syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

太田道灌の山吹伝説

2012-12-22 | 気まま旅

「道灌の山吹伝説」は、道灌は鷹狩りにでかけて俄雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみ、「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、
思いもよらず年端もいかぬ少女が出て、黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪。
花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行った。

道灌がこのことを語ると、近臣の一人が進み出て、「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに「七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき」
という歌があり、その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」といった。道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進すると云う伝説。
山吹伝説は越生の他にも各地に残り、豊島区高田、荒川区町屋、神奈川県横浜市六浦など。落語の「道灌」としても広く知られています。
高田の説には続きがあり蓑を
求められた家の少女、「紅皿」を後に江戸城に呼んで和歌の友としたという話や道灌が亡くなった後、紅皿は新宿区大久保に庵を建てて尼となったという。

道灌の父・道真(資清1411~1488)は扇谷上杉家・家宰として馬上に打ち物取っては並ぶものなき武将で、そのうえ連歌の達者としても知られていたのですが、
ある事件をきっかけに家督を道灌に譲ります。道灌23才、道真は44才でした。その後、道灌は江戸城、道真は河越城で活躍しましたが、道灌の背後には
つねにすぐれた師・道真がいたのです。また道灌自信も鎌倉の建長寺や足利学校に学び、幼少からずばぬけた秀才だったのだとも言われている。
父・道真は、越生の龍穏寺近くに「さんしあん」と呼ばれる砦を築き、ここは秩父往還の要衝に位置する山上にあり、後に小杉周辺の「自得軒」と呼ばれる屋敷に移っている。
1480年 、秩父から長尾景春が越生に出撃して太田道真を襲うが破れる、という事件があり、越生近在には多くの武者達が居住していたようである。
太田軍の主力は身分の低い傭兵(野武士)が主だったようで、このことから足軽戦法ともよばれている。江戸時代に書かれたこの山吹伝説がもし本当にあった話なら、
やはり道灌が父に会いに往く途中に俄雨にあって立ち寄ったのは越生の近在、道真配下の者の家で(道真・配下の者なら和歌をたしなんでいても不思議はない。)
蓑のないのを恥じて娘に山吹の花を持たせた・・。山吹伝説。・・資料より

道灌山から見た下町


     
「室町時代中期・道灌と日暮里」は、JR西日暮里駅脇の小高くなった台地が道灌山、諏訪台とも呼ばれている。
この台地にある諏方神社の「諏訪大明神略記」には、室町時代中期の1455年、荒川区を含む武蔵豊島郡を支配していた豊島氏と激しく争っていた太田道灌が諏方神社に
祈願し社領を寄進した旨が記されている。

道灌山は大河隅田川、東京湾に近接し水運利用には格好の場所であり、豊島氏の本城が石神井城にあったことなど考えると軍事戦略に秀でた
太田道灌が
ここに出城を築いたのは当然であるという。

日暮里の諏訪大社に戦勝祈願し練馬方面と兵を向けた。
1476年に関東管領山内上杉家の家宰を二代続けて出した白井長尾家の長尾景春が顕定に叛き、豊島氏の当主泰経は景春に加担して石神井城、練馬城で挙兵。
弟の泰明も平塚城で挙兵している。これにより、江戸城と河越城の連絡が絶たれて太田道灌は危機に陥るが、1477年の江古田・沼袋原の戦いで泰経は道灌に大敗を喫し
、泰明は戦死し、石神井城も落とされてしまうのである。
1478年に泰経は平塚城で再挙するが、道灌の攻撃を受けて落城。小机城に逃れるが、ここも落とされ、泰経は行方知れずとなり豊島氏本宗家は滅亡したという。


1478年には、「江戸名所図絵」には道灌がこの地に砦を築いた際に諏方神社を鎮守とした図が残されている。 
道灌は、1486年、に主君の関東管領上杉定正に謀殺され関東南部は再び戦乱の地になる。
1524年、北条氏綱が上杉氏を破り江戸城に入り後北条氏の時代を迎えるが、僅か約30年後には徳川家康が江戸城に入城し江戸時代を迎え、近代史へと歩みを進める。

この辺りの台地は“道灌山”と呼ばれ江戸時代には景勝地として知られていた場所。



道灌の名声が主家の扇谷上杉定正を上回るようになってくると、定正もしだいにも自分の懐刀である道灌の存在を恐れるようになる。
利用したのが、分家の台頭を面白く思わない上杉家の本家、山内上杉顕定だった。顕定は定正に道灌暗殺をそそのかし、定正はその気にする。

