律令制が崩壊、荘園制が発達して関東各地で武士団が形成された平安時代後期。
武蔵七党のひとつ、横山党(武蔵七党系図筆頭)がこの地方に興った。
横山党は古代氏族小野氏の末裔である小野義隆が武蔵権守となり、現在の八王子市横山町に名を残す横山荘に居館を構えて横山氏を称したのに由来。
横山党の一族には由木氏・田名氏・海老名氏・平山氏など八王子近辺の地名を名字とする武士がおり、その勢力が八王子市域一帯に広がっていた。
横山党の勢力は鎌倉時代に入ると「和田合戦」以降衰退し、13世紀にはかわって鎌倉幕府の重臣ー大江氏の一族であるー長井氏や、
執権北条氏の一族の支配が浸透。
室町時代に入り、15世紀になると関東管領を世襲した山内上杉家の被官で武蔵など関東数カ国の守護代を歴任したー大石氏が武蔵西部に地盤を築き、
八王子市域一帯を支配するようになる。
片倉城や高月城、滝山城などの八王子市域の中世城館の多くはこの時期に建てられたものである。
戦国時代の16世紀前半に南の相模国から北上してきたー後北条氏が多摩地域から武蔵全域に向かって勢力を伸張し、大石氏もその圧力を受けた。
1546年、山内・扇谷両上杉家が河越夜戦で敗れると大石氏は後北条氏に屈服することになり、北条氏康の次男氏照を養子に迎えることで、完全に
後北条氏に取り込まれることにる。
北条氏照は、はじめ大石氏の地盤をそのまま受け継いで滝山城に拠っていたが、1584年頃、滝山城の西南にあって甲州街道筋の敵軍を監視することができる深沢山(現在の城山)に新城を築城した。
この城は、山麓に牛頭天王の8人の王子神である「八王子権現」が祀られている八王子神社があり、八王子権現を城の鎮守とし「八王子城」と名づけ、
城名が市名の由来である。山の南麓を流れる北浅川の支流、城山川の谷筋に沿って設けられた城下町が八王子の町のもとに。
八王子城遺構の調査、発掘と遺跡の整備は近年急速に進んでおり、この城が畿内で発展した安土桃山時代の新式の城の影響を受け、広い大手道や
大きな城門を備えた大がかりなもの、遺跡からは発掘により五彩磁器皿などの磁器や茶道具、香炉、ベネチアンガラス、などが出土している。
学生が多い「八王子駅」
八王子千人同心は、江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子(現・都八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団。
その任務は甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持で、寛政12年集団で北海道・胆振の勇払などに移住し、苫小牧市、白糠町の基礎を作ったと云う。
徳川江戸入府に伴い、1600年に発足。
代官頭大久保長安が統括し、発足当時の状況について、徳川幕府の正史「徳川実紀」にはこう書かれている。
「(家康公は)江戸で長柄の槍を持つ中間を武州八王子で新規に五百人ばかり採用され、甲州の下級武士を首領とした。
その理由は、八王子は、武蔵と甲斐の境界なので、有事の際には小仏峠方面を守備させようとお考えになったからで、 同心どもは常々甲斐国の郡内へ
往復して、絹や綿の類を始めとして甲斐の産物の行商を行い、江戸で売り歩くことを平常時の仕事にするようになされたのだ。」(ー現代語訳)
八王子千人同心屋敷跡の碑
八王子・千人町という地名は、千人同心に由来。
甲州境の警備・治安維持を主とする郷士集団であるが、平常は百姓としての生活を続け、将軍の上洛或いは日光社参には供奉を務めた。
幕末の動乱期には、1855年以降、西洋銃の訓練を命じられ、横浜警備、長州出兵にも動員された。
1865年、幕府陸軍奉行の支配下に組み込まれることになり、「千人隊」と改称された。
1868年、参謀板垣退助率いる東山道鎮撫軍が八王子に到着すると、これを迎え入れ恭順の意を表するとともに、徳川家に対する寛大な処分を願う
嘆願書を提出している。その後、千人隊は解散した。
