syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

小田原城ーその1

2013-02-17 | 気まま旅
今回小田原、湯本、熱海、伊東など東京があまりに寒いので、一回りしました。

小田原は、中世の平安時代末期から鎌倉時代にかけて、平将門を討伐したことで有名な「藤原秀郷」の子孫、「佐伯経範」が1030年頃に秦野に移り住んで波多野氏を名乗っていた。
後に支流として、松田氏・渋沢氏・河村氏・栢山氏・大友氏・沼田氏などが出て、相模西北部にその一族の勢力を伸ばす。現在の秦野市内、足柄上郡松田町・山北町、南足柄市、小田原市の一部。
波多野城は一族の居館である。波多野城のあった田原の、その支城として「小田原」が設置された。
平安時代の末期1180年に、蛭ヶ小島(伊豆国)で挙兵した源頼朝と平家方の大庭景親らとの、石橋山の戦いが行われた。
戦国時代に入り、伊勢平氏流を称する「北条早雲」が小田原城を奪取し、その子孫である後北条氏は小田原城を中心に関東一円に台頭し、
鎌倉府足利氏、関東管領上杉氏、常陸国守護佐竹氏、下野国国司宇都宮氏、が。
関東の統治体制を転覆した。下野国守護小山氏は後北条氏により滅亡に追い込まれていく・・・・・。


県西部における中心都市、城下町とかまぼこの街「小田原」。東京から東海道線で1時間半、新宿駅からも小田急ロマンスカーで1時間半という微妙な立地にある小田原の街は、箱根観光の通過点として沢山の観光客が訪れる。
小田急線とJR線は共同の駅舎で改札が隣り合っており近代的な駅である。私は、小田急改札口を出た。

私鉄小田原駅


北条早雲 1432-1519 小田原北条氏初代、京都伊勢氏説。今川氏から下田興国寺城を奪う。後に大森氏の小田原城を、三浦・新井氏を滅ぼし
相模国併合。農民租税は四公六民とした。88歳の長生き。

北条綱成 1515-87 北条氏重臣、氏綱、氏康、氏政の三代に仕えた猛将であった。
北条氏綱 1486-1541 二代目早雲の子 扇谷上杉朝興を破り武蔵国を制圧、今川、里見氏を圧迫して領土拡張する、下総国府台で足利義明を          討つ古河公方足利晴氏に娘を嫁がせ傀儡化を図る。鎌倉鶴岡八幡宮再建。勝って兜の緒を締めよ、の言葉は有名。
北条氏康 1515-1571 三代目氏綱の子 関東南半を支配、税制改革と検地を推進した。
          「河越の夜戦」は、三大夜戦の一つ。綱成が扇谷上杉・山内上杉氏・古河公方8万の連合の囲まれ、氏康は兵8千を何度か          出兵させるがすぐ退去させ、和を乞うて、相手が油断し、気の緩んだところに夜襲を掛けている。上杉は頼りない、再び          武田と同盟せよと遺言して没した。


公園全体図


小田原城は、室町時代、大森氏によって築かれたのが起源と考えられている。この頃の小田原城の位置は、八幡山付近と想定されている。
1498年、北条早雲は伊豆を平定したのち、相模国への進出を目指して大森氏を攻め小田原城を奪い、北条氏は勢力の拡大と合わせて小田原城の規模を拡大していき、1590年に豊臣秀吉が小田原城を包囲した時には、全周9kmもの総構が城下町を包みこむまで発展した。