「謀 殺」1486年 道灌は上杉定正の召しにより、相模国糟谷の上杉定正邸を訪れ、このときすでに定正と本家の顕定との間に道灌暗殺の密約ができていることなど、
道灌には思いもよらぬことであった。
上杉邸に入った道灌は、道中の疲れをいやすようにと風呂に案内された。やがて、入浴を終えた道灌が、風呂の小口を出ようとして首を出したところ、
定正の家来、曽我兵庫がとび出して斬りつけた。 道灌はひと声「当方滅亡」と叫んで、そのまま息絶えたという。道灌55歳であった。
当方滅亡とは、当家滅亡。つまり、これほど忠誠を尽くしてきた自分を殺すという上杉家は滅亡するに違いない、という意味である。そして実際に上杉両家はこの後、
衰退の途をたどることになる。

道灌山に建つ開成中・高校          道灌坂
  

道灌の一首に、
   「 きのふまで まくまうざうを 入れおきし へんなしぶくろ 今破りけり 」

戦国初期、まだ下克上は一般的なことではなかった。道灌は潔癖な人間であり、道灌自身も上杉家を乗っ取ろうとか滅ぼそうというような考えはまったく持っていなかったようだ。
道灌は、上杉家のためによく働いた。しかし、主君のほうは下克上の影におびえたようである、道灌と同世代の人間に北条早雲がいる。早雲は小田原を手に入れ、
関東の覇者になった。もし、道灌が存命し上杉家をまとめていたら、その後の勢力図がどうなっていたか、興味深いところである。

現在の西日暮里公園  駅沿いの山の手
    

道灌は30数回の合戦を戦い抜き、ほとんど独力で上杉家の危機を救った。
「太田道灌状」で「山内家が武・上の両国を支配できるのは、私の功である」と自ら述べている。

                  道灌山の桜並木
    

「諏方神社」は、1202年 豊島左衛門尉経泰が信州諏訪神社より勧請して創建したという。
江戸期には日暮里(新堀)村・谷中町の総鎮守として崇敬を集め、また慶安2年には社領5石の朱印状を拝領していたほか、日暮の里として江戸有数の景勝地として有名。

太田道灌が戦勝祈願した諏訪神社
    

次回は上野浅草羽子板市へ

石神井城跡と照姫

2012-12-21 | syu散歩
「所沢道」は、中野―保谷ー清瀬ー所沢間、石神井三宝寺池は、その途中。
大和陸橋付近からは早稲田通り、これを西へ進み、本天沼二丁目交差点からは北上する旧早稲田通りとなる。
妙正寺川を松下橋で渡り、西武新宿線下井草駅西側の踏切を過ぎ、杉並区立八成、小学校の前で新青梅街道と交差。その先の千川通りとの交差点名「八成橋」は、
千川上水(現在は暗渠)に架かっていた所沢道の橋の名である。環八通りを越え、石神井川を豊島橋で渡り、豊島橋交差点から西へ。
練馬区立石神井小学校の北側を過ぎ、「三宝寺」の前から坂道を進み、西武バス上石神井営業所付近で富士街道と交差。
練馬区立大泉第二小学校の西側を通り、西武池袋線保谷駅の南側に突き当たる・・・・。

「都立石神井公園」池の端を散策する。

三宝寺池、石神井池の二つの池を中心とした公園で、園内は起伏に富み、武蔵野の自然がよく残されている。
木々に囲まれ静寂な「三宝寺池」と、「石神井池」のほかに、「石神井城跡」とこれに関する幾つかの遺跡がある。
開園年は、昭和34年。面積 223,785.57㎡ある大きい公園。


都立石神井公園                    池の端に柳の木が
    

「照姫まつり」は、父の後を追って三宝寺池に入水した照姫の悲劇をしのんで、1988年以来、毎年4月から5月に「照姫まつり」を開催。
照姫、泰経、奥方、武者、侍女に扮した時代行列が石神井公園をパレードし、10万人が集まる盛大な春のお祭である。
照姫役は、区民の13歳から20歳の女性を対象に公開オーディションで選ばれている。

「北条高時」1303-33 執権貞時の嫡男、新田義貞軍勢に攻略され自害、政務より遊興に、月二回闘犬興行を(一度に百犬も)。
「北条氏康」1515-71 小田原北条三代目、氏網の長男、扇谷上杉、山内上杉の武蔵国破る、連合軍8万に囲まれ8千の氏康軍は、和を乞う、敵が安心した隙に夜襲し撃破した。
(日本三大夜襲の河越夜襲)。古河光方と関東支配、武田、上杉と抗争、地検推進する。