新選組六番隊長井上源三郎は八王子同心の井上松五郎の三男である。
「南浅川橋」
昭和11年の1936年、コンクリートアーチ式の橋。
南浅川に架り、多摩御陵(大正・昭和天皇・武蔵陵墓地)への参道となっている。
威厳のある形式と周辺の自然との調和を考慮したデザインが施されているのが特徴と云う。
南浅川橋
「綾南公園」-59611m2・東浅川町にある都立公園。
武蔵陵墓地の南側にあることが名称の由来である。南浅川に隣り合うように立地し、南浅川緑道と一体化しているように見える。
1964年東京オリンピックの際に自転車競技場として使用され、その後公園となった。
武蔵陵墓地へのまちなみ参道
大正天皇・昭和天皇武蔵陵墓地へ
「武蔵陵墓地」
都八王子市長房町にある皇室墓地・大正天皇・貞明皇后陵・昭和天皇・香淳皇后陵の4陵が造営されている。
昭和天皇陵が造営される以前は多摩御陵と称していたが、現在でも通称として使われている。八王子八十八景のひとつ。
入口
陵墓規模は、天皇 2500平米(㎡)以下 皇后 1800平米(㎡)以下の規定があると云う。
大正天皇陵 上円下方墳の一辺 27m×27m=729㎡なので、規定の2500平米(㎡)以下は周囲の玉垣内の面積と思われる。
陵形は、上円下方墳は5例しかない。円丘が圧倒的に多く、次に前方後円墳が多いと云う。
大化の改新、薄葬礼に関係しそうな38代天智天皇の陵は、上円下方墳。子の39代弘文天皇や、40代天武天皇は円丘。
天武天皇の皇后41代持統天皇は父親の天智天皇と同じ上円下方墳。
その後上円下方墳陵が出現するのは122代明治天皇陵以後。
明治天皇の父帝は孝明天皇陵は円丘。 天皇 2500平米(㎡)以下 皇后 1800平米(㎡)以下の規定は明治時代の皇室典範制定と思われる。
伝統が受け継がれ、天皇陵は時代の流れ、財力、仏教興隆などの影響で形式が一定していないとも云う。
中世方形堂の廟があったり、108代後水尾天皇以降、京都泉湧寺の御廟では九重の塔、幕末の神道隆盛から、大化の薄葬礼、
上円下方墳が復活。
「明治天皇」 1852-1912 122代天皇
政治的大変動、薩長両藩へ倒幕の密刺を下すし、徳川慶喜の「大政奉還」を許し、王政復興ー江戸を東京と改め、版籍奉還・廃藩置県
1868年、「五箇条の誓文」発布。
明治天皇陵は、京都市伏見区 1912年の大正元年。
明治45年、東京の宮城・明治宮殿で崩御、現在の神宮外苑にて大喪儀が執り行なわれた後、埋葬され、陵の敷地は、
豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地、京都に墓所が営まれたのは明治天皇の遺言という。
「大正天皇」 1879-1926 123代天皇ー明治天皇の第三皇子ー1889年皇太子
陸軍少尉任官、病弱で在位期間は短いー1921年皇太子「裕仁・昭和天皇」が摂政に任辞られている。大正デモクラシーの時代。
普通選挙へと歩む。関東大震災は、近代化に拍車をかけた。
「昭和天皇」 1901-89 124代天皇ー大正天皇の第一皇子ー1921年摂政・イギリス・アメリカと開戦ーソ蓮参戦と原子爆弾投下
ポツダム宣言受諾・玉音放送で敗戦を告げた。歴代天皇で最長。
大正・昭和天皇上円下方墳
「高尾駅」は、明治34年開設・昭和36年、に 高尾駅に改称され、昭和42年、 京王帝都電鉄高尾線開通した。
昭和62年、 国鉄分割民営化により、中央本線の駅はJR東日本の駅となり、平成9年、 関東の駅百選に選定されている。
JR高尾駅
選定理由は「高尾山の玄関口として親しまれている趣ある社寺風の駅」。
高尾駅前「大光寺」真言宗智山派寺院の寺・正名山地蔵院と号し、高尾山薬王院第九世・源恵上人が元和元年の1615年、創建。
多摩八十八ヶ所霊場70番札
高尾山・薬王院第9世「源恵上人」1615年創建
境内には見事な桜が咲き誇る荘厳なお寺で、入り口から右の奥に見える桜は高尾地域で最高齢の樹齢400年の老木が、
しだれ桜で知られている。
