syuの日記・気まま旅

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変わらない街・ 谷中界隈

2015-12-20 | syu散歩

「JR日暮里駅」
明治38年、三河島 - 日暮里間が開通・明治39年、 日本鉄道の国有化。明治42年、 線路名称制定により東北本線の所属に。
昭和3年、駅を現在地に移転。昭和6年、 京成電気軌道(現・京成電鉄)の駅が開業。昭和27年、 日暮里駅構内乗客転落事故が、南側跨線橋が建設)。
(10番線に面した羽目板が破れて乗客が落下したところに電車が進入し、8人が死亡)・
昭和29年、 乗客転落事故を受け、混雑解消のため谷中墓地下の崖を削り取り、ホームの新設工事。東北本線・高崎線の在来線ホーム2本を撤去し、
新幹線の路線を構内に確保するための在来線軌道移設切り替え工事が続いいた。
日暮里駅と云えば、発生した関東大震災の避難列車ー終戦後の買い出し列車(検察で闇米を日暮里~鶯谷中間でね投棄てられた)
昭和27年の日暮里駅構内乗客転落事故であった。
駅は、南口が、荒川区で日暮里、北・南千住、京成の荒川・田端寄りの尾久、町谷(尾竹橋・尾久橋)ー隅田川・荒川に出る。
駅の、西口が、台東区で、谷中、桜木町、寛永寺、上野公園に出られる。
戦後の闇市で知られるのに「上野」「錦糸町」「日暮里」が三大闇市であった。
日暮里駅南口は、特に子供相手の駄菓子・玩具の問屋街と端切れ生地の小売店が集中している。ベーコマ・メンコ・花火・ガム・ケン玉・凧などが安く買え子供に人気があった駅である。
紙芝居屋さんが仕入に来るところでもあり、当時人気の「黄金バット」が、いちはやく見る事が出来たと云う。
1919年創業の「羽二重団子」は、夏目漱石・花袋の本の中にも出てくる団子屋さんで、彰義隊戦争で、官軍の砲弾跡・彰義隊の槍などが展示されていたが、現在は判らない。
西口は、散策する。
         JR日暮里中央改札口(京成・舎人ライナー)


日暮里駅西口は高台、文人墨客らで賑わったs。
日暮里駅に近い「幸田露伴」は、下谷生まれ、家は没落し、中学を半ぱでやめ電信技師として北海道へ渡っている。
1889年「風流仏」で文壇に認められ「五重塔」(天王寺の谷中墓地中央に五重の塔をモデルに特異な作風で、たちまち新進代表作家に。
尾崎紅葉と文壇を二分する勢力を示している。「頼朝」「運命」「芭蕉七部集」「一国の首都」-文学博士・1937年第一回文化勲章受章。

幸田露伴は、商店街に向かって左、
右には「本行寺」(太田道灌丘碑がある)・「経王寺」(彰義隊戦の時の弾痕が山門に残っている)
「延命院」(歌舞伎で知られた幕府の奥女中誘惑の延命院事件の寺)。が並んでいる。その先が「谷中商店街」に、
今日は、谷中墓地に沿った細い道を左に折れる。

江戸長屋文化は、終戦まで続いていた。
    

谷中は、上野公園から続く台地上の地域・文京区の本郷台の間の谷間で「谷中」の地名が。
谷中と明暦の大火(1657年)は、関係深い、神田・日本橋などから寺院は転入し、寺町を形成している。
江戸幕府は、寛永寺を鬼門し天王寺の境内の墓地に霊園を造り、徳川家の墓地としている。谷中と云えば、桜並木と五重塔と坂道で、関東大震災
(1923年)や震災を免れた街並みが残る。

大黒天「経王寺」の山門に穴が数か所ある。
    

左折すると都煎餅と江戸象牙の看板が、昔懐かしい長屋商店が。
    

刃物の砥ぎや歴史は古く、鎌倉時代にひとりの刀匠、元重が関で刀鍛冶を始めたことが 最初。
良質の焼刃土が 、砥石をつかって正しい包丁の研ぎ専門店は少なくなった。
道具や 包丁にも歴史や伝統が。

「朝倉彫塑館」ー入館有料
谷中七丁目にある。明治 - 昭和の 彫刻・彫塑家ー朝倉文夫のアトリエ兼住居を改装した美術館。

1986年に、区に移管され、現在は公益財団法人台東区芸術文化財団が運営・管理を。月曜日休み
    

「長安寺」
延命長寿、諸病平癒、人々の安全と健康を守る神様が祀られている。
長安寺の歴史は古く、建立は、寛文9年の1669年、これよりさらに400年も前にさかのぼった板碑(塔婆の一種)が残されている。
長安寺には明治初期の画家「狩野芳崖」(1828-1888)の墓所がある。

                    向かいの奥が谷中墓地「五重塔跡・桜並木通り」
    

明暦の大火ー1657年「振袖火事」人形町の吉原は浅草へ。
江戸城の北と西から、2日間3度出火で江戸の町60%焼失、天守・二の丸・三の丸焼失。後再建されず。
大名屋敷160・旗本屋敷770・寺社350余り・死者10万人以上。風下家破壊消火が主体であった。
1772年ー目黒行人坂の大火。1806年ー丙寅の大火。1855年ー安政大地震、、、と続いていた。

明治・大正の建物が今でも健在              赤塚鼈甲店も古い
    

「江戸時代の長屋文化」
武家屋敷、中層以上の商家などは表通りに独立した屋敷・店を構え、それ以外の町人、職人などは、ほとんどが裏町の長屋に借家住まいだったと云う。
大名屋敷の敷地内にも長屋が造られ、家臣らを住まわせ、裏町に見られた長屋は、落語や川柳の格好の題材になったと云う。
長屋は、平屋建、玄関を入るとすぐ台所、部屋はせいぜい2部屋程度。
路地に共同トイレがあり、風呂は無い。水は共同の井戸が有ったが、これは地下水をくみ上げるものではなく、神田上水から供給されていた
水道水の取水口である。そのため水が桶に溜まるまで多少の時間がかかり、それを待つ間に近所の者で世間話をする。それを「井戸端会議」という。
「大家」と言えば、所有者(家主)とは異なり、住民の家賃を集めたり、管理を任されている者のことで、狭い長屋暮らしに大量の所有物を
収納するスペースは無く、長屋には様々な生活物品を貸し出す損料屋(質屋を兼ねたレンタル業に相当)が発達した。

九尺二間の棟割長屋、割長屋、 間口が9尺(約2.7m)、奥行きが2間(約3.6m)の住戸を連ねた長屋を九尺二間の長屋といった。
「九尺二間の長屋」ー畳6畳の部屋とほぼ同規模の大きさでありそのうち約1畳半を土間として、4畳半を部屋として区画されているのが一般的。
「棟割長屋」ー建物の棟方向に壁を造って前後に区分してしまう物を指した。このタイプでは開口部が一方向しか取れないため、通風・採光に難があり、
住環境は劣悪になる。
江戸時代の江戸の長屋は火事になることを前提にしており、柱の太さは2寸と建築費が安価で、かつ破壊消火が容易なつくりで、すぐに再建できるようにと、板葺きに下見板という焼屋造りとよばれるつくりが多かったと云う。

熊さん・大家さんが顔を出してきそうな終戦直後の長屋が。   この先は初音
    

00君、ベーゴマやらない・・。今は無い子供の声            東京芸大方面へ
  

子供の姿を一人もみません、終わり。