古木が風雪に耐えて                     中之島
  

「豊島輝時」1375年 南北朝時代武将、北条時行の子、豊島景村の養子に。石神井池の「道場寺」建立、豊島氏の菩提寺。

「豊島泰経」と照姫は、石神井城主と姫。父径祐。
      1477年 太田道灌(扇谷上杉)攻撃で落城、泰経と照姫は、ここ三宝寺池で愛馬と共に水死したと云う伝説が残って居る。
      夜陰に逃げたとも言われている。

園内の落ち葉と紅葉                   照姫も歩いたであろう池之端
  

「太田道灌」1432-86 上杉扇谷定正の執事、江戸城を拠点に上杉氏勢力拡大したが上杉氏主君に謀殺、人間同士の妬みによると云う。
道灌は、武蔵国の拠点にした江戸城は、道灌の舟に一匹の魚が飛び込み、道灌はこれを瑞祥とみなし土地の名を千代田村とし、ここに城を築いたと云われている。
道灌は、死を目前に「当方滅亡」と叫んだという。その通りに。

その続きは、次回に。

紅葉樹
  

「三宝寺池」の一部は、国指定の天然記念物である「三宝寺池沼沢植物群落」がある。1935年に指定。
中ノ島を中心に、カキツバタをはじめ、シャクジイタヌキモやジュンサイなどが生い茂っていた。しかし、1950年代後半から、周辺は都市化が進んだこと、
ヨシなどの植物を周辺の人が利用しなくなったため、植生が大きく変わった。その後、貴重な水生植物を保護するために、保護活動が行なわれている。
一時期、日本初の100mプールとして使われ、その後に釣り堀となっていた部分は、1989年に水辺観察園として整備されている。
三宝寺池は石神井川の水源とされる。流域の豪族であった豊島氏も、この水の支配の為、この池の南の台地に石神井城を築城した、とされている。
1996年に、「三宝寺池の鳥と水と樹々の音」が、環境庁選定の「残したい日本の音風景100選」に選ばれた。
1993年8月、三宝池で巨大ワニの目撃証言があいついだため、マスコミが連日報道し、罠をしかけるなどの大騒動になったが、結局発見されなかった。

石神井城図            三宝池               小山に鳥居が
    

練馬区の大根の起源は、五代将軍綱吉が病気療養の為練馬に転地し、その時、尾張より種子を取り寄せ栽培され広まったという。
元禄時代は、「練馬大根」が高く評価されている。
以外に知られてないのが、神奈川大山道と江戸の通じ野菜類を運んだ清戸道と所沢道があり賑わった街であったと思われる。

湖面に水鳥が           老松                  厳島神社
    

「石神井城」の築城年代は定かではない、
石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島氏が、鎌倉時代後期に居城の一つとして築城したとされる。
室町時代後期、上杉禅秀の乱で足利持氏側に立った豊島氏は最盛期を迎えるが、やがて新興勢力の扇谷上杉氏側の太田道灌と対立を深め、長尾景春の乱において
太田道灌に攻められ没落した。
この戦いにおいて、豊島氏は当主の泰経とその弟泰明はそれぞれ石神井城と平塚城に拠り太田道灌と対峙したが、攻められた平塚城の後詰戦(江古田・沼袋原の戦い)
で惨敗を喫し、泰明は戦死、泰経は石神井城に落ちた。
その後道灌は石神井城に兵を進め、和平交渉の決裂を経て、泰経は平塚城、更に小机城へと落ち延びた。1477年、扇谷上杉氏方太田道灌に攻められ落城、廃城となった。
翌文明10年 1478年小机城も落とされ、遂に豊島氏は没落した。





「姫塚」
道灌は愛宕山に陣を置き石神井城を包囲した。4月、道灌は、総攻撃をしかけ、落城の刻が迫った。
泰経は豊島氏重代の家宝「金の乗鞍」を雪のごとき白馬に置き、これにまたがって城の背後の崖に登り、道灌の兵たちが見守る中で白馬とともに崖から飛び降りて
三宝寺池に身を沈める。
泰経には照姫という美しい二女がいた。照姫は父の死を悲しみ、父を追って三宝寺池に身を投げた。
文武の名将道灌はこれを憐れみ、照姫の亡骸を弔って塚を築いた。この塚はいつしか姫塚と呼ばれ、そのそばに立つ老松に登ると池の底に泰経とともに沈んだ
金の鞍が燦然と輝いているのが見えると云う。この松の木は「照日の松」と呼ばれる。