高尾駅ホームから
大光寺
大光寺本堂
武蔵七党のひとつ、横山党(武蔵七党系図筆頭)がこの地方に興った。
横山党は古代氏族小野氏の末裔である小野義隆が武蔵権守となり、現在の八王子市横山町に名を残す横山荘に居館を構えて横山氏を称したのに由来。
横山党の一族には由木氏・田名氏・海老名氏・平山氏など八王子近辺の地名を名字とする武士がおり、その勢力が八王子市域一帯に広がっていた。
横山党の勢力は鎌倉時代に入ると「和田合戦」以降衰退し、13世紀にはかわって鎌倉幕府の重臣ー大江氏の一族であるー長井氏や、
執権北条氏の一族の支配が浸透。
室町時代に入り、15世紀になると関東管領を世襲した山内上杉家の被官で武蔵など関東数カ国の守護代を歴任したー大石氏が武蔵西部に地盤を築き、
八王子市域一帯を支配するようになる。
片倉城や高月城、滝山城などの八王子市域の中世城館の多くはこの時期に建てられたものである。
戦国時代の16世紀前半に南の相模国から北上してきたー後北条氏が多摩地域から武蔵全域に向かって勢力を伸張し、大石氏もその圧力を受けた。
1546年、山内・扇谷両上杉家が河越夜戦で敗れると大石氏は後北条氏に屈服することになり、北条氏康の次男氏照を養子に迎えることで、完全に
後北条氏に取り込まれることにる。
北条氏照は、はじめ大石氏の地盤をそのまま受け継いで滝山城に拠っていたが、1584年頃、滝山城の西南にあって甲州街道筋の敵軍を監視することができる深沢山(現在の城山)に新城を築城した。
この城は、山麓に牛頭天王の8人の王子神である「八王子権現」が祀られている八王子神社があり、八王子権現を城の鎮守とし「八王子城」と名づけ、
城名が市名の由来である。山の南麓を流れる北浅川の支流、城山川の谷筋に沿って設けられた城下町が八王子の町のもとに。
八王子城遺構の調査、発掘と遺跡の整備は近年急速に進んでおり、この城が畿内で発展した安土桃山時代の新式の城の影響を受け、広い大手道や
大きな城門を備えた大がかりなもの、遺跡からは発掘により五彩磁器皿などの磁器や茶道具、香炉、ベネチアンガラス、などが出土している。
学生が多い「八王子駅」
八王子千人同心は、江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子(現・都八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団。
その任務は甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持で、寛政12年集団で北海道・胆振の勇払などに移住し、苫小牧市、白糠町の基礎を作ったと云う。
徳川江戸入府に伴い、1600年に発足。
代官頭大久保長安が統括し、発足当時の状況について、徳川幕府の正史「徳川実紀」にはこう書かれている。
「(家康公は)江戸で長柄の槍を持つ中間を武州八王子で新規に五百人ばかり採用され、甲州の下級武士を首領とした。
その理由は、八王子は、武蔵と甲斐の境界なので、有事の際には小仏峠方面を守備させようとお考えになったからで、 同心どもは常々甲斐国の郡内へ
往復して、絹や綿の類を始めとして甲斐の産物の行商を行い、江戸で売り歩くことを平常時の仕事にするようになされたのだ。」(ー現代語訳)
八王子千人同心屋敷跡の碑
八王子・千人町という地名は、千人同心に由来。
甲州境の警備・治安維持を主とする郷士集団であるが、平常は百姓としての生活を続け、将軍の上洛或いは日光社参には供奉を務めた。
幕末の動乱期には、1855年以降、西洋銃の訓練を命じられ、横浜警備、長州出兵にも動員された。
1865年、幕府陸軍奉行の支配下に組み込まれることになり、「千人隊」と改称された。
1868年、参謀板垣退助率いる東山道鎮撫軍が八王子に到着すると、これを迎え入れ恭順の意を表するとともに、徳川家に対する寛大な処分を願う
嘆願書を提出している。その後、千人隊は解散した。
新選組六番隊長井上源三郎は八王子同心の井上松五郎の三男である。
