りんごの生産量が全国一、約20%を占めている。
「弘前は、お城とさくらとりんごのまち」のフレーズは古くから使われている。市の木として「りんご」、市の花として「さくら」。
8月には、国の重要無形民俗文化財に指定されている「弘前ねぷたまつり」、毎年100万人以上の人出があり、市を代表する夏祭り。
石坂洋次郎、小説「青い山脈」は、弘前が舞台に。
先生は、生徒をいかに指導すべき、ある出来事に対して、先生と生徒のどちらの側が正しいのかという議論がなされる。
出来事の裏側・本質というか、実際には、なにが議論の焦点に、男女交際のあり方。
「青い山脈」で描かれるのは、戦後間もなくの時代、大きく時代が変化しつつある頃、民主主義、民主主義と叫びながら、まだ古い固定観念に
縛られているのが学校の先生たち、そして町の人々、結婚というのは、お見合いをしてするのが当たり前で、若い男女が町を歩いていたら、
大事で、不純で汚らわしいものとして扱われた。偏見の目や、凝り固まった古い考えを捨てて、新しい風を吹かそう、清く正しい男女交際が
あったっていいじゃないかと、、、、。
青い山脈ー歌詞ー
若くあかるい 歌声に 雪崩は消える 花 も咲く 青い山脈 雪割桜 空のはて 今日もわれらの 夢を呼ぶ
古い上衣よ さようなら 青い山脈... 。
弘前は、城下町でありながら、もう一方で明治大正時代の洋館が数多く点在する街。また、夜になると期間中、現存する洋館などをライトアップされる。
ここでは、城下町弘前にある、可愛らしい洋館建物の「ミニチュア」にして展示していた。(市図書館の裏手)
城の前には、旧弘前図書館や、旧東奥義塾外人教師館が、その広場で

「大道寺繁禎」1844ー1919、幕末期の弘前藩士で、明治時代の実業家、政治家。
文久2年の1862年、家督1200石を継ぎ、大寄合、側役、学校惣司などを経て家老に。
明治元年の1867年、戊辰戦争の際には青森口軍事総轄、戦後は、権大参事、郡長、執政などで活躍した。
明治6年区長・12年の県会議員就任をはじめ、南津軽郡郡長、中津軽郡長など地方政界で活躍した。
実業家としても活躍し、第五十九銀行(現青森銀行)の頭取、弘前電燈社長などを務めた。特に弘前農具会社(現角弘)の設立は有名。
明治40年、弘前市立図書館長となった。
「弘前図書館」

「旧制・弘前高等学校」
大正9年、 弘前高等学校設立。ー 鵬の校章、 校歌 (土井晩翠 作詞、弘田龍太郎 作曲) もこの頃。 仮校舎 は、弘前市公会堂で開校式。
仮寮は市内西茂森町と寺 8ヶ所。大正11年 北溟寮完成している。大正12年末、 生徒により社会思想研究会結成。
1924年の大正13年、 校舎落成式を挙行された。
旧制弘前高等学校ー校歌
「虚空に羽ばたき」 作詞 土井 晩翠 作曲 弘田 龍太郎
1ー虚空 に羽ばたき南を図る 大鵬われらの徽章とかざす 紅顔抱かん理想の高き 譬えか岩木の 偉大の姿
2ー高山仰ぎて景行向う いにしえもろとも此道ひとつ 力を ...
弘前高等学校講堂

弘前公会堂

明治時代の弘前は、国内でキリスト教の布教が早い地方の一つ。
明治8年には、“東奥義塾高校”から22人の集団受洗者が、本塾に宣教師が英語の先生として招かれ、明治34年に外人宣教師館が建てられる。
弘前城と対照的な明治時代に建てられた洋風建築物が立ち並び戦争の空襲から免れた影響で未だに現存する建物 。
旧東奥義塾外人教師館(これは、ミニではありません)

弘前慈善館

弘前昇天教会聖堂、日本基督教団弘前教会堂、旧弘前郵便局、青森銀行記念館、青森銀行記念館などどれも精巧で、旧弘前市役所では2階バルコニーに市長さんのようなミニチュアがあり、旧制弘高講堂では学生服のミニチュアが2階バルコニーで右手を突き出すなど、とても手が込んでいた。
角み呉服店

明治37年、 ロシア艦隊が青森・秋田県境の艫作沖で日本の商船を撃沈。明治38年、 第八師団が第一・第七・第九師団とともにロシア軍と死闘。
死傷者甚大。(黒溝台の会戦)明治39年、 弘前市立図書館(堀江佐吉らによる洋風建築)完成。
1909年の明治42年、 市内に電話開通した。
旧弘前偕行社

菊池薬局

弘前教会聖堂

弘前旧郵便局

キリスト教団教会堂

昭和63年、 砂沢遺跡で東日本最古(弥生前期)の水田跡が発見。平成元年、 市制施行100周年を迎える。
平成2年、 市制施行100周年の記念事業として追手門広場などが整備される。
平成18年、 旧弘前市、中津軽郡岩木町、相馬村が新設合併し、新制による弘前市が発足。
平成18年、 新弘前市の市章「卍」、市の花「さくら」、市の木「りんご」を制定。
平成23年、 弘前城落成から400年を迎え、年間を通して弘前城築城400年祭を開催された。
青森銀行記念館