馬出門



小田原城址公園及び、その近辺が、主要部。石垣を用いた総石垣造りの城である。
佐倉城や川越城などのように、土塁のみの城の多い関東地方においては特殊と言え、関東の入口としての小田原城の重要性が伺える。
現在のような総石垣の城になったのは1632年に始められた大改修後のこと。
本丸を中心に、東に二の丸および三の丸を重ね、本丸西側に屏風岩曲輪、南に小峯曲輪、北に御蔵米曲輪を設け、4方向の守りを固めていた。この他、小峯曲輪と二の丸の間に鷹部曲輪、二の丸南側にお茶壺曲輪および馬屋曲輪、二の丸北側に弁才天曲輪と、計4つの小曲輪が設けられ、馬出として機能した。
建造物としては、本丸に天守および桝形の常磐木門、二の丸には居館、銅門、平櫓がそれぞれ設けられ、小田原城全体では、城門が13棟程、櫓が8基程建てられていたものと考えられている。江戸末期には、海岸に3基の砲台が建設されている。

駅前にある「つちあげ」の碑       蓮池堀           堀
    

二の丸総堀は平地部及び八幡山古郭外周の堀が繋がったものである。
三の丸総堀は近世城郭部の三の丸堀に加え、南側の天神山丘陵の尾根を走る空堀、そして最西端の小峰大堀切によって構成される。
小峰大堀切は中世城郭部最大の遺構である。東側へと伸びる八幡山丘陵、天神山丘陵、谷津丘陵が集まる点にあり、各丘陵と西側の山地部を切断している。
小田原の町全体をとりかこんだ、連続した空堀と水堀である。
山地部の空堀は小峰大堀切よりさらに西の小田原城最高所となるお鐘の台をとりこんでおり、ここから北西部の桜馬場、稲荷森の総構堀は比較的よく残る。平地部の水堀は消滅、あるいは暗渠化したが、南西部の早川口や東部の蓮上院近辺に辛うじて土塁が残る。
中世の城の規模では、驚く。

城前の堀と橋              めがね橋
  

北条幻庵 1493-1589 早雲の三男 幼少で僧籍近江国三井寺で修行し、箱根権現別当金剛王院に、北条軍の一将で国府台の戦い、平井城
           攻めに参加している。僧であり武将で文化人であった。北条五代に仕え、同家滅亡直前で97歳で逝った。
           幻庵の作成した「鞍」、「一余切」尺八は、家康が所望したという。

                                  馬出門から見た天守閣
    

北条氏政 1538-90 四代目、氏康の長男、国府台で里見・大田連合軍を破る、武蔵国制圧し北関東へ勢力を伸ばす。長男氏直の家督を譲るが
           実権を掌握、秀吉の上洛要請に応じなかった為に切腹、首は京の一条戻橋に晒された。汁を飯にかける氏政を見て
           「北条家も終わりだ・・」と、父氏康は、嘆いたという。

北条氏直 1562-91 五代目、氏政の長男、本能寺の変後、上野国信長重臣滝川一益撃破し信濃国へ攻め入り、小県・佐久郡占領、甲斐国
           で、家康と争うが鴻和し、娘督姫を娶る。名胡桃城を攻撃したため、秀吉の怒りを買い征伐され降伏する。
           翌年、秀吉と謁見して、一万石を賜り大阪に住んだが同年30歳で没している。

                            城跡内の梅並木(3分咲き)
   


北条氏規 1545-1600 氏康の五男 伊豆国韮山城主 秀吉との和睦に尽力、家康の竹馬の友、北条氏と徳川家の対立時は、氏規が講和に
           奔走している。家康を信じて開城し降伏を勧告したが、約束は守られず、氏直は高野山へ追放され、兄の氏政と
           氏照の介錯を命じられている。一度自殺するが失敗、高野山に幽居後、河内国7千石を賜っている。


城内から見た堀          井戸・ 馬屋曲輪付近に                 雁木
    


三国同盟は、1545年、今川、武田の連合軍が富士川を越えて北条が守備していた富士市に乱入。
北条軍は各地で惨敗し小田原に撤退した。氏康はこの地をばんかいするため今川義元が三河に出兵した時、駿河の留守を狙って乱入したが、武田晴信(信玄)が南下してきたため、あっけなく敗戦また相州に撤退した。
撤退して間もなく、今川義元の軍師から小田原城の氏康に和睦の申し入れがあった。
相・駿・甲の三国同盟の提案である。寝首を掻かれることも心配したが、同盟が成立すれば有利になることもあろうと同盟を結んだ。
婚姻を交わす。義元は正室に信玄の姉を迎え、義元は信玄の正室に公家の三条殿をめあわせ、その後、義元の長女は信玄の嫡男義信に嫁ぎ、北条氏政には信玄の長女黄院が嫁いだ。
今川義元が桶狭間の戦いで戦死してからは三国同盟も亀裂を生じ、女性三人はそれぞれ国元に帰っている。


