syuの日記・気まま旅

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広尾の禅寺散策(黒田長政)

2013-02-07 | syu散歩
渋谷禅寺散策に戻ります。

広尾界隈は、江戸時代は近郊農村であったが、甲州街道、大山街道、目黒道などで、大名の下屋敷や、幕臣の邸宅が設置されていった。
渋谷区の南東、渋谷川北岸寺院が多く移っている。台地上には、屋敷跡に学校が出来、今では文教地域。
JR山手線の敷設に地元民は猛反対し、1885年頃、都市化が遅れたという。

今に残る仙台坂、南部坂、北条坂、青木坂は、各藩の屋敷に由来する。江戸中期には、将軍家の別荘である白銀御殿(麻布御殿・富士見御殿とも呼ばれる)が存在した。明治から大正時代にかけ開発が行われ、後に各国の大使館が設置されるに伴い徐々に今日の国際色豊かな都心の住宅街へと変貌を遂げている。

南部坂と言うと、忠臣蔵で有名な南部坂が思い浮かびますが、その南部坂は赤坂。こちらの南部坂は忠臣蔵とのゆかりは無い。盛岡藩南部家の下屋敷の横を走る坂だったことが、坂名の由来。その屋敷こそ、現在の「有栖川宮記念公園」次回に。

「商店町」は、広尾橋交差点から南西側に広がる。洒落たイメージの広尾だが、ここには昔からの店舗が残っていたり、お惣菜の店があったりと、生活色も感じられる商店街となっている。
JRなどの駅前の商店街と違い、雑然とした賑やかさではない、歩道や街灯・街路樹は綺麗に整備され、奥には、寺町の祥雲寺などいくつかの寺院、北には聖心学園、外苑西通りを東へ渡れば、大使館が多く立ち並ぶ地域である。立地環境も独特であった。


門前町の広尾散歩通り      突き当りが寺町         南部坂         
    

日本の禅は、13世紀(鎌倉時代)に伝えられたとされている。だが、9世紀(平安時代前期)に皇太后橘嘉智子に招かれて唐の禅僧・義空が来日して檀林寺で禅の講義が行われたものの、当時の日本における禅への関心の低さに失望して数年で唐へ帰国したとする記録が残っている。
また、日本天台宗の宗祖最澄の師で近江国分寺の行表は中国北宗の流れを汲んでいる