syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

富士てんリゾート 百合根が消えた

2012-09-20 | 富士山麓日記
標高1300mのふじてんリゾート、リリーパーク、ゆりの花を見ようと出かけたら???


昨年まではふじてんリゾート内に7月中旬から8月下旬に設置された関東最大級のゆり園。富士山をバックに色鮮やかな70種類100万株600万輪のゆりが咲き誇り、
標高1,300mの高原の爽やかな風を受けながらゆりの観賞と散策、そして森林浴が楽しめた公園、リリーパーク。
 
昨年までのリリーパーク


動物の食害、台風、等により「ゆりの根」が被害を受け、リリーパークの開園が出来なかった今年の「ふじてんリゾート」

動物の食害とは「猪」の群れがゆりの根を食してしまういうこと、今でも來るそうです。荒らされた土地。

ゆりの球根が寂しく。


他にもグラススキーやマウンテンボード、ターゲットバードゴルフ(別途有料)などが楽しめます。
冬にはウィンタースポーツのメッカ「ふじてんスノーリゾート」となり、スキー場になります。今その準備中。

福井城と養浩館庭園

2012-09-16 | 気まま旅

現在、県政の中心として福井城天守のあった場所に福井県庁がそびえ立つ。
江戸時代福井は日本屈指の大都市で朝倉氏滅亡後一乗谷から移転した文化人の影響もあり華やかな文化や行事が行われていた。
1945年の福井空襲、1948年に発生し気象庁が震度7を設定するきっかけとなった福井地震,九頭竜川堤防決壊の短期間3度にわたり,市のほぼ全域が受けた
壊滅的被害から復興し、不死鳥のまちづくりを宣言している。
市内中心部を流れる足羽川の堤防上は河川敷として日本最長の桜並木となって、市民の憩いの場として、観光都市として、特に、春には花見客で賑わう。


四面内堀で囲まれた現福井県庁(福井城跡)



柴田氏北ノ庄城 と福井城は、朝倉氏の滅亡後、越前を支配していた一向一揆を平定した功績によって、越前国北ノ庄を与えられた「柴田勝家」が、
1575年に自らの縄張りによって築城する。
1583年の「賤ヶ岳の戦い」に勝家が敗れ、妻・市と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失することになるが、その後も青木一矩が
北ノ庄城に封じられたという記録が残っている。
1601年より柴田氏の北ノ庄城の跡地に、新たに結城氏によって北ノ庄城が築城されている。
1993年から6度にわたるの発掘調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の地下から、石垣の跡と思われる石が出土したが、本丸の正確な位置を完全に
特定するまでには至っていない。

                                   現県警本部


朝の本城橋             緑一杯の整備された公園に


明治中期に「松平康荘」により、城内に農業試験場(松平農試場)が設立、運営された。
現在は外堀は埋められているが、内堀、石垣、天守台などの遺構が残り、本丸跡には福井県庁、県会議事堂、県警察本部などがあり、公園としても整備されている。
石垣の一部崩壊に関して、これら施設の重量のせいではないか、と議論されたことがある。本丸御殿の一部は(市内足羽5丁目)瑞源寺本堂及び書院に移築されている。
天守台のそばには「福の井」という井戸が残っており、この井戸が「福井」の語源由来となったという説がある。この井戸には城外へ通じる抜け道があるとの言い伝えがある。

石垣            土塁                 NHK福井放送のアンテナ塔


一国一大名令で、1601年に関ヶ原の戦いの功により徳川家康の次男「秀康」が越前一国67万石を与えられ、柴田勝家の築いた北ノ庄城を約6年かけて大改修し居城とする。
秀康は結城姓を松平に復し、越前松平家を興す。
秀康の嫡男松平忠直は大坂の陣で戦功を立てながらも将軍に認められなかったことなどから次第に幕府に反抗的態度を取るようになった。
1623年「忠直」は、乱行を理由に廃されて豊後国大分に配流。
1624年、越後高田藩で別家、25万9千石を与えられていた「忠直」弟で秀康の次男の「松平忠昌」が50万石で福井藩の主な家臣(幕府に選ばれた百余名を主とする、
藩領を継承する。
忠直の嫡男「松平光長」には越後高田26万石が与えられ、高田藩を立藩した。
越前国は複数の藩に分割されることになる。 福井藩越前福井50万石が秀康次男忠昌、 丸岡藩越前丸岡4万6千石が附家老の本多成重に与えられ独立している。
大野藩越前大野5万石が秀康三男直政、など。