昔の銅門
    

二の丸御殿                      城内には古木が
    

小田原北条氏時代の小田原城は、全国でも稀に見る規模の大きな縄張りを持った城郭であり、現在は鉄道、道路が、中央を分断されている。

            銅門の土台石              壁の内臓            
  


次回は、小田原城その2へ 

syu散歩 Bコース

2013-02-15 | syu散歩
Bコースは、Aコースの反対になる。JR西荻窪駅方面、約4KMのコースで、区の住宅街になる。環八を四面道方面に歩くと善福寺川の荻窪橋
に出る。川に沿って左折、両面住宅とマンションが続く。


南荻窪と上荻の間なる
    

西荻は、骨董古道具やグルメのお店が多い、駅前商店街をゆっくり歩いて、焼きたてピザとコーヒーを楽しんでいる。

樹木が垣根に食い込んでいる。    JR中央線ガードを潜る
    

休日は、快速西荻駅通過するので注意を、

西荻と桃井の間
    

西荻四丁目の関根橋を西荻駅方面に左折
    

駅近くの桃井第三小からJR中央線ガードを潜る
    

松庵、西荻南を宮前方面に、大宮前公園で15分ほどぶらさがり体操を
    

元宮前小跡に区の体育館工事中、小さい保育園横の鉄棒で5分ほど体操
  

10分ほどで我が家、毎日の散策は太陽に出会い、健康に欠かせない。杉並区は公園が多く緑と桜の大木があり、ウオーキングも楽しい。
  

syu散歩 Aコース

2013-02-14 | syu散歩
以前にも紹介しました「syu散歩Aコース」。約1時間3.5KMです。夏場は早朝散歩ですが、冬は,午前11時に家を出ます。
環状八号線を横断し、善福寺川を下って行きます。荻窪4丁目の忍川下橋を右折。

                 善福寺川                      倒れ掛かった大木
    

台風で倒れ掛かった桜の大木、川岸の遊歩道は、頭がぶつかって歩けないので迂回する道が作られている。
まだまだ元気に春になると満開に。
                                          
    

「都立善福寺川緑地公園」は、杉並区成田東二・三・四丁目、成田西一・三・四丁目、荻窪一丁目と川に沿って細長い公園である。
善福寺池を源とする善福寺川。杉並区の中ほどで川は大きく蛇行して行く、川に沿って二つの公園。
散歩コースの上流にあるのが善福寺緑地と、尾崎橋を横断の先に下流部に位置するのが和田掘公園と続く。
Aコースは、五日市街道に出て右折する。その角に「宝昌寺」がある。

都心とは思えない春になれば緑がいっぱい。
    

「 曹洞宗 宝昌寺」は、 杉並区成田西、の舟形地蔵尊がある寺で、本尊は、釈迦牟尼如来座像。
江戸時代には、成宗村の壇那寺として、村民の信仰の拠り所とか、村内の熊野、須賀、白山神社の管理をする別当分でもあると云う。
火災のため焼失したものも多くあるが、寺にはまだ多数の板碑の他、舟形地蔵尊や庚申塔などの文化財が。

    

境内に奉安する豊川稲荷社は、明治末年付近一帯が飢饉に襲われた時、人々の災難消除と五穀豊饒を祈願して、愛知県豊川本閣から移し祀ったもので、その利益はいちぢるしく、大正時代から近在諸村に豊川稲荷信仰がひろまったといわれます。

   