田中屋(津軽塗)の白壁に太い木柱の店舗は、 旧弘前市役所
の古材を再生した建物だそうです。
旧弘前市役所

次回は、五所河原へ。
「弘前は、お城とさくらとりんごのまち」のフレーズは古くから使われている。市の木として「りんご」、市の花として「さくら」。
8月には、国の重要無形民俗文化財に指定されている「弘前ねぷたまつり」、毎年100万人以上の人出があり、市を代表する夏祭り。
石坂洋次郎、小説「青い山脈」は、弘前が舞台に。
先生は、生徒をいかに指導すべき、ある出来事に対して、先生と生徒のどちらの側が正しいのかという議論がなされる。
出来事の裏側・本質というか、実際には、なにが議論の焦点に、男女交際のあり方。
「青い山脈」で描かれるのは、戦後間もなくの時代、大きく時代が変化しつつある頃、民主主義、民主主義と叫びながら、まだ古い固定観念に
縛られているのが学校の先生たち、そして町の人々、結婚というのは、お見合いをしてするのが当たり前で、若い男女が町を歩いていたら、
大事で、不純で汚らわしいものとして扱われた。偏見の目や、凝り固まった古い考えを捨てて、新しい風を吹かそう、清く正しい男女交際が
あったっていいじゃないかと、、、、。
青い山脈ー歌詞ー
若くあかるい 歌声に 雪崩は消える 花 も咲く 青い山脈 雪割桜 空のはて 今日もわれらの 夢を呼ぶ
古い上衣よ さようなら 青い山脈... 。
弘前は、城下町でありながら、もう一方で明治大正時代の洋館が数多く点在する街。また、夜になると期間中、現存する洋館などをライトアップされる。
ここでは、城下町弘前にある、可愛らしい洋館建物の「ミニチュア」にして展示していた。(市図書館の裏手)
城の前には、旧弘前図書館や、旧東奥義塾外人教師館が、その広場で

「大道寺繁禎」1844ー1919、幕末期の弘前藩士で、明治時代の実業家、政治家。
文久2年の1862年、家督1200石を継ぎ、大寄合、側役、学校惣司などを経て家老に。
明治元年の1867年、戊辰戦争の際には青森口軍事総轄、戦後は、権大参事、郡長、執政などで活躍した。
明治6年区長・12年の県会議員就任をはじめ、南津軽郡郡長、中津軽郡長など地方政界で活躍した。
実業家としても活躍し、第五十九銀行(現青森銀行)の頭取、弘前電燈社長などを務めた。特に弘前農具会社(現角弘)の設立は有名。
明治40年、弘前市立図書館長となった。
「弘前図書館」

「旧制・弘前高等学校」
大正9年、 弘前高等学校設立。ー 鵬の校章、 校歌 (土井晩翠 作詞、弘田龍太郎 作曲) もこの頃。 仮校舎 は、弘前市公会堂で開校式。
仮寮は市内西茂森町と寺 8ヶ所。大正11年 北溟寮完成している。大正12年末、 生徒により社会思想研究会結成。
1924年の大正13年、 校舎落成式を挙行された。
旧制弘前高等学校ー校歌
「虚空に羽ばたき」 作詞 土井 晩翠 作曲 弘田 龍太郎
1ー虚空 に羽ばたき南を図る 大鵬われらの徽章とかざす 紅顔抱かん理想の高き 譬えか岩木の 偉大の姿
2ー高山仰ぎて景行向う いにしえもろとも此道ひとつ 力を ...
弘前高等学校講堂

弘前公会堂

明治時代の弘前は、国内でキリスト教の布教が早い地方の一つ。
明治8年には、“東奥義塾高校”から22人の集団受洗者が、本塾に宣教師が英語の先生として招かれ、明治34年に外人宣教師館が建てられる。
弘前城と対照的な明治時代に建てられた洋風建築物が立ち並び戦争の空襲から免れた影響で未だに現存する建物 。
旧東奥義塾外人教師館(これは、ミニではありません)

弘前慈善館

弘前昇天教会聖堂、日本基督教団弘前教会堂、旧弘前郵便局、青森銀行記念館、青森銀行記念館などどれも精巧で、旧弘前市役所では2階バルコニーに市長さんのようなミニチュアがあり、旧制弘高講堂では学生服のミニチュアが2階バルコニーで右手を突き出すなど、とても手が込んでいた。
角み呉服店

明治37年、 ロシア艦隊が青森・秋田県境の艫作沖で日本の商船を撃沈。明治38年、 第八師団が第一・第七・第九師団とともにロシア軍と死闘。
死傷者甚大。(黒溝台の会戦)明治39年、 弘前市立図書館(堀江佐吉らによる洋風建築)完成。
1909年の明治42年、 市内に電話開通した。
旧弘前偕行社

菊池薬局

弘前教会聖堂

弘前旧郵便局

キリスト教団教会堂

昭和63年、 砂沢遺跡で東日本最古(弥生前期)の水田跡が発見。平成元年、 市制施行100周年を迎える。
平成2年、 市制施行100周年の記念事業として追手門広場などが整備される。
平成18年、 旧弘前市、中津軽郡岩木町、相馬村が新設合併し、新制による弘前市が発足。
平成18年、 新弘前市の市章「卍」、市の花「さくら」、市の木「りんご」を制定。
平成23年、 弘前城落成から400年を迎え、年間を通して弘前城築城400年祭を開催された。
青森銀行記念館

田中屋(津軽塗)の白壁に太い木柱の店舗は、 旧弘前市役所
の古材を再生した建物だそうです。
旧弘前市役所

次回は、五所河原へ。