中央公園と城跡                   堀と福井駅前ビル群が     



「福井藩」は、藩邸の格式も下がり、江戸城の詰間が将軍家の親族が詰める大廊下から、外様の国持大名と同じ大広間へ異動した。
ただしこの間もこれ以降も歴代藩主は当代将軍の偏諱の一字を拝領する「特別な家」であり続けた。
1721年には支藩松岡藩(福井県吉田郡永平寺町)の再併合により30万石に復し、1819年にさらに2万石を加増され、徐々に家格は回復。
内政では領地の激減や複数回の天災に見舞われたことなどにより、藩財政を大いに逼迫させ、度重なる一揆に見舞われて困難を極めた。
松平慶永(春嶽)、徳川家から養子に入った幕末の藩主は、橋本左内らを登用し、また熊本藩から横井小楠を招聘して藩政改革をおこなった。
安政の大獄により隠居を余儀なくされたが、謹慎解除後は公武合体派の重鎮として幕政に参与している。

愛馬に跨る結城秀康公像



横井小楠・橋本左内像            本城橋前中央大通り



会津藩と薩摩藩が協力した八月十八日の政変で長州藩が追放され、禁門の変で長州藩が朝敵となると参預に任命され、諸勢力に促される形で11月に再度上洛している。
参預会議の体制は、参預諸侯間の意見の不一致からなかなか上手く機能せず、この状況を危惧した朝廷側の中川宮は、問題の不一致を斡旋しようと
1864年、参預諸侯を自邸に招き、酒席を設けた。この席上、泥酔した徳川慶喜は中川宮に対し、島津久光・松平春嶽・伊達宗城を指さして「この3人は天下の大愚物
大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と発言した。この言葉に島津久光が完全に参預会議を見限る形となり、松平春嶽や薩摩藩家老の
小松帯刀らが関係修復を模索するが、元治元年2月に山内容堂が京都を退去、3月に慶喜が参預を辞任し、結局体制崩壊となった


案内                               橋本左内の人物碑


福井駅西口を金沢方面に歩くと「お泉水通り」がありその角が福井城「三の丸交差点」なお進むと、桜通りの「宝永」交差点、国際文化会館の奥に「名称・養浩館庭園」に出る。

「名勝養浩館庭園」は、江戸時代には「御泉水屋敷」と呼ばれ、福井藩主松平家の別邸であった。御泉水屋敷の成立時期については明らかでない点が多い、
場所は、藩の重臣「永見右衛門」の屋敷地で永見氏が2代藩主「忠直」に成敗されてより藩主の別邸になったと伝えられている。
御泉水屋敷の文献上の初見は、1656年で、4代藩主「光通」の側室が御泉水屋敷において男子(権蔵)を産んだと福井藩の歴史書である
「国事叢記」などに有る。

福井城からお泉水通り、歴史の道 「養浩館・公園・歴史博物館」が


武家達が舟遊びなど栄華な庭園を偲ぶ


御泉水屋敷が今見るような姿に整備されたのは7代藩主「昌明」の頃とされ、その後「吉品」は、本御泉水の改造・整備に加え、西隣に「新御泉水屋敷」を建て自らの隠居所とした。
御泉水屋敷の敷地は最も広くなり、大きくしている。
 
一部石垣が                堀           園内


屋敷で、舟遊びが出来たという。

堀                   庭園内           


明治時代、廃藩置県によって福井城は政府所有となり、「御泉水屋敷」の敷地は引き続き松平家の所有地として、その福井事務所や迎賓館としての機能を果たした。
明治17年には松平春嶽によって「養浩館」と名づけられ、その由緒については由利公正が明治24年に「養浩館記」を記している。
また養浩館は、その数寄屋造邸宅や回遊式林泉庭園が早くから学会で注目され、すでに戦前に建築史・庭園史の専門家による調査がなされている。

建築物など再現


昭和20年の福井空襲により、養浩館は焼失、その後は長く本格的な修復は行われおらず、昭和57年、国の名勝に指定されたのを機に、福井市によって復原整備が計画され、
江戸時代の1823年に作られた「御泉水指図」を基本に、学術的な調査と復原工事で、平成5年に完成、一般に公開入館料 有料 (早朝無料)。