相生橋を過ぎると緑地が広がり、前方に五日市街道に架かる尾崎橋。
橋の際に周辺に関する区の説明板、次のように記されている。

上流に向かって左側の台地が尾崎と呼ばれています。「おさき」とは、 突き出した台地の先端(小崎)を指す古い地名で、 発掘された石器や土器また住居址からみて、この台地には約八千年前から人が住んでいたことが知られます。 またこの地名に付会(こじつけること)して「源頼義が奥州征伐のため当地を通過した際、 源氏の白幡のような瑞雲(吉兆を示す雲)があらわれ、 これが因縁で大宮八幡宮を勧請することになったが、その白幡の見えたあたりを白幡(このあたり)、尾のあたりを尾崎と名付けた」(大宮八幡宮縁起)との伝説があります。
このあたりの風景は、 五日市街道を通って小金井の桜見物に出かけた江戸の文人たちの随筆にも書かれており、 辻知篤の享和3年(1803)の文には、次のように記されています。
「馬橋村のなかばより左におれて、 山畑のかたへのほそき道をゆく。」「つづらおりめいたる坂をおりて田面の畔をゆく。田のなかに小河ありて橋をわたる。これを尾崎橋という。」
 
    

右に、区立松渓中学校、敷地内に高齢者在宅サービスセンター、松渓ふれあいの家がある。
平成20年に読書活動文部科学大臣に表彰されるなど読書に活発な学校。

左に、西田小学校、2007年で65周年を迎えた。「にしたしょうがっこう」と読むのが正しくとか。隣に公園がある。

  

「大光山・中道寺」 真言宗 室生寺派 蓮華寺の式場、杉並区荻窪2丁目。

門楼と鐘楼が一対で1781年施工されたとある。
    

中道寺の隣に毘沙門天「不動堂」を、参拝し一日の「SYU散歩Aコース」は、終了する。アー疲れた。


      


次回は、Bコースへ。

渋谷 を歩く 千駄ヶ谷

2013-02-11 | syu散歩
千駄ヶ谷は、区の北で、JR中央線千駄ヶ谷駅と代々木駅東に地域。千駄は、馬一頭に負わす重さで、カヤを刈り取り馬で運んでいたのであろう
江戸時代は、大名屋敷地で。幕府の火薬庫でもあった。北側は、新宿御苑の一部と東京体育館、都屋外プールなどがある。
昔、代々木寄りに、明治時代、陸軍が、日本初の飛行を試みて、記録では、高度70M,距離3000Mと残る。

「日蓮宗千寿院」は、山号 法雲山。1644年 紀伊の太守徳川頼宣の生母お萬の方の発願により、里見日遙(安房の太守里見義康の次女)を開山として創立。
江戸期、紀伊徳川家、伊予西条松平家の江戸表における菩提寺祈願所として、十万石の格式をもって遇せられ、壮大な堂宇と、庭園は江戸名所の一つに数えられ、新日暮里とも呼ばれた。
江戸期において隆盛を誇ったが明治維新の変革によって衰微し、明治18年には火災によって全山焼失し、復興したが昭和20年戦災で再び全山焼失した。
39年の東京オリンピックの道路工事などによって寺観は一変したが、44年には本堂、書院を再建、59年には書院、客殿を増改築し、昔日には遠く及ばずながら復興し、現在に至っている。

青山七福神の一ヶ寺であり、布袋尊が祀られている。

千寿院                            本殿
    

「古碧山・龍巌寺」は、神宮前にある臨済宗南禅寺派の寺院、名主半右衛門が居宅を捨てて一寺に、1630年 喚室を開山に迎え創建。
御府内八十八ヶ所霊場9番札所。  釈迦如来像

龍巌寺                                山門            
    

「勢揃坂」は、龍巌寺前
永保三年 1083年、「後三年の役」の際、八幡太郎義家が奥州征伐に向かうとき、ここで軍勢を揃えたことからこの名が残された。

勢揃坂


「熊野神社」は、御祭神 五十猛ノ命、大屋津姫ノ命、抓津姫ノ命、伊弉冉ノ命、旧称 熊野大権現。
鎮座地は、神宮前二丁目、創建年代 元和5年(1619)。


    