照姫塚               老木                    武蔵野雑木林           
    

「古城」現在では城跡として残るのは小さなものも多い。石垣が残っているのはまだ良い方であり、土塁と堀しか残っていないことも多い。
しかも、中世末期より前の城にはもともと石垣がほとんどなかった。
発掘の対象となる以外には、普通の人が見ても城跡とは分からないことが多い。城跡は往々にして丘や山の上にあり、周囲の石垣が面影を留める、といった姿として認められる。

「石神井城跡」も、中には入れないが、わずか土塁、堀が見える程度であった。
城跡は栄枯盛衰を感じさせ無常観を感じる対象として、歌や詩の題材としても使われ、幻想的な雰囲気を感じさせることもある。都心では貴重なものと思う。

都指定史跡           土塁           主郭跡案内板
  

三橋美智也の「古城」
                    松風さわぐ丘の上
                    古城よ独り何偲ぶ
                    栄華の夢を胸に追い
                    ああ 仰げば侘(わ)びし天守閣

中に入れず            城郭・堀           三宝寺池と城跡
    


城跡の区画は不明            時代から平城であろう(天守閣などない)
  


「厳島神社」の創建年代は不詳。江戸時代には、弁天社、水天宮として既に史料に残されている。
明治41年、大正4年に近隣の稲荷神社、愛宕神社、御嶽神社を合祀、昭和58年に現在の社殿が竣工した。祭神は、狭依姫命、相殿香具槌命、倉稲魂命、国常立命。
三宝池寺公園中央にあった。

池から見た城跡
  

次回は、大田道灌軍の荒川区日暮里へ。

三宝寺池と日暮里道灌山 

2012-12-18 | syu散歩
3回に分けて練馬区「石神井公園三宝寺池」と荒川区の「太田道灌」の道灌山を歩きました。

判りにくいので練馬区豊島氏の成り立ちを資料から掲載します。

平安時代、桓武天皇の孫の高望王が臣籍降下して平姓を賜り関東に土着した。その子平良文の孫の平将常は武蔵権守となって武蔵国秩父郡中村郷に土着して秩父氏を称し
「秩父将常」となった。秩父氏は三浦氏、千葉氏、鎌倉氏、大掾氏などに並ぶ坂東八平氏に数えられる大きな勢力を張った。

秩父氏からは畠山氏、稲毛氏、河越氏、江戸氏などの多くの氏族が武蔵国各地に進出して秩父党と呼ばれる武士団を形成した。

秩父常将の次男秩父武常は、治安3年(1023年)に武蔵介藤原真枝を討った功により、武蔵国豊島郡と下総国葛飾郡葛西の地を賜り、この頃に豊島氏または
葛西氏を称したと考えられている。一方で、近年の研究では二代あとの秩父康家が豊島氏の初代ではないかとも考えられている。

現在の東京都北区豊島町が豊島氏発祥の地とされる。北区の平塚神社が豊島舘跡と伝わり、豊島氏初期の事績を綴った「平塚神社縁起絵巻」が残っている。

平忠常の乱以来、清和源氏の一流、源頼信の系統(河内源氏)が関東へ進出して坂東八平氏は源氏の家人となっていた。武常も源頼義・義家に従って前九年の役で
奥州で戦って戦死している。保元の乱での源義朝の配下で武名をあげた武士に「豊島四郎」の名がみえる。


練馬区石神井は、区の南西部郊外住宅地域、「石を祀る石神信仰に由来する、石神井神社」昔は、豊島郡石神井村で昭和7年は、東京市板橋区
昭和22年練馬区となる。
鉄道は、西武池袋線と新宿線、青梅街道と環八通り、所沢道、石神池、三宝池の公園を中心に発展している。

「禅定院」は、約600年前に願行上人が草創したと伝えられ、もと三宝寺末寺。1874年には、当地に区内初の公立小学校として豊島小学校が開校した。
禅定院は、照光山無量寺といい、真言宗智山派(豊島八十八ヶ所霊場第70番札所)のお寺で、本尊は阿弥陀如来。
新編武蔵風土記稿によれば、今から約600年前、願行上人によって開かれたお寺であると伝え、1818-30年の火災で、建物・記録などことごとく焼失、
境内にある応安、至徳(南北朝時代)年号の板碑によっても創建の古さをうかがうことができる。
門前の堂宇に安置された六地蔵や鐘楼前の大宝篋印塔は石神井村の光明真言講中によって造立されたもの。
本堂前の1673年と刻まれた織部灯籠(区登録文化財)はその像容から別名キリシタン灯籠といわれ、区内でも珍しい石造物の一つに数えられている。