福井は水の豊かな街であった


これで北陸三県の旅は、終わります。資料などは、パンフットなどを参考にしました。

福井 永平寺と足羽川 

2012-09-14 | 気まま旅

「道元」1200-53年 日本曹洞宗、開祖。
13歳で出家比叡山に登る。建仁寺の「明全」に従って入宋し4年後帰国。
京都の興聖寺を建てたが、延暦寺衆徒の迫害を受け、波多野義重に勧められ越前「永平寺」を建てて僧団を開設した。「正法眼蔵」を書き続け、病で京都で没した。

宋から帰国した歳に「普勧座禅儀」を執筆して自分の立場を明らかにし、座禅の方法を細大もらさず述べている。
後に作られた修道生活のための「永平清規」は、食事の作法など日常生活すべて「禅」と結びついている。と説いた。
「正法眼蔵」は、日本思想史の一頂点と云われている。

北陸自動車道「福井北IC」から、416号を越前竹人形の里を右折364号線沿いに「永平寺」がある。418号線に沿って九頭竜川が流れている。
「九頭竜川」は、福井藩の治水。
越前北ノ庄68万石の太守となった結城秀康(家康次男)は、重臣を要衝に配置し加賀前田氏の押さえと成り、秀康は北ノ庄を福井と改め、福井藩の藩祖となるが
藩政確立の為の領内整備を行った。
特に治水・利水においては家老・本多富正の功績が大きく。富正は家康の重臣・本多重次(作左衛門)の養子で秀康付きの家老となった人物である。
彼は福井城外堀への引水と城下の上水道・灌漑を目的に「九頭竜川」から日野川まで芝原用水を開削、日野川筋にも関ヶ鼻用水を開削して新田開発を促進した。
九頭竜川本川に「元覚堤」、日野川に「昼夜堤」を建設して中世には放置同然であった治水にも力を注ぎ、家老の一人今村盛次は十郷用水の公正な配水慣例を制定し、
以後この慣例にしたがって十郷用水の水利権は履行された。


九頭竜川                  永平寺橋               永平寺入口
    

曹洞宗は8世紀初め、中国の禅僧、洞山良介の“洞”とその弟子である曹山本寂の“曹”をとって“曹洞”としたのが名前の由来。
日本に伝えたのは宋に渡った道元禅師。帰国した道元禅師は宇治から越前に移り「吉祥山永平寺」を建て、弟子の育成に尽力した。
道元の「正法眼蔵」に代表される著書は13部121巻、「普勧座禅儀」や「学道用心集」、「永平清規」などがある、

「永平寺」1244年道元禅師が座禅修業の道場を、ここ深山幽谷に大小70余りの建築され、曹洞宗の大本山として、僧侶の育成と檀信徒の信仰の源となっている。


正面              吉祥閣入口                   楼門
    

建物を「伽藍」と云う。その中の堂で、「七堂伽藍」がある、山門、仏殿、僧堂、庫院、東司、浴室、法堂。
特に、僧堂、東司、浴室は、三黙道場で、私語は禁止とされている。

吉祥閣大広間                    天井画                達磨掛け軸
    

「承陽殿」は、1881年改築され、曹洞宗の聖地、道元禅師霊骨を安置され、拝殿に寺の歴任禅師の位牌、全国の曹洞宗寺院住職の位牌もある。
「法堂」は、禅師の説法の道場、中央に「聖観世音菩薩」をお祀りしている。
「仏殿」は、1902年改築、中国の宋時代の様式で、中央に本尊の釈迦牟尼仏(お釈迦様)に、三体の仏様過去、現在、未来の三世を現わしている。
「僧堂」は、座禅堂で、文殊菩薩が安置している。「大庫院」食事を作る典座寮ともいう、「韋駄尊天」がまつられている。

