syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

荻窪白山神社 小さなお祭り

2012-09-09 | 諸々日記
荻窪白山神社→祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)加賀の霊峰白山の霊石を神体とする白山信仰の神社で、もと下荻窪村の鎮守。
古く文明年間(1469-1486)に荻窪に勧請され、五社権現とも称された。
爾来、交通経済の要所荻窪の安寧と豊饒を守り続け、いま姫神の御神力偉大なりと数多くの人々の参詣をうける神社。
現在の社殿は昭和43年に立て替えられたもの。
ここの神様のお告げで社前に生える萩(ハギ)で作った箸で食事をしたら歯痛が治った、という言い伝えがある荻窪白山神社。

夏もおわり、その祭礼は毎年9月7日・8日に確定していて、7日には神輿渡御、夜は奉納演芸、8日に例大祭神事が行われ、里神楽が奉奏される。
この神社祭礼の呼び物は女神輿で7日午後、荻窪駅南口中通り西武信金横の神酒所から出御し、宮出し後、町内を廻っている男神輿と合流して
共に氏子町内を廻り夕方神社に還御する。

近所が騒がしくなったので見に行く。
男神輿が休憩中で近くの道路で昼食中。





12時半スタートでこれから女神輿と合流して町内を回る。
老いも若きも半被に身を包みたくましく元気に担いでいった。この通りはバスや車が多いのでおまわりさんも出て大変。










 

大聖寺と大聖寺城跡。

2012-09-07 | 気まま旅

石川県加賀市大聖寺に入る。県南西部、市の中心地区、地名は白山五院の一寺に由来、江戸時代は、加賀藩の支藩「大聖寺藩10万石の城下町であった。
県南の行政、経済、文化の中心で、商工業も盛んであった。

大聖寺川は、県南西部を流れる川で、福井県の大日西斜面に源を発し、山中町、加賀市、大聖寺を流れ大塩谷港で日本海に注ぐ、中流部に
山中温泉がある、
下流に我谷ダムが出来て、よく氾濫したが市街は減少している。

「大聖寺」駅は、JR西日本北陸本線の駅。一部の特急列車が停車する。小松駅ほど多くはないが、金沢方面へ折り返す普通列車の始発駅としても設定されている。
北陸本線において金沢支社直轄となっている駅は当駅から倶利伽羅駅までの各駅で、隣の牛ノ谷駅から福井寄りは同支社福井地域鉄道部の管轄であり、
当駅はその指令上の境界とされている。かつては当駅から北陸鉄道山中線が、山中温泉・山代温泉方面へ延びていた。


藩祖前田利治を祝う十万石祭り9月に


江戸時代には、加賀藩前田家の分家として「大聖寺藩 前田家」が生まれ、加賀藩の百万石と違い、七万石後に十万石の小さな城下町で独自の文化や美意識を
持っている。金沢と違い古い街並み、桜の名所、四季折々の街でもある。

「加賀染織保存会」、加賀染織保存会では主として、花岡慎一「ゑり華」会長によって、昭和40年代から石川県内で収集されてきた、江戸末期~昭和初期までの
「加賀のお国染」と言われる染織品等、を保管、整理、アーカイブ、公開のための管理運営活動を行っている。
その活動内容は、幅広く、全国の美術館、ギャラリーなどにも展示要請を受け貸し出ししている。コレクショングッズの企画開発、販売もしている。

伝統工芸  焼き物と彫金             お茶・お花が盛ん



九谷焼は,加賀藩の支藩である大聖寺藩の初代藩主・前田利治が,領内の九谷村で鉱山開発中に陶石が発見されたのを機に 磁器の生産を企画。
九谷鉱山で錬金の仕事に従事していた後藤才次郎を陶業技術の修得のために肥前有田に派遣。後藤は帰藩後 九谷の地に窯を築き,田村権左右衛門らを指導して,
1655(明暦元)年頃に色絵磁器の生産を始めた。これが九谷焼のはじまりである。
その後 二代藩主利明に引き継がれ,この時期に焼成された作品は「古九谷」と呼ばれ,後の時代の「再興九谷」とは一線を画して扱われた。
しかし この古九谷は約50年後,元禄の頃(1700年代初頭)に突然姿を消した。廃窯の原因は不明であるが,事業を推進してきた二代藩主利明が死去し,
さらに製陶の責任者だった後藤才次郎が1704年に死去して,中心人物を失ったこと,また藩財政が悪化したことにより 多額の経費を要する九谷陶業が
廃止されたのではないかと推定。