「北青山高徳寺」浄土宗の寺。

「河内山宗春」~1823 茶坊主。実在は、確かなようで、水戸藩が無許可の「富くじ」を開帳したことを突き止め、水戸家から五百両の大金をゆすり成功している。後、事件発覚し獄死したという。又、商家の娘が若い侍と蜜通、娘の両親から、二百両で、大名屋敷に乗り込んでいる。宗春は、上野寛永寺の僧侶をかたり娘を救い出したともいう。
講談「天保六花撰」・歌舞伎「天衣粉上野初花」で悪者に。


門を入ってすぐの右側に大正時代に建てられた河内山宗俊の碑が有る。石仏がたくさんあります。

高徳寺             本殿               河内山宗春碑 
    

千駄ヶ谷の「端園寺」で、渋谷区の禅寺は、終わるが、渋谷には武家屋敷が多い為なのか「禅寺」も多い、禅宗は、厳しい修行が条件である。
厳しい修業のそこに、「白隠慧鶴」80余年民衆教化の捧げ、ユニークな書画と美術が生まれてきた事に改めて勉強させられた。

端園禅寺                石仏             
    

達磨大師  禅宗の歴史は西暦520年頃にインドから中国へ布教にやってきた、お釈迦さまから28代目の祖師、菩提達磨により中国に禅宗が伝えられ、発展した。
日本には鎌倉時代に栄西が、南宋代の中国に渡って天台山の万年寺で禅宗を学び、1191年に帰国、初めて臨済宗黄竜派を伝えた。
都での禅の布教は困難を極めたが、1195年、博多に日本最初の禅寺・「聖福寺」を創建。栄西が持ち帰った茶の種を、筑前の脊振山の中腹にある霊仙寺、佐賀県神埼郡東脊振村に捲き、茶栽培(岩上茶)を推進し、お茶を飲む習慣を日本に持ち込んだのも有名。
宇治茶は、栄西が東脊振から送った種が始まりとされている。1200年、鎌倉に出向き寿福寺や建仁寺の住持となり、1215年、鎌倉の寿福寺にて没した。
1223年、道元は、栄西が没した8年後の1223年に中国(宋)に渡り天童山景徳寺で如浄禅師の指導を受け坐禅を中心とした本物の修行し、1227年に帰国して曹洞宗を広め、中国に渡るまで修行した建仁寺に戻ったあと、宇治山田に興聖寺を開山したが比叡山の圧迫などがあって信徒の一人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重から所領がある越前に移ることを勧められ、現在の総本山となっている「永平寺」を開創され全国に広がっていった。

                     神木                 本殿
    

「観音坂」の坂名は、真言宗観谷山聖輪寺の本尊であった如意輪観音像に由来。観音は聖輪寺の開山とされる行基の作と伝えられていが、残念ながら戦災によって焼失。「江戸名所図会」によると、身の丈は三尺五寸で、両眼は金でつくられていたという。(区教育委員会)

「真言宗豊山派 聖輪寺」は、千駄ヶ谷、観音坂沿いにある。府内88か所霊場10番寺。

観音坂碑                 本殿    
  


「鳩森八幡神社」は、千駄ヶ谷1丁目に位置し、主祭神・応神天皇・ 神功皇后、創建ー860年、例祭 9月15日。
千駄ヶ谷一帯の総鎮守で、氏子町は、北は代々木駅・南新宿駅周辺から、新宿駅新南口の高島屋タイムズスクエアと広がる神社。

1789年の築造と言われ、円墳形に土を盛り上げ、富士山の溶岩は頂上に、頂上に至る登山道は自然岩を用いた階段となっており、山腹にはクマザサも植えられている。
山裾の御影石の里宮(浅間社)をはじめ、7合目には身祿様が安置されている洞窟、烏帽子岩、釈迦の割れ石、山頂にボク石で覆われている奥宮等富士山を再現。
富士塚の前にある池にみたてた場所には毎年開山式(6月3日)の頃菖蒲が咲く。
                                                            