渡り廊下                   寺内            仏殿             
    

「傘松閣」控室2F156畳。「報恩塔」写経を納める。「鐘楼堂」、「舎利殿」、「東司、お手洗」、「浴室」など、全て渡り廊下でつながっている。

「山門」は、中国唐時代様式の楼閣門、四天王が安置されている。「吉祥の額」があげられている。道元禅師の教えを頑なに守っている道場
と思って参拝した。

僧堂                          堂から見た風景
  

市内を流れる「足羽川」は、県今立郡池田町の冠山を源に発し北流。福井市に入ると国道158号に沿って西に向きを変える。福井市の中心部を流れ、
福井市大瀬町付近で日野川に合流する。福井市街地の堤防に並ぶ日本一の桜並木は、「さくら名所100選」にも選ばれている。
たびたび、水害が起きているが、最近では2004年に、梅雨前線による洪水で、多大な被害を与えた。水害が起きる原因として、福井市の市街地に入ると
急に川幅が狭まって蛇行すること、足羽川にかかる橋が古いために橋脚が多く、川の流れを妨げてしまうということが挙げられる。

桜の名所「幸橋」は、全長 140 m 全幅 36.8 m。 軌道伏線が架かっている、昔から、幹線道の北陸道にあたる下流(西北西)約600 mにある
「九十九橋」に対し、幕末に初の架橋となったため「新橋」とも呼ばれている橋。

幸橋(足羽川)            桜並木の土手      この付近に中級武士が生活を
    

「坂本龍馬」1835-67 土佐藩の風雲児 「船中八策」、大政奉還を遂げた。日本を洗濯してやると徳川幕府打倒に奔走した。
海援隊士陸奥宗光は、「龍馬は、西郷より大きい人物に見えた」と云ってる。


「由利公正宅跡碑」碑に書かれていのは、「この付近には、明治政府初代財政担当者として、又は五箇条の御誓文起案者として知られている福井藩「由利公正」公の宅跡とある。
由利は、在藩時代 三岡八郎と称して居を構えていたが「坂本龍馬」や福井藩「横井小楠」が訪ねたいるとある」。
龍馬は2度福井に行っている、1862年 江戸で松平春嶽に横井小楠への紹介状を書いてもらった坂本龍馬は、1863年 この福井で、小楠と対面している。
その後、彼の案内で龍馬は、舟で足羽川を渡り、この場所、「由利公正」宅を訪ねたとある。幸橋は、1862年に出来ている。龍馬が来た、1863年には幸橋は出来ていた。


龍馬の歌碑                                                由利公正宅跡
    

「由利公正」 1829-1909 竜馬に見出された経済人、藩財政の建て直しに尽力した。龍馬の推挙で新政府の参与、維新後、東京府知事。
龍馬から貰った記念写真を、由利は、常に懐にしのばせていたが、川を渡る途中で落とし「凶事を感じた」。坂本龍馬は、京都で暗殺された刻限のことであったという。

幸橋から鯖江方面に向かうと、「毛矢」の足羽山公園入口、右折の公園方面に行くと、「西光寺」・「左内公園」・「松尾芭蕉宿泊地跡」に出た。


「妙経寺」と、その門前には「善慶寺」があり、近辺には、「顕本寺」や「西光寺」などもあったという。その正確な所在をたどることは困難である。
「善慶寺」に隣接してあったとされる。善慶寺は橋本左内の菩提寺。戦後は「妙経寺」に統合し、その跡地の一部は左内公園となっている。
芭蕉の「洞哉宅跡」の碑は左内公園に置かれている。この付近は寺社地が大半であったが、ちょうどこの一角だけ町屋が置かれていたようである。

市内を流れる足羽川               妙経寺     
    

「橋本佐内」 1834-58 26歳の若さで、大獄に散った福井藩士の秀才。藩主松平春嶽に重用され、一橋慶喜を尽力する。
大老井伊直弼と対立し、安政の大獄で断罪に処された。遺体は、江戸小塚原回向院。

妙経寺本堂                    佐内の案内板
  

橋本佐内と西郷隆盛
明治10年、1877年、西郷隆盛は故郷鹿児島の地において、その長い生涯を終えた。自刃した西郷が携帯していた革文庫の中に、一通の手紙が収められていた。
それは、西郷と橋本左内が「将軍継嗣問題」に奔走していた頃に書かれた左内からの西郷宛の手紙。西郷は、左内の手紙を亡くなるその瞬間まで肌身離さず持っていた。
西郷にとって橋本左内という人物は、一生忘れることの出来ない同志であり、永遠の友人でもあった。