バス停石神井公園前沿いの禅定寺                     正門
    

禅定院にある区登録文化財は、橘絞椿几帳柄鏡•石幢六面六地蔵•織部燈など。

キリシタン石塔                    鐘楼
     

「道場寺」は、豊島山といい曹洞宗(禅宗)の寺、北朝応安5年 1372年、当時の「石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)」が、
大覚禅師を招いて建てたもので、輝時は自分の土地を寺に寄付して、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられている。
今でも豊島氏の菩提が弔われ、境内には、1477年 太田道灌に滅ぼされた豊島氏最後の城主「豊島泰経」や一族の墓と伝えられる石塔三基がある。
道場寺には、北条氏康印判状が所蔵され、この古文書は、1562年、小田原の「北条康氏」1515~71年、から禅居庵にあてて発給した虎の朱印状内容は、
道場寺分の段銭、懸銭などの税金を免除するもので、区内では、現在のところ練馬区に関係する唯一の後北条氏の文書である。
境内の三重塔(昭和48年(1973)建築)内には、人間国宝であった香取正彦作の金銅薬師如来像が置かれ、その台座にはスリランカより拝受の仏舎利は奉安されている。

豊島氏の菩提寺 道場寺                         門楼
  

区指定文化財ー 北条氏康印判状。

三重塔は、 山門を入って左手に、そびえ、道路からもその姿を見ることが出来る。
1973年に総欅造で建立されたもので、福井県若狭小浜の明通寺三重塔(国宝)をモデルとしているという。

三重塔                鐘楼              本堂
    


「三宝寺」は、本尊 不動明王、創建年 応永元年 1394年、正式名は、「亀頂山密乗院三宝寺」と云う。
札所ー武蔵野三十三観音霊場第三番、根本大塔三宝寺は、真言宗智山派の寺院。山号は亀頂山、三宝寺池の由来になっている。

寺院は、1394年 に鎌倉・大徳寺の幸尊法印によって開かれた。
当時石神井城を築き付近を治めていた豊島氏からも帰依を受けていた。豊島氏が滅んだあと、後北条氏や徳川家からも保護を受け、徳川家光の鷹狩の際に
休憩場としても使われ、朱印地十石を与えられている。
無本寺になり格式ある寺院となった。山門は徳川家ゆかりの門ということで、御成門と呼ばれ、現在のは1827年に建てられたものである。
また境内にある長屋門は勝海舟の邸宅にあった門。

三宝寺             鐘楼                本堂
    

三宝寺の梵鐘は、銅製で総高164.4cm、口径85.8cm、縁厚29cm。
銘文によれば作者は江戸時代に多くの鐘を造った鋳物師いもじとして知られた椎名伊予守いよのかみ藤原吉寛で、1675年に制作、鐘楼に掛けられた。
山門は四脚門で、屋根は書物を開いて「へ」の字なりにしたような切妻造りで、銅板ぶき、天井は、木を組んで格子形に仕上げた「格天井」となっている。
将軍家光が鷹狩りでお成りになったと伝わっており、「御成門」とも呼ばれている。現在の門は、1827年の建築で、1953年に修復したもの。
全体的に重厚な門で、ゾウやバクなどの彫刻と細部絵様ようは江戸時代後期の特徴を示している。

三宝寺           境内  釈迦堂           
    

石段を上がると、広い敷地に雄大きな「宝篋印塔」が、この塔、天明元年1781年造立とある。


    

「郷村鎮座、氷川神社」創建は、室町時代の応永年間 1394年-1428年に石神井城城主「豊島泰経」が、武蔵一宮である大宮氷川神社から御分霊を奉祭したのが始まり。

石神井城跡の氷川神社参道                 本殿
    

富士山と筑波山を結んだ線と、浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点に位置、「大宮の氷川神社・中川の中氷川神社、三室の氷川女体神社」が
浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に並ぶことから、この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある。
さいたま市の「大宮」の地名は、当社を「大いなる宮居」と称えたことに由来。祭神、3柱。 須佐之男命、 奇稲田姫命、 大己貴命。