古九谷の廃窯から一世紀の後 九谷焼が再興され,吉田屋窯・木崎窯・宮本屋窯・松山窯などが開かれた。古九谷が官営の窯であったのに対して
この時代の九谷焼は民営の窯で行なわれ「復興九谷」と呼ばれ,これが明治以降まで引き継がれてきた。

前田家の古九谷焼き         工芸館



「実性寺」は、初代大聖寺藩主前田利治の老臣玉井市正が、金沢の僧、通外祗徹大和尚を1641年大聖寺に招き、現在の大聖寺一本橋あたりに庵を設けたのが始まり。
その後、祗徹がこの庵で1644年に死去したため、玉井市正は祗徹の弟子の天柱響補を金沢から招き、この庵を寺として、開山を祗徹、開基を市正の父廓庵宗英居士として、
その名前からこの寺を宗英寺、山号を霊光山と称した。
1660年には藩主利治が死去。まだ菩提寺も決まっていなかったので、この宗英寺で式をあげ、天柱響補和尚が焼香した。
その縁で利治の法号をいただいて「実性院」と改め、さらに二代藩主利明が、1661年 実性院を現在の地に移し、山号を改め金龍山とした。

曹洞宗の寺大聖寺藩主の菩提樹で萩の寺実性院



大聖寺には隣の越前との国境付近であったところにから、大聖寺藩が意識的に寺社を集めたと言われる。

「山の下寺院群」と呼ばれ、7寺院、1神社が並んでいる。浄土真宗の寺は城下の町中に、
曹洞宗、日蓮宗、法華宗、浄土宗の寺はこの通りに移されたと云う。
実性院、曹洞宗のお寺。大聖寺藩前田家の菩提寺で「萩の寺」としても知られている。蓮光寺 日蓮宗のお寺。毎年1月15日に、僧侶が冷水をかぶる水行の
「星祭り」が行われる。
久法寺 法華宗の寺。日本で初めて鉛筆を作った柿澤理平のお墓がある。全昌寺 曹洞宗のお寺、芭蕉が立ち寄ったことで知られ、境内には句碑がある。
「五百羅漢像」あり。正覚寺 浄土宗のお寺、秘仏の「履行阿弥陀如来」と呼ばれる珍しい如来像がある。
宗寿寺 日蓮宗のお寺、大聖寺藩の関所の門が払い下げられ、山門として移設されている。
本光寺 法華宗のお寺、「日本百名山」の著書で知られる深田久弥のお墓がある。の7寺院。

藩主たちは、各寺で休息している



大聖寺が日本史に登場するのは、侍が勃興し、彼らが全国を舞台に駆け巡るようになった「太平記」の時代以降。太平記によれば、1335年 
北条氏の残党である名越
「太郎時兼」が、加賀・能登・越中の兵を引き連れて都に上ろうとしたとき、敷地方天神の神官狩野氏を中心とした郷党が、宮方として大聖寺城によってこれを防ぎ
、時兼を敗死させたことが記されている。

松尾芭蕉が立ち寄った金昌寺



大聖寺は浄土真宗の町でもあり、1471年、越前と加賀の境にある吉崎に蓮如上人がきて、僧や役人を説得し、北陸の一角にその勢力を植え付けた。
その種子は見事に成長し、加賀の守護富樫氏を滅ぼし一向一揆の勢力となり、「百姓の持ちたる国」といわれ、越前の朝倉氏と何度も大聖寺城での攻防戦が繰り返された。
その後、織田信長による全国支配の手がこの地にもおよび、凄惨な一向宗との戦いの後、1580年「柴田勝家」の配下となり、柴田勝家の滅亡後、
秀吉の部下の「溝口秀勝」が大聖寺城を守ったが、溝口氏は、後に新発田に転封され、越前小早川秀秋の老臣山口玄蕃宗永の守ることとなり、
1600年 関が原の合戦が起こる前、その余波は加賀にもおよび、東軍に味方した金沢の前田利長は、西軍に応じた山口玄蕃の大聖寺を討とうとして、関が原の前哨戦が起こった。