鳩森八幡神社                         神木
   

「江戸名所図会」によると、「往古、此地深林の中に時として瑞雲現じける。又或時、碧空より白雲降りて雲上に散ず。村民怪しむで彼の林の下に至るに、忽然として、白鳩数多、西をさして飛び去れり。依って此の霊瑞を称し、小祠を営み名づけて『はとのもり』と云ふ。」とあり、724年〜729年に創建された社に、860年、慈覚大師(円仁)が村民の懇請によって神功皇后・応神天皇・春日明神の像を作り添え、八幡宮として奉ったこと伝えられている。

将棋堂                               拝殿
    

今回で渋谷の散策を終わります。

渋谷を歩く 麻布、外苑

2013-02-09 | syu散歩
港区麻布は、区中西部、山手台地南東部と古川沿いの低地に位置する地区で、赤坂、芝と合流し港区に、麻布十番、永坂、狸穴、麻布台
元麻布、東麻布、西麻布、南麻布に統合した。古刹の善福寺が元麻布一丁目で山号が麻布山と云う。
麻布十番が、地下鉄南北線開通により、商店街中心に若者に人気。外国公館も多くフランス、ロシア、中国など大使館がある。
元麻布のこの辺りは、盛岡の南部藩屋敷跡地で、有栖川宮家、現在記念公園に、中央図書館等がある。

有栖川記念公園を散策した。

「有栖川宮熾仁親王」 1835-95 皇族、京都、嘉永4年仁孝天皇の和宮と婚約したが、将軍家茂に降嫁の為解消となる。

「有栖川宮記念公園」入口付近


江戸時代、陸奥盛岡藩下屋敷。
1896年に有栖川宮威仁親王が霞ヶ関の御殿から移動する運びとなり代替地として御用地となり、威仁親王の生母(有栖川宮幟仁親王の側室)森則子の住居等が設けられた。
御用地は有栖川家が断絶すると、1913年には同家の祭祀を引き継いだ高松宮に継承され、高松宮御用地となった。

高松宮は、1934年、故有栖川宮の命日にちなんで御用地 約11,000坪(36,325平米)を、公園地として東京市に下賜された。
東京市は直ちに整備工事を開始、公園は、「有栖川宮記念公園」と命名されて公園として開放された。

園内
    

「木下坂」は、南麻布の「有栖川宮記念公園の西脇」を南西に下る坂道、南部坂の坂下に合流している。
木下坂を上がって中国大使館前、六本木ヒルズ・けやき坂の坂上を通って六本木通りへと抜けられる。テレ朝通りと呼ばれる。
坂の名称は、この付近に木下備前守の屋敷があったことに因み、1941年に発行された「麻布区史」にも、「麻布広尾町1番地より西南に下る坂を木下坂と呼ぶとある。
木下備前守邸の門前に当たっていたからである。

町の中にある広い緑地公園
    

「白根記念渋谷区郷土博物館・文学館」は、故白根全忠氏から区に寄贈された宅地、邸宅をもとに、 区に関する資料の保管・展示の場として利用に供されてきた。
郷土の歴史と文化を学び、新たな“渋谷らしさ”の創造を目指す施設として平成17年に生まれ変わった。

                                           白松
    

江戸に幕府が開かれてから、渋谷は、江戸に接する「都市近郊の地」として位置づけられるようになり、都市と農村の二面性を帯びるようになった。生活・社会環境について紹介し、明治・大正になっても「都市近郊の地」である渋谷には、人や工場、学校、商店などの移転・流入があり、宅地化と共に工業地帯が形成され、渋谷駅を起点とした鉄道網の整備によって、渋谷駅周辺が発展していく様子が判る。