境内                                              石塔
    

参考に
現豊島園にあった「練馬城」は1331年-1333年頃に成立したと推定、豊島氏の一族が領した。城の起源は豊島氏の支族が練馬の地に居館を営んだものであるといわれている。
豊島氏は、1476年、に勃発した長尾景春の乱において、長尾景春に同調して山内・扇谷両上杉氏と戦った。
この乱において、両上杉方の江戸城と河越城の間に位置する練馬城は、近隣の豊島氏の城である「石神井城」とともに、両城の連絡を遮断する役割を果たした。
江古田・沼袋原の戦いで、両上杉方の「太田道灌」は、「豊島泰経」と戦って勝利し、豊島一族が立てこもった「石神井城」を落城させた。
練馬城については記録がないが、このとき太田道灌の攻撃によって陥落したと考えられている。城跡の中心部は、豊島園の敷地になり、遺構はほとんど残っていない。

次回は、石神井城跡へ。

 

千歳烏山 寺町の続き

2012-12-16 | syu散歩

「烏山」は、世田谷区の地名。北烏山1丁目-9丁目と南烏山1丁目-6丁目より成り、京王線千歳烏山駅周辺は烏山地域の商業及び行政の中心地区。
南に粕谷、上祖師谷、西に給田、三鷹市北野、北に牟礼、杉並区久我山、東に上高井戸、世田谷区八幡山に接する。
南部は甲州街道沿いの集落が起源、北部は、主に、「烏山寺町」が、北部には、「久我山」「三鷹」を称する施設が散見されるなど、千歳烏山駅周辺とは異なる。
北部の寺町は、26の寺院が並び、1923年の関東大震災の後、下町(浅草・築地・本所等)で焼け出された22の寺院が集団移転した。
寺町で、特に、「幸龍寺」は、 徳川家康が浜松城下に建立した寺を移転した寺院で知られている。
肥前国唐津藩(佐賀県唐津市)小笠原氏の現在の菩提寺。また、「高源院鴨池」は、 目黒川の支流である烏山川の源流であり、途中暗渠化されたり
しているものの烏山川緑道をたどり、市街地の中を路地を縫って池尻の目黒川までたどる事が出来るという。

臨済宗大徳寺派の「高源院」は、松葉山と号し、1702年 怡渓宗悦和尚が開山、品川東海寺の塔頭として北品川に創建。昭和14年当地へ移転している。 

高源寺                     境内
    


高源寺の本尊は、釈迦如来の座像で足利時代の作といわれている。開山の怡渓和尚の木像が安置してあるが、これも作者、時代ともに不詳。
1702年 久留米藩第5代藩主有馬頼元公および夫人のために、怡渓宗悦和尚が開山し、はじめは品川東海寺の塔頭として、北品川に東海寺と称して建立されたが、
後有馬頼元公夫人の法号養福院殿高源宗隆大姉から高隆院と称したと云う。
明治26年ごろより無住となり、関東大震災によって廃寺となった。昭和10年ごろから有馬氏一族の有志が再建をはかり昭和14年現在地に移転したが、
太平洋戦争のため再建計画は中絶している。
敷地内は植木が多く春はつつじ、夏は睡蓮、秋は萩など四季のながめがよい。特に庭内に清泉が湧いて池を作って、中央に浮御堂を建て、弁財天がまつってある。
この池に昭和35年の秋から鴨が越冬するようになった。小鴨・軽鴨・真鴨が飛来し、軽鴨の産卵孵化がみられ、都会地としてはたいへんめずらしい場所である。

「永隆寺」は、法華宗本門流、本所(墨田区太平)に創建、関東大震災後当地へ移転。

  


「妙祐寺」は、浄土真宗本願寺派寺院、天護山と号し、1625年 渋谷村宮益坂に了頓法師が、廃寺となっていたものを再建。昭和21年に当地へ移転

  


「存明寺」は、真宗大谷派寺院、桜田山と号し、1647年 釈願竜が江戸桜田郷に創建。芝金杉、麻布富士見町への移転を経て、昭和4年当地へ移転。
現在の本堂は戦災前の浅草観音堂をたてた「伊藤平左衛門作」で都内でも珍しいものといわれている。 なお本堂には、文政5年存明第9世林明の銘のある伏鐘がある。
(世田谷社寺と史跡より)


  

「幸龍寺」
徳川家康公がいまだ浜松城主で在った天正七年(1579年)、後の二代将軍秀忠公が誕生した。この時、乳母大姥ノ局(正心院殿日幸尼)は秀忠公の為に一宇の建立を請願、
家康公は奨めを入れ城外に伽藍を調え、玄龍院日?聖人を開山に招き、徳川家祈願寺に定めたのが當山の開創起源であるという。
これより家康公は駿府、江戸と本拠地の変わるたびに當山を伴い移転している。二代将軍秀忠公は継嗣出生安産祈願を當山に命じ、無事に後の三代将軍家光公の誕生を見ると、
仏舎利を奉遷の上、鬼子母神十羅刹女を造像奉納している。