町の名前も鍛冶・鉄砲・鷹匠・京などの城下町


関が原の後、江沼一円は、前田家の支配するところとなり、城代が数代にわたって派遣されたが、元和の一国一城令で城は完全に廃され、1639年「前田利治」が
初代大聖寺藩主として金沢から分封され、城は造らず藩邸を現在の錦城小学校から江沼神社にかけての一帯に構え、大聖寺川、熊坂川を自然の堀として明治維新になる。

時を知らせる時鐘楼が多い



「加賀神明宮・山下神社」は、 旧縣社、祭神、天照大神、以前は山下神社と称し江戸時代には神明宮と称している。現拝殿は、1824年再建の棟札。
毎年4月の第2土、日曜に 開催される通称「桜まつり」は、盛大で、山車や子どもたちの囃子、手踊りが獅子舞とともに舞う。
大聖寺 熊坂川桜花は、熊坂川両岸に咲き誇る桜と加賀神明宮(山下神社)の大祭は、毎年賑わいを見せている。

神社               鳥居                  拝殿


加賀一の宮の白山五院として白山妙理大権現を勧請、創建し真言新義派、大聖寺の守護神である、三光院大聖寺として壮大な伽藍を造営し、
神佛両部を奉祀、天文年中の乱で兵火に逢い慈光院として再建した。
1398年、前田利長は、六反余の社地の寄進を受け、大聖寺の氏神として再建された。社地400歩を拝領し神明宮、慈光院を建てる。

藩祖前田利治・菅原道真を祀る


「大聖寺城」は、錦城ともいう。城郭 連郭式平山城、築城主は、狩野氏、鎌倉時代、主な改修者は、柴田勝家。
 
城は、加賀市に南北朝時代から江戸時代初期まで存在した平山城。跡地は「錦城山公園」噂では、20km以上離れた金沢城と、地下道で
結ばれているという。

大聖寺城跡錦城山遊歩道                      土塁



1575年に越前を平定した織田信長の軍勢は加賀にも侵攻し、江沼郡・能美郡を占領した。
信長は柴田勝家に命じて日谷城と大聖寺城を修復させ、戸次広正や堀江景忠を配置した。
翌年には江沼・能美両郡で一揆が蜂起したが、救援した勝家によって鎮圧された。
この際、佐久間盛政が大聖寺城主となっている。勝家は、1577年にかけて大聖寺城の修復とともに兵力を増強し、上杉氏の南下に備えた。
天正8年に勝家は本願寺勢力の金沢御堂を攻略し、拝郷家嘉を大聖寺城主にしている。
1583年の「賤ヶ岳の戦い」で勝家が敗れた後は、北ノ庄(現・福井市)の丹羽長秀の与力として溝口秀勝が大聖寺城に4万4千石で置かれた。
1585年に長秀が没した後も秀勝は大聖寺城にとどめられ、江沼郡と能美郡の新領主・堀秀政の与力となっている。
その後、1598年に堀秀政の子・堀秀治が加増移封され春日山城に移ると、あわせて秀勝も新発田藩に転封された。これを受けて同年に小早川秀秋が江沼郡の領主となり、家臣の山口宗永を大聖寺城に6万3千石で置いた。翌年に秀秋は再び転封されたが、宗永は当地に残って秀吉の直臣となった。
1600年、関ヶ原の戦いで宗永は西軍についたため、東軍の前田利長に攻められて9月に大聖寺城は落城し、宗永は自刃した。
その後は前田家の家臣が城代を務めたが、1615年の一国一城令のため廃城となった。
1639年には前田利治が7万石を分けられて大聖寺藩を立て、跡地に藩庁として大聖寺陣屋を設けた。 