橋本佐内像                      北の庄西光寺
  

   
               柴田勝家の墓
    

「西光寺」は、天台宗真盛派の祖である真盛上人を開祖とする柴田勝家の菩提寺で、元々は福井市次郎丸の山麓にあり、柴田勝家公の北ノ庄築城に際し、
北ノ庄に移転させられ、現在も福井市の左内町に有る。
秀吉軍に攻められ、北の庄城で命を絶つに先立ち、3人の姉妹の将来などを住職に託したと伝えられる。
境内には勝家とお市の方の墓があり、勝家の自筆の書や刀剣、金の御幣の馬標、1874年に発掘された北の庄城の鬼瓦などを展示する柴田勝家公資料館ともなっている。


「愛用の梅の木」は、勝家公が生前に愛用したと伝えられ、昭和20年戦災により焼失したが不思議にも後日発芽したという。
「北ノ庄城礎石」は、明治7年に北ノ庄城濠跡を整地した際に発掘されたもの。

城の土台石                              本殿
  

「松尾芭蕉」仙台・加賀領に逗留している。その為忍者説がある。最後の句「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」大阪で。

「芭蕉宿泊地 洞哉宅跡」は、左内公園内にある。芭蕉が、「おくの細道」の旅の途中、福井の俳人「洞哉」を訪れたのは、1689年だといわれる。
洞哉という人は、どのような人物であったかはあまり知られていない、芭蕉の死後約100年後の1792年、福井の俳人達が百回忌の法会を営み、その時の記録の中に、
「洞哉という人は、貧しい暮らしをしており、芭蕉が訪れたときも枕がなく、幸い近くの寺院でお堂を建てていたので、ころあいの良い、木片をもらってきて芭蕉の枕とした。」
という話があり、このような人柄が芭蕉に気にいられたのか、芭蕉は洞哉の家に2泊したのち、連れ立って敦賀へと向っている。    

 碑  「名月の 見所問ん 旅寝せむ」の句が。

松尾芭蕉宿泊地          洞哉宅跡                碑
    

次回は、福井城へ

福井 北の庄城 丸岡城

2012-09-12 | 気まま旅

「福井駅前に着く」、県は、日本海側の中央、東西から北東へ折れ曲がる県で、若狭湾に敦賀半島が飛び出している。
特に産業が無く、京阪神に電力を供給、「ふげん」「もんじゅ」など15基を数えている。
北陸最大の「六呂瀬山古墳群」は、早い進出をしている。1600年の関ケ原の戦い後、家康の次男「結城秀康」が68万石で福井に入り、
6代に入り改易などで25万石まで削減されている。
江戸時代の「人国記」は、越前の人は、「賢いが実がない」といい、若狭を「上下あい和さぬ国」は、近世初の全村庄屋が連帯して「年貢減免闘争」をさしている。
逆境に強く、努力を惜しまない県民性がある。

福井市は県北部、福井平野の中央で、丹生山地北部を占める。東部は、奥越の山々が連なる。室町時代は「北庄」、北は敗北に通じると「福居」、
1701年福井と記されている。古代・中世では国府が置かれ、越前の中心であった。戦国時代に、「朝倉」氏が、一乗谷に本拠地を置き城下町を営み、
その後に「柴田勝家」が北庄城を築き足羽北岸に城下町を建築した。
北庄城落城後、家康次男結城氏が北庄城北に福井城と城下町を整備し、それが現在の中心地に繋がる。

越前竹人形の民芸品は人気。

福井鉄道路面電車              JR福井駅中央大通り        近代的なJR北陸本線福井駅
    

「新田義貞」1301-38 源氏・新田氏の嫡流、北条氏打倒の兵を挙げて、鎌倉攻略、北条氏滅亡、足利尊氏と抗争、討死。南朝方に尽くし
一族、悲劇的な最期を遂げた。

「柴田勝家」1522-83 信長の勇将、秀吉と対立、秀吉軍の追撃を受け北庄で「お市」と共に自害する。

「お市の方」1547-83 浅井長政、柴田勝家の妻、信長の妹、信長が朝倉氏攻めに、長政は朝倉氏と結んだ。
お市は、信長に小豆をぎっしり詰めた袋を陣中に送っている。これは織田軍「袋の鼠」、信長は、一騎駆けで危機を脱したという。

