栽培が
青森県の広大な台地
次回は、弘前へ。