城跡                 本丸跡


次回、福井駅前から。

金沢 近江町市場と寺町

2012-09-05 | 気まま旅

金沢市街地は、犀川、浅野川の挟まれた舌状台地にある「金沢城」を中心に広がっている。繊維、鉄工産業が急落し、第三産業として先端技術
産業が定着し
復興センターなどと地場産業ゾーンが形成されてきている。「金沢駅」前開発も整備され、市民の憩いの場として注目が、「近江町市場館」である、
市民の台所として人気がある。

魚屋さんでは、底引き網漁が解禁になり、甘エビをはじめ近海物の魚が店頭に、主婦でを賑わしている。
金沢名物、めった汁・カニ汁・粕汁の3種類が、美味しそうに湯気を。

市場の入口は、全部で7ヵ所の入口がある。その点を線でつなぐと「女」という字になるといわれている。
現在180店あり、鮮魚・青果・菓子・昆布・蒲鉾製造販売・豆腐製造販売・花など食材、生活用品などピンからキリまで何でもそろう。
スーパーでは味わえないお買物の楽しさを味わえ飽きない。

金沢駅前中央通り、西門の先がむさし交差点、めいてつエムサと近江町市場
       

近江町市場の正面が、武蔵西、西門口、金沢駅前中央口で、左の武蔵南が上場町、香林坊、金沢の中心繁華街片町となる。
市場館中心に路線バスも走り朝から学生、サラリーマンで賑わっていた。

若者で賑わう
    


「福念寺」は、 真宗大谷派の寺、親鸞聖人を宗祖とする。開基は今から450年前と伝えられている。
その後度々寺地がかわり約100年前に 当地金沢市芳斉に移ったといわれている。当地は前田利家の家臣であった「 青木芳斉」の屋敷跡とも伝えられている。

駅近くの福念寺
    


「石川郡吉藤・金沢市専光寺」開基  志念 、創建 1320年、本願寺3世の覚如の弟子・志念が石川郡大糠大額に創建したと伝えられ、1437年に
本願寺存如から下付された「三帖和讃」に「加州吉藤専光寺」とあることから、遅くともこの時点で石川郡大野庄吉藤に移転していたことがわかる。
存如からは他にも聖教類を下付されており、1471年には蓮如から「親鸞絵伝」を下されていることから、蓮如以前の加賀において、屈指の末寺として扱われている。
1482年の「臨川寺領加賀国大野庄年貢算用状」に専光寺の記載があり、当時においても北加賀の臨海荘園である大野庄の最有力本願寺派寺院と考えられていた。
加賀守護「冨樫政親」を滅ぼした1488年の長享一揆の際には、加賀の大坊主としての動向が「官知論」に記されており、「四山大坊主」の一員を構成していた。
蓮如以後、1493年には本願寺9世実如(蓮如の子)から、専光寺開基の志念絵像が下付されているものの、その2年後の1495年の「大野庄年貢算用状」には
専光寺に対する記述はなく、代りに「若松殿」(若松本泉寺蓮悟)宛て「弔料」などが記載されていて、この頃には賀州三ヶ寺の下におかれたらしいことがわかる。


   

「本願寺金沢別院」は、1546年に創建された「金沢御堂」を前身とし、別名「金沢坊」や「御山」とも呼ばれ、加賀一向宗の拠点であった。
金沢御堂は、1580年「柴田勝家」に攻略され、佐久間盛政の居城となるが、前田利家の金沢入城後、1592~1596年迄に、袋町に寺地を賜り本堂を再建した。
1611年には、3代藩主前田利常より、現在の寺地を拝領して伽藍再建に着手し、1615年に完成、寺基を移した。
度々火災に遭い、本堂は1849年に、経蔵は1866年に、鐘楼は1856年に、それぞれ再建され現在に至っている。

本堂は、境内の中央に東面して建つ、平入り、桁行9間、梁間8間の大規模な建築である。
屋根は、入母屋造り、本瓦葺で、向拝は3間の間口をもち、妻部に比翼の千鳥破風を付けた特徴ある外観である。本堂の平面は、前方に畳132帖の外陣、
44帖の矢来内を置き、中央後方に、二段高く床をあげた後門形式の内陣を配し、その脇に内陣より一段落として左右の余間、さらに余間の外側に三の間をとり、
内陣及び余間の後方に後堂を置く。本堂の外周は前面及び両側面に広縁と落縁を付け、後堂の背に後補の倉庫が付加されている。県指定文化財。