元町アーケード通りに、県関係歴史人物のパネルが             お市の方
    

「松平忠昌」1597-1645 上総姉ヶ崎、常陸下妻、越後松代、越後高田、越前福井藩(北の庄藩)第三代藩主(初代結城秀康の次男)。

 
「岡倉天心」1862-1913 福井藩主の家に生まれ、日本美術や東洋文化に尽くし、美術界の指導者、東京美術学校校長、後菱田、横山、
下村氏らと日本美術院を創立、ボストン美術館東洋部長就任。


岡田啓介(第31代内閣総理大臣)など。

                        岡倉天心が福井出身であった
    

「柴田神社」鎮座地は、柴田勝家の居城であった「北ノ庄城」の本丸跡地と伝えられており、作られた時代は不明である。
勝家・市を祀る石祠があり、北ノ庄城の跡に築かれた福井城内の神祠として保護されてきた。
1890年に、旧福井藩主松平春嶽、旧藩士、住民らの発意により小祠のある場所に神社が作られ、「柴田神社」とした。
その後、大火や戦火、福井地震により社殿を焼失し、そのたびに氏子によって再建された。
1998年より、老朽化した社殿および境内社・稲荷神社が建て替えが行われ、新たに境内社・三姉妹神社が作られた。
それにあわせて福井市による境内の発掘調査が行われ、北ノ庄城の石垣の一部が発掘されて、この地が伝承通り北ノ庄城の跡地であることが判明した。
境内は北ノ庄城址公園として整備され、発掘された石垣が展示されている。

柴田勝家像            神社                拝殿
    

織田家中に起きた主導権争い、羽柴秀吉と信長の次男信雄・柴田勝家と三男信孝と云う対立軸展開した。後継者、領土配分「清州会議」で、遅れを取った「信孝」は、
お市の方と柴田勝家との縁談を勧めた。織田家存続と、信長の真任厚く、家中の譜代の武将第一位の柴田勝家に進んで身をゆだねたという。
その婚儀から一年後、広大な琵琶湖を望む標高420m丘陵地「賤ヶ岳」で激しい合戦、呉湖が赤く染まったという。敗者となった勝家は、「北庄城」へと逃げ延びた。

北の庄城の土台石垣          お市の方像 三人姉妹像(茶々、淀殿・初、常高院・江,崇源院)
    

「北庄城」は、安土城に匹敵、天守は9層あったと資料にある。勝家は、三人の娘とお市の保護を頼むが、「お市の方」は、三人の娘を城から
出し、
勝家と共にここで果てた。お市の真意は定かでない。「天下一の美人の聞え」のお市と勝家は業火の中で命を絶つ。

「お市の方」1547年 -1583年は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性で、市姫とも小谷の方とも称されていた。
尾張国出身。近江国の浅井長政、後に織田氏家臣の柴田勝家の妻で、父は織田信秀、母は側室または正室の土田御前。
子に茶々(豊臣秀吉側室)、初(京極高次正室)、江(徳川秀忠継室)。

城の土台石                        下水道跡
    

「賤ヶ岳の戦い」は、柴田方の佐久間盛政(猪武者)が、勝家の命令を無視し突出したという。勝家は、いったん引いて陣を固めるべきだと命令している
。盛政は、勝家殿も年を取ったものだ、この判断間違っている、、、。と太閤記にある。


「九十九橋」半石半木の橋は、橋の南半分が石で、北半分が木で造られるという構造のことを意味している。 この橋が架けられていたという記録は朝倉時代にもあり、
半石半木の橋として架けたのは、文献、絵図等の研究から勝家公だと考えられている。
江戸時代前期の「越前国地理指南」では「大橋 長八拾八間 幅三間 板橋四拾七間 石橋 四拾一間」とその大きさが記載されている。
石橋の部分は全て笏谷石で作られ、橋脚の長さは立てる場所によって異なりますが、2.5m~2.8mと推定され、江戸時代の二百数十年の間に九十九橋の架け替え工事は、
記録としては十回以上あり、最後の工事は、1854年。1874年に半石半木の橋として最後の架け替え工事が行われたと記録有。

半石半木の橋                          碑    
  

「柴田勝家と前田利家」
前田利家は、加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利春の四男として生まれ、はじめ小姓として織田信長に仕え、
青年時代は赤母衣衆として信長に従軍、槍の名手だった故「槍の又左」の異名をもって怖れられた。
その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦。信長より能登一国23万石を拝領し大名となる。
信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。
豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、秀吉より加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築く。
1598年には秀吉より豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の傳役(後見人)を任じられる。
秀吉の死後、対立が顕在化する武断派、文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病没した。