「南浅川橋」
昭和11年の1936年、コンクリートアーチ式の橋。
南浅川に架り、多摩御陵(大正・昭和天皇・武蔵陵墓地)への参道となっている。
威厳のある形式と周辺の自然との調和を考慮したデザインが施されているのが特徴と云う。
南浅川橋
「綾南公園」-59611m2・東浅川町にある都立公園。
武蔵陵墓地の南側にあることが名称の由来である。南浅川に隣り合うように立地し、南浅川緑道と一体化しているように見える。
1964年東京オリンピックの際に自転車競技場として使用され、その後公園となった。
武蔵陵墓地へのまちなみ参道
大正天皇・昭和天皇武蔵陵墓地へ
「武蔵陵墓地」
都八王子市長房町にある皇室墓地・大正天皇・貞明皇后陵・昭和天皇・香淳皇后陵の4陵が造営されている。
昭和天皇陵が造営される以前は多摩御陵と称していたが、現在でも通称として使われている。八王子八十八景のひとつ。
入口
陵墓規模は、天皇 2500平米(㎡)以下 皇后 1800平米(㎡)以下の規定があると云う。
大正天皇陵 上円下方墳の一辺 27m×27m=729㎡なので、規定の2500平米(㎡)以下は周囲の玉垣内の面積と思われる。
陵形は、上円下方墳は5例しかない。円丘が圧倒的に多く、次に前方後円墳が多いと云う。
大化の改新、薄葬礼に関係しそうな38代天智天皇の陵は、上円下方墳。子の39代弘文天皇や、40代天武天皇は円丘。
天武天皇の皇后41代持統天皇は父親の天智天皇と同じ上円下方墳。
その後上円下方墳陵が出現するのは122代明治天皇陵以後。
明治天皇の父帝は孝明天皇陵は円丘。 天皇 2500平米(㎡)以下 皇后 1800平米(㎡)以下の規定は明治時代の皇室典範制定と思われる。
伝統が受け継がれ、天皇陵は時代の流れ、財力、仏教興隆などの影響で形式が一定していないとも云う。
中世方形堂の廟があったり、108代後水尾天皇以降、京都泉湧寺の御廟では九重の塔、幕末の神道隆盛から、大化の薄葬礼、
上円下方墳が復活。
「明治天皇」 1852-1912 122代天皇
政治的大変動、薩長両藩へ倒幕の密刺を下すし、徳川慶喜の「大政奉還」を許し、王政復興ー江戸を東京と改め、版籍奉還・廃藩置県
1868年、「五箇条の誓文」発布。
明治天皇陵は、京都市伏見区 1912年の大正元年。
明治45年、東京の宮城・明治宮殿で崩御、現在の神宮外苑にて大喪儀が執り行なわれた後、埋葬され、陵の敷地は、
豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地、京都に墓所が営まれたのは明治天皇の遺言という。
「大正天皇」 1879-1926 123代天皇ー明治天皇の第三皇子ー1889年皇太子
陸軍少尉任官、病弱で在位期間は短いー1921年皇太子「裕仁・昭和天皇」が摂政に任辞られている。大正デモクラシーの時代。
普通選挙へと歩む。関東大震災は、近代化に拍車をかけた。
「昭和天皇」 1901-89 124代天皇ー大正天皇の第一皇子ー1921年摂政・イギリス・アメリカと開戦ーソ蓮参戦と原子爆弾投下
ポツダム宣言受諾・玉音放送で敗戦を告げた。歴代天皇で最長。
大正・昭和天皇上円下方墳
「高尾駅」は、明治34年開設・昭和36年、に 高尾駅に改称され、昭和42年、 京王帝都電鉄高尾線開通した。
昭和62年、 国鉄分割民営化により、中央本線の駅はJR東日本の駅となり、平成9年、 関東の駅百選に選定されている。
JR高尾駅
選定理由は「高尾山の玄関口として親しまれている趣ある社寺風の駅」。
高尾駅前「大光寺」真言宗智山派寺院の寺・正名山地蔵院と号し、高尾山薬王院第九世・源恵上人が元和元年の1615年、創建。
多摩八十八ヶ所霊場70番札
高尾山・薬王院第9世「源恵上人」1615年創建
境内には見事な桜が咲き誇る荘厳なお寺で、入り口から右の奥に見える桜は高尾地域で最高齢の樹齢400年の老木が、
しだれ桜で知られている。
高尾駅ホームから
大光寺
大光寺本堂