                   楼門                     本堂
    


鐘楼は、経蔵の東方に位置し、方一間の吹放しの入母屋造りで、屋根は桟瓦葺、軒は二軒扇垂木となっている。
基壇の上に礎盤を置き、その上に粽付丸柱を建て、貫は下から、腰貫、飛貫、頭貫(虹梁形)を入れ、頭貫上には台輪をめぐらせている。
組物は二手先(実肘木、拳鼻、尾垂木、支輪付)を詰組とし、中備に蟇股を配す。装飾的な組物と放射線状の扇垂木で構成される軒廻りは、実に多彩で、
江戸後期の禅宗様式を見事に見せている鐘楼として、貴重である。 県指定文化財

                              鐘楼                    親鸞聖人像
    

「照円寺」は、1603年本願寺は東西に二分され、加賀では本願寺派に止まる者はわずか19戸のみとなり、金沢御坊を守護する者もなく、そのために
照円寺4代「慶誓」は、3代藩主前田利常公の請いにより御坊守護職とった。
1608年本願寺より木像を賜り、照円寺と改め、1615年本願寺西末寺(本願寺派金沢別院)が現在地に再興されるに際して、照円寺は、留守居役として
再建勧進の中心的役割を果たし、加賀における西本願寺派の触頭として、また前田家の出城の役目も歴代にわたって務めたといわれている。


    
                   

「安江八幡宮」は、県内屈指の安産の神様・加賀八幡起き上がり発祥の神社と云われ、御守りの中に、稲穂の茎が入っていて、其の茎に節があれば男子、
節がなければ女子だと言う昔からの言い伝えがある。
八幡起き上がりは、社業繁栄・お子様の成長・厄除け・病気平癒・交通安全を御守りする。
神社で多くの方達が、安江八幡宮鳩、壮麗で、厳粛な結婚式を挙げている。安産のお参りは年間、800組の人達で賑わう。


    

安江八幡宮は宇多須神社,小坂神社,神明宮,椿原神社とともに金沢五社のひとつ、県金沢市此花町に鎮座


               境内                       拝殿
  


「石浦神社」は、越前国加賀郡に住む「三輪の氏子」が奈良時代に居住地に社祠を建て、大和国大神神社の神霊である大物主大神を勧請し「三輪神社」
と号したのが起源であるとか、聖武天皇の739年に勅を以て創建したとか、花山天皇の勅を以て創建した、或いは、717-723年に松浦氏の女性が大和国の
長谷観音を勧請して創建した加賀石浦の「長谷観音堂」が前身であるなどと伝承されている。
諸説があるが、古来より加賀郡石浦郷七ヶ村の総社として崇敬を集め、延喜の制で加賀郡13座中の「三輪神社」に列した式内社であるとされる。

社に勧請した大物主大神が近江国日吉神社の神と同体であるので、社を「石浦山王」、「地主権現」と称した。
大神神社の神宮寺である大御輪寺の本尊が十一面観音である関係から、本社の本地仏も十一面観音とし、「大和国長谷観音」と号し、1625-1643年末には、
「長谷山慈光院」と改めている。


  

金沢市に鎮座する「延喜式神名帳」加賀国加賀郡の「三輪神社」に比定される式内社論社で、金沢市最古の神社である。


                                    献上酒
  

「寺町寺院群」、寺町5丁目交差点から寺町3丁目交差点まで。

大円寺 大円寺は浄土宗のお寺で無縁仏の人骨を塗りこめられて作られた高さ4m以上の人骨地蔵尊が安置されている。人骨地蔵や庭園は有料で見ることができる。

寺町鐘声園 寺町鐘声園は大乗寺を含む寺町寺院群のお寺の鐘の音が「日本の音100選」に選ばれたことを記念して作られた回遊式枯山水庭園。休憩できます。

近江市場・武家屋敷・から犀川大橋を渡ると寺町に


立像寺 立像寺は日蓮宗のお寺で金沢市最古のお寺と言われている。飴買い幽霊伝説があり、本堂と鐘堂が金沢市指定文化財になっていろ。春には桜も咲きます。
本性寺 法華宗のお寺。富山の瑞龍寺、羽咋市の妙成寺・気多大社、小松の梯天満宮・那谷寺を建立した宮大工の山上善右衛門の墓がある。
実成寺 実成寺は法華宗のお寺。
妙法寺 妙法寺は日蓮宗のお寺。
昌柳寺 昌柳寺は本門沸立宗のお寺。七尾市の本行寺の下寺であり高山右近と隠れキリシタンゆかりのお寺。
善隆寺 善隆寺は日蓮宗のお寺。などお寺が集中している。