北の庄城の堀と門                      柴田公園全景
  

「越前・丸岡城」は、1576年 織田信長の家臣で、越前ほぼ一帯を領していた「柴田勝家」の甥である「勝豊」により築城され、勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に移った。
1582年 本能寺の変の後の清洲会議により、勝豊は近江国長浜城に移され、代わって勝家は、「安井家清」を城代として置いた。
1583年 柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は「丹羽長秀」の所領となり、長秀は丸岡城主として「青山宗勝(修理亮)」を置いた。

1600年 丹羽長秀死後、領地はそのままに豊臣秀吉の家臣となっていた青山宗勝とその子・忠元は、関ヶ原の戦いで敗者である西軍方につき改易された。
越前国には勝者の徳川家康の次男・「結城秀康」が入封し、丸岡城には秀康家臣の「今村盛次」が2万6千石を与えられ入城。
1612年 今村盛次は越前騒動に連座し失脚した。幕府より附家老として福井藩に附せられた「本多成重」が4万3千石で新たな城主となった。
1624年 福井藩二代目の松平忠直が、不行跡を理由に豊後配流となり、福井藩に減封などの処分が下された。同時に本多成重は福井藩より独立。大名に列し丸岡藩が成立した。
1695年 4代重益の治世、本多家の丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易となり、代わって「有馬清純」が越後国糸魚川藩より5万石で入城。
以後、有馬氏丸岡藩6代の居城となり明治維新を迎えた。

福井県坂井市・丸岡城                           丸岡城正面
    

碑に「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」。
徳川家康の家臣、本多重次が長篠の戦いの陣中から妻に宛てて送った日本一短い手紙。「お仙」とは後の丸岡城主本多成重(幼名.仙千代)。

石垣               天守閣                 城内庭園
    

昭和30年に修復。だが、天守閣は当時のままの状態で保存され、現存する天守閣の中では日本最古を誇る。
濠は大正中期から昭和の初期にかけて埋められ、本丸と天守閣、僅かな石垣を残し、城域は公園となっている。
屋根は二重、内部は三層と古調に富んだ望楼式天守閣で、後の時代に建った松本城、姫路城などの層塔式天守閣と比べてもずっと古い城郭建築であり、貴重なもの。


緑に包まれ、整備された園内                    休憩所            土塁
    

「丸岡城内鎮座・八幡神社」、建物が歴史民族資料館の先に、真ん中の石段を上がっていくと、途中に「丸岡八幡神社」がある。
築城以来この地にあったお城の鎮守社、明治以降には荒れていたようだが、丸岡城天守再建の際に、神社も再建されたという。
階段を上り、小高い丘に登ると、丸岡城本丸跡に出る。

城と隣接して神社が                     高台の城跡から見た坂井市の町
  



次回は、永平寺から。

母の白糸と河口浅間神社

2012-09-10 | 富士山麓日記
貞観6年(864年)の富士山大噴火を鎮める為に、翌年、富士山と対峙する河口の地に富士山の神を祀った。これが通称河口湖浅間神社である。
河口浅間神社は古くから鎌倉街道沿いに位置し交通の要衝として栄えた河口地区の神社としても信仰を集めた。

「稚児の舞」孫見祭などの例祭に7・8歳から12歳の少女10人ほどが奉納する華麗な舞い。厳かで美しく華やか、少子化の現在も地元の氏子により継承されている。









「河口湖浅間神社の七本杉」社殿の南側にある7本の巨樹で神木としてしめ縄を結わえてある。7本の杉とも幹は真っすぐに1本に伸び、枝分かれしたものはない。
二柱杉は樹高47・5m、天壌杉は根回り30mの大樹である。樹齢1200年に及ぶ巨木が1ヶ所に現存することは貴重であり昭和33年県指定の天然記念物になっている。






母の白滝の流れる岩に生える樹木


河口浅間神社の背に30分ほどの山登り、河口湖の見える高台に見晴らし台とお休み所がある、コスモスが満開。
間もなく白糸の滝。


9月に入り紅葉の始まり。