「松崎慊堂」は江戸後期の儒者。
熊本に生まれ16歳で江戸に出て、幕府の昌平黌に学び、32歳のとき掛川藩に招かれ藩政に参画。45歳のとき藩を辞し江戸に出て、このあたり羽沢に山荘を営み研究と門弟の教育に尽力したという。
1844年 74歳で没するまでここに住み、石経山房と名付け、経書一般にわたり国典にも詳しく、考証の面や詩文にも長じ、学識はひろく、識見も卓越していました。
「慊堂日歴」は、時代の天候の模様や、村人の生活などを知るのに貴重な史料。
敷地内には、「阿弥陀一尊図像板碑」「力石」、「庚申塔」、「白松」、「五輪塔・傘屋の碑・聖観音」がある。向かい側には、「常盤松の碑」がある。

                                江戸時代の石塔
  

「臨済宗妙心寺派寺院の吸江寺」は、普光山と号し、板倉周防守重宗の室(1668年寂)が、石潭良全(1680年寂)に私淑、麻布櫻田町にあった臥雲庵と號する草庵跡を購入して、1630年に創建、1701年 当地へ移転したという。

国学院大学の隣にある寺。
    

吸江寺所蔵の文化財は、木造観音菩薩坐像及び達磨大師坐像・伽藍神倚像(区指定文化財)

  


国学院大学(国大)は、創立 1882年、大学設置 1920年、本部 渋谷区東四丁目、キャンパスは、渋谷・ 横浜たまプラーザ 横浜市青葉区
学部ー文学部、 法学・ 経済・神道文化・人間開発。

国学院大学渋谷キャンパス
  

国大の横にある氷川神社は、渋谷最古の神社と云われ、慶長10年に記された「氷川大明神豊泉寺縁起」によると景行天皇の御代の皇子日本武尊東征の時、当地に素盞鳴尊を勧請したとある。
境内には江戸郊外三大相撲の一つ金王相撲の相撲場の跡があると云う。

大学前の氷川神社
    


若木睦 會則に、埼玉県川口青木 鎮守氷川神社(二之宮神輿の借用の謝礼)、 鎮守氷川神社、天祖神社の2社は、神輿 渡御に際し奉賛金を頂いている神社なので、同等の謝礼をもって返礼とさせて頂いてる・・・・。

東町の鎮守と国大の神道学部と関係がある神社のようだ。

神社境内
    

「明治公園」は、公園用地は外苑西通りを挟んで東西に分かれる。西の渋谷区側(千駄ヶ谷一丁目)には東京体育館、陸上競技場などがあり、東の新宿区側(霞ヶ丘町)にはフリーマーケットの行われる霞岳広場がある。

近傍には明治神宮野球場(神宮球場)、国立霞ヶ丘陸上競技場(国立競技場)、日本青年館、秩父宮ラグビー場、聖徳記念絵画館、神宮外苑、東京体育館、新宿御苑などがある。

大事にしたい明治公園


「秩父宮ラクビー場」は、大空襲によって焼失した女子学習院跡地に、伊集院浩(毎日新聞社記者)、岡田秀平(東大)、鹿島建設の尽力で着工され、「東京ラグビー場」として完成。
1953年 昭和28年、日本ラグビー協会総裁だった「秩父宮雍仁親王」が薨去され、名称が「秩父宮ラグビー場」に改められた。

昭和39年の東京オリンピックでは、サッカー競技の会場として利用されたが、現在では「西の花園・東の秩父宮」と称され、日本のラグビーにおける中心的な競技場である。今日は、社会人準決勝戦で賑わっていた。

「神宮球場」は、江戸幕府に使えた甲賀者の「百人組」が住んでいた居住地「青山甲賀町」だった。
与力、同心の屋敷、鉄砲射撃場などがあったとされ、射撃場のあった場所がちょうど外野ライト前に当たる。忍者頭高山家の屋敷があった場所が、現在の球団クラブハウスに当たる。(磯田道史「歴史の愉しみ方」中公新書より)

ラクビー場                        野球場
  


次回は、千駄谷方面へ。