犀川に沿っ寺院群が
    


妙福寺 妙福寺は法華宗のお寺。内川のたけのこ(孟宗竹)の普及にかかわりのあったお寺。
本因寺 本因寺は法華宗のお寺。
長久寺 長久寺は曹洞宗のお寺。樹齢400年を越えるギンモクセイやケヤキなど由緒ある樹木が多い。芭蕉の碑もある。

高岸寺 高岸寺は日蓮宗のお寺。門の彫刻が見事。道路から見える全景はお寺の多い寺町のなかでも一際風格を感じさせる。

近くには、にし茶屋街が
    


寺町は町の名前が表すようにお寺が多く集まった町で残したい日本の音風景100選にも選ばれた。
寺町寺院群は江戸時代に一向一揆の対策として、この地に寺院を集められた。
寺町寺院群では忍者寺として知られる妙立寺が観光として有名ですが、その他にも土塀を破って道路に枝を伸ばした桜で有名な松月寺や人骨で出来た
地蔵尊がある大円寺、芭蕉碑のある願念寺、室生犀星ゆかりの雨宝院、樹林に囲まれた幽玄な風景が美しい龍渕寺、金剛寺、本覚寺など見応えある。


野田山方面に前田家の墓地
    

加賀藩の割場足軽付けだった「岡本右太夫」 が、1766年 に二株の「孟宗. 竹」を江戸から持ち帰り、桜木町にあった. 自宅に植えたのが始まり。
残念ながら この孟宗竹は枯れてしまい、 再び江戸から取り寄せたものという。


    

「野田山墓地」とは、金沢城から直線距離にして南西に約3.5kmほど離れたところに広がる一大霊園地。
野田山は標高約175mを測り、その山頂から山腹に広がる墓地の総面積は43万平方m、兼六園の約4倍の広さという。寺町の先になる。

市内は、江戸時代の町割りが残り、集中して面白い
  

加賀藩と幕府の関係が、敵も多かったのであろうお墓も防御に集中
  

犀川と金沢生まれの文豪「室生犀星」は、犀川をたたえ、詩や小説など多くの文学作品の中に表現し、犀川を愛してやまなかった。

犀川の畔に、「芭蕉の句碑」が、「あかあかと日はつれなくも秋の風」。1689年、「奥の細道」の旅で、金沢から小松へ向かう途中に詠んだ句。

                 金沢と芭蕉      犀川で一休
    

「犀星文学碑」は、生前、自分で建立した犀川岸別荘に、1959年に野間文芸賞を受賞した時の百万円の賞金で作ったらしい。
二手橋の三叉路の近くに「文学碑」があった。

                             井上靖 文学碑
    


次は、10万石の城下町大聖寺へ。

兼六園と武家屋敷

2012-09-02 | 気まま旅

金沢市西部に、県工業試験場や産業振興センターなど「地場産業ゾーン」が形成され、市街地の開発と文化財の観光資源の保存、管理などが課題となり、
武家屋敷、香林坊、駅前開発、兼六園周辺ゾーンの整備が進められている。
100万都市圏構想・国際コンペンション都市と模索されている。深谷温泉、湯涌温泉などが見直されている。

「石川県能楽堂」
県が能楽や邦楽などの伝統的な芸術文化の保存と県民文化の振興に資することを目的として設置・運営する施設で、1972年に全国で初めての独立した
公立能楽堂として開館。
周囲は兼六園や本多の森公園などの緑に囲まれ、多くの文化施設に隣接している。8月を除き毎月定例能と呼ばれる催しが開かれ、能、狂言、仕舞が上演される。
本館1階の能舞台は、入母屋造の破風のついた檜皮葺屋根で、西本願寺の国宝北能舞台を模したものとされる。1932年に建てられた金沢能楽堂の本舞台を県が譲り受け、
移築したもの。