  

「源生寺」は、1277年 釋貞園に建立されたが、場所は明らかではない。第九世住職 釋秀山により、1657年に江戸築地に移転した。
1923年の関東大震災により全焼。墓碑が多数破損したが、本尊と重要書類は、無事であった。1932年移転、現在にいたる。宗派は、浄土真宗 本願寺派。


  

「常栄寺」は、浄土真宗本願寺派、鳥越山と号し、創建年代は不詳、浅草鳥越に創建、浜町、築地(築地本願寺の寺中寺)への移転を経て、
1801-1803年 柘植長門守二男某が中興。関東大震災に罹災後、大正13現地へ。


  

「乗満寺」は、真宗大谷派寺院、野粂山と号し、野粂林松院が明泉法師と力を合わせて摂津東成郡に林松寺として創建。
駿府、江戸車坂(上野)へ移転、野粂山林松院乗満寺と改称、関東大震災後の大正13年、当地へ移転。


  


「金剛山 多聞院」は、 本尊, 地蔵菩薩. 開基, 述誉上人. 宗派, 真言宗豊山派。1628年 四谷新町(新宿区)に創建。
1954年 新宿駅周辺の区画整理のため、現在地に移転。
現在の本尊は地蔵菩薩だが、江戸時代の『御府内八十八ヶ所大意』には不動尊とある。境内には立派な石彫涅槃図がある。奈良県の壺阪寺から贈られたもので、
石材はインドのデカン高原産とのこと。
台座には釈迦八相のうち「誕生」「出家」「降魔成道」「初転法輪」が描かれている。
その他、境内には延命地蔵、文殊菩薩、悲母観音の石像や仏足石などがある。また、墓地に建つ無縁墓は、天保の大飢饉での餓死者を葬ったものという。


  

日蓮宗・「妙高寺」は、原立山と号し、1625年 首玄院日立上人により浅草橋場に創建、関東大震災後昭和2年当地へ移転した。


  

京王線千歳烏山駅が見えてきた。東西共に大きな商店街が続く、駅の歴史は、1913年- 京王電気軌道の烏山駅として開業。 1929年に「千歳烏山駅」に改称された。
1944年 東京急行電鉄(大東急)に併合され複々線として本数も多い、その為踏切は、なかなか開かないと云われている

京王線 千歳烏山駅
    


これで三鷹方面は、終了です。

牟礼と千歳烏山 寺町へ

2012-12-14 | syu散歩

「玉川上水緑道」は、福生市、昭島市、立川市、小平市、三鷹市、武蔵野市と流れ樹木、草花と植物の宝庫である。


三鷹市牟礼に来た、牟礼は、都・市のほぼ中央部、古語に無礼、無連が牟礼になったと聞くが、牟礼の中央に「明神山・明神社」がその由来とも言われている。
現在は、牟礼団地、住宅街となり人気の街。所々に、農家直販の野菜を売る無人店がある。

隣接する井の頭にも含まれる部分がある。後、三鷹村を経て三鷹市に編入された。また昭和20年代に発生した「牟礼事件」の舞台として知られている。

    

「牟礼事件」は、1950年、渋谷区神南町に住む祝田玉穂さん(21)が突然失踪、土地家屋と家財道具が何者かに売り払われていた。
1952(昭和27)年秋、売買に関わっていた佐藤誠など二名を逮捕。牟礼の神社わきで玉穂さんの遺体が発見された。
死刑判決を受けた佐藤は再審を訴えつづけたが、1989年、獄中で病死した。最終判決は無罪。

「神明神社」は、三鷹・牟礼の氏神として、牟礼の里に鎮座、1537年、約471年の歴史がある。緑豊かな井の頭公園のほど近く三鷹の一番高い所にある神社。
御祭神の天照大神様、一家の家内安全から健康その他で、稲荷神社を合わせてお祀りし、商売繁盛等にもご利益のある神社とされている。

扇谷上杉氏の家臣・難波田弾正の立て籠もる深大寺城に対して、北条氏綱の家臣・北条綱種がこの地に陣を構え、陣内鎮護として芝の飯倉神明宮(芝大神宮)から
御分霊を勧請したことを創祀とする。綱種は、牟礼を拓いた北条康種の父である。
1868年、稲荷山に祀られていた稲荷神社を合祀。牟礼地区の鎮守として地域住民の崇敬を集めている。