香林坊から兼六園の坂道を百万石通りという
  

「辰巳用水」は、3代藩主前田利常が1632年、小松の板屋兵四郎という測量技術にすぐれた町人を工事の責任者として造らせ、城の東南、城下を流れる
犀川上流の辰巳村で犀川の水を取り込み、そこから小立野を流れ、兼六園、金沢城へと続く全長約10kmの用水。
1631年、城下の火災により、金沢城は本丸御殿の焼失など多くの被害を出し、城下をはじめ城内へも上水と防火用水として、潤沢な水の供給が不可欠となり、
前田家は全力をあげて工事に取りくみ、加賀・能登・越中の農民や鉱山職人を動員し、作業員に一日4回の食事を与え、一年間で完成させたといわれる。
兼六園までは少しずつだが、土地が下がってきていて、水は台地周辺の寺院や畑地を潤しながら御城へ向かって流れ、1日に約1700トンの水が運ばれている。

兼六園前に辰巳用水が        三十間長屋、いもり堀も近い
    

「成巽閣」は、重要文化財指定。江戸時代末期の建築で、城の辰巳の方向にあるので巽御殿とも呼ばれる。
13代藩主前田斉泰が、母「真龍院」の隠居所として1863年に、兼六園内に建てた。寄棟造、柿葺きの建築、庭園の飛鶴庭は知られている。

能楽堂と並び巽御殿、兼六園に                 殿の庭園
    

「百万石通り」は、市の中心市街地を取り巻く通りで、城公園と兼六園を1周するコースいう。金沢百万石まつりのメインイベント百万石パレードのコース。
パレードは、2007年から、パレードのコースが、金沢駅東口〜武蔵〜香林坊〜広坂〜兼六園下〜金沢城公園まで。

                             お城の石川門方面の広場
  


「護国神社」は、人々が歩み進める人生においてふりかかる災いを鎮め、日々の生活を安全に、そして安心して送れることを祈り続けて、
県出身の英霊(戦没者の御霊)を祀っている。
明治元年の戊辰の役(北越戦争)で戦死した加賀藩の百八名の戦没者の御霊を、卯辰山に招魂社を造営して祀ったのが創まり。
以来、西南の役、日清日露の両戦役、支那事変(日中戦争)、大東亜戦争までの英霊、四万四千八百八十七柱を合わせ祀っている。

県・護国神社        大鳥居             拝殿
    

「兼六園」は、城の石川門に隣接する林泉回遊式の大庭園で、水戸の偕楽園、岡山の後楽園、と共に日本三名園の一つである。
1676年5代藩主前田綱紀の造った「蓮池庭」が始まりで、代々の藩主によって天下の名園に仕上げられていった。
松平定信が「宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望」の六勝を兼備するとして、「兼六園」と命名したとある。

霞ヶ池、灯籠、橋、曲水、翠滝、瓢池、冬の雪吊り、カキツバタなどが知られている。園は、室生犀星「性に目覚める頃」。
井上靖「北の海」。中野重治「歌の別れ」。五木寛之「風に吹かれて」泉鏡花「義血侠血」など多くの文学作品に登場している。

兼六園             西田家庭園                   園内遊歩道
    


「金沢神社」は、主祭神 菅原道真、 白蛇竜神、 琴平大神、 白阿紫稲荷大名神、 前田斉広公、 前田斉泰公。
創建 1794年、市に鎮座する神社で菅原道真を主祭神としている。
1794年、加賀藩11代藩主前田治脩が藩校明倫堂を建てた際、その鎮守社として、学問の神であり、前田家の祖先とされる菅原道真を奉斎する神社を創建したのに始まる。
兼六園を整備する際に明倫堂は別の地に移転したが、神社はそのまま残され、12代藩主前田斉広が建てた竹沢御殿の鎮守社とされて竹沢御殿御鎮守天満宮と称した。
神社には、災難除けの神である白蛇竜神、交通安全の神である琴平大神、商売繁盛の神である白阿紫稲荷大明神も合わせて祀っている。

金沢神社                     楼門                                  拝殿
    

「津田玄蕃邸・医学館」は、1901年,第四高等学校医学部は金沢医学専門学校となり,旧医学館は本校校舎となる。1903年時点では,旧医学館を本校,
四高内教場を第1分教場,小立野台に新築された金沢病院を第2分教場とした。
破風部分中央の瓦には,MとAを組み合わせた(Medizin Apotheker Kunst)金沢医学専門学校のマークがみられる。
1912年,小立野の金沢病院に隣接し医専校舎が新築されたあと旧医学館は乃木会堂などとして維持され,1923年兼六園内に移築し、
現在は,兼六園管理事務所として使用。

               旧金沢医学校跡
    

「石川四高記念文化交流館」は、四高の歴史と伝統を伝える展示に加え、旧四高の教室を多目的に利用できる記念館と
泉鏡花、徳田秋声、室生犀星等、石川県ゆかりの文学者の資料を展示。
「石川近代文学館」によって構成されている。兼六園周辺文化の森の新しい「学びとふれあいの複合文化スペース」として、平成20年に誕生。

           石川旧四高         現文化交流館
  

町名「香林坊」は、比叡山の僧であった香林坊が還俗して、この地の町人向田家の跡取り向田香林坊となり、以来目薬の製造販売に成功して「香林坊家」として繁栄したという説が有力。
再開発された映画街の広場には、この由来にちなんで、メグスリノキが植生されている。

「大野庄用水」は、1573~1592年頃、今から約400年前に藩祖利家の家臣富永佐太郎が開削したと言われており、金沢で最も古い用水とされている。
取入口は犀川右岸桜橋上流にあり、延長約10km、幅平均6mで、長町の中を貫流して長土塀を経て昭和町に至る。
かつては城の防衛や防火、消雪、排水、木材の運搬など城下町の生活において重要な役割を担ってきており、この他にも農業用水として、金沢市西部の大徳、
金石地区などおよそ1400石の農地に恵 みを与えていた。
 
武家屋敷跡
  
 

「鞍月用水」は、1644~1648年頃、油屋与助という人物が手掛けたとされている。、実際は、正保年間に行わ れた一部改修の時に携わっただけだという説もある。
こちらは、大野庄用水の2km上流の城南2丁目右岸で取水し、全長約15km川幅は1.5mから6.4mと箇所によって異なっている。大野庄用水と同様に、
町中の生活用水、防火用水と併せて金沢西北郊外13カ村、8千石を潤す大用水でもあった。

鞍月用水           古木                    古い家屋が
    

「長町武家屋敷」は、香林坊から裏道へ入っていく長町の武家屋敷へ出る。江戸時代の武家屋敷の様子が残る長町武家屋敷がある。
長町は前田八家の1つ長氏の屋敷があったことから名付けられ、実際の長氏の屋敷は、若干違っている。
長氏の屋敷跡には、現在玉川公園や金沢市立玉川図書館になる。
長氏の屋敷の隣には同じく前田八家の1つ村井氏の屋敷がある。現在は金沢市立中央小学校となっている。

長町武家屋敷一体は長氏、村井氏をはじめ上級武士から中級、下級武士などが住んでいました。現在では、当時の武家屋敷は殆ど残っていないがその中で
中級武士だった野村家邸は当時の武士の邸宅の様子を伺うことができる。

前田家ゆかりの浄土真宗の寺が
    

長町武家屋敷跡は、加賀藩時代の上流・中流階級藩士の侍屋敷が軒を連ねて、土塀と石畳の路地が続いており、藩政時代の情緒ある雰囲気を味わうことができる。

水野庄用水                 武家長屋が点在する
    


1820年に加賀藩が、この近辺に点在していたお茶屋を集めて整備した茶屋街がある。
石畳の道の両側に紅殻格子のお茶屋が軒を連ね、藩政時代の情緒が色濃く残っている。


休憩所                  用水に木の橋が住宅玄関先まで架る
    


次回は、近江町市場館・犀川大橋寺町へ。