    

地域の「牟礼の里公園」は、1995年、三鷹市が「昔ながらのふるさとの農風景を保全した公園」としてオープン。
面積は約5800㎡で規模はそれほど大きくはないが、園内には中央部の広い芝生の広場を囲むように栗林や竹林がある。
芝生の広場は斜面になっており、全体的に平地の三鷹の市域では最も標高が高いところにあるため見晴らしがよい。
芝生広場の上の富士見台からは晴れた日には富士山を望むことができるという。
園内は手入れが行き届いていて公園としてのまとまりがよく、くつろげる。秋には「牟礼の里秋祭り」が開催され、地域で各種の催し物が開催される。

  

「三木露風」は、1889年 - 1964年、日本の詩人、童謡作家、歌人、随筆家。本名は三木 操。異父弟に映画カメラマンの碧川道夫がいる。
近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並び「白露時代」と称された。
若き日は日本における象徴派詩人。1963年、紫綬褒章受章。1964年、三鷹市下連雀郵便局から出てきたところを、タクシーにはねられ、75歳で死去。
没後、勲四等瑞宝章。1928年より在住し、三鷹市に墓がある。

「赤とんぼ」は、三木露風の作詞、山田耕筰の作曲による、日本の代表的な童謡の一つ。
夕暮れ時に赤とんぼを見て、懐かしい故郷を思い出すという、郷愁にあふれた歌詞である。三木が1921年(大正10年)に、故郷である兵庫県揖保郡龍野町で
過ごした子供の頃の郷愁から作ったといわれ、童謡集「眞珠島」で発表された。1927年(昭和2年)に山田が曲をつけた。


  

三鷹牟礼「花と緑の広場」は、平成22年「花と緑の広場」がオープン。この広場は農家の地主が無償で借り土地を暫定的に整備し、地域の住民に開放しているという。
面積は約6,900㎡あり、芝生広場や広大な敷地を活かした花畑などがある。
広場の特徴は、創り上げられた公園ではなく、みんなの手で創っていく公園という点、ボランティア花壇やボランティアによる庭づくり、種まきから行う花畑など、
花や緑に触れ合いながら楽しむことのできる広場となっている。


  

世田谷区北烏山に入る。この先に中央自動車道が見えた。烏山寺町である。
そこには、二十六の寺院がまとまって並んでいる。まず、日蓮宗「妙寿寺」の楼門を潜る。

「妙寿寺」は、法華宗本門流、本覚山と号し、1631年 江戸谷中に日受上人が妙感寺と号して開山。
1661-1673年以前に本所猿江へ移転、猿江稲荷社の別当を勤めると共に、寺号を「妙寿寺」と改め、関東大震災で罹災後、烏山に移転している。


    

妙寿寺には、心学者「中沢道二」の墓。豪徳寺の梵鐘、浅草寺弁天山の梵鐘などの作者が鋳造した梵鐘などがある。江戸心学参前舎 開祖 中沢道二翁墓と刻まれた碑石がある。
道二は、京都上京新町で生まれ、父と織職をしていたが、後に石田梅厳の教を受け、手島堵安の門に入り、塩町で心学道話を講じ、また1791年神田相生町に参学舎をたてて、
1803年、79歳で没している。
心学は儒教などより平易に身近な例をもって説き、心の持ち方によって不安を解消する道を教え、私心を去り、倹約・正直・堪忍を守り、足るを知って分に安んぜよというのである。
これは江戸市民、なかでも商人に歓迎され、学ぶ者が多かったといわれている。(世田谷社寺と史跡より)。


     


「専光寺」は、1603年 穩譽上人専光大和尚により品川に開基。 後に馬喰町に移るが明暦の大火により浅草北松山町に移る。
1927年 関東大震災後、当地に移転、現在に至る。
1944年 敷地の拡張にせまられ南側へ352坪拡張。うち300坪は世田谷野毛田村長次郎氏の寄進によるという。

これにより全敷地1000坪余となり、喜多川歌麿(江戸時代を代表とする浮世絵師)の墓は中央に位置し歌麿寺として境内地も整った。




「永願寺」は、真宗大谷派寺院、横河山と号し、1617年 越後の僧浄林坊浄順が浅草に創建、明暦3年の大火により報恩寺内へ、1811年下谷、昭和11年に当地へ移転した。




次回は千歳烏山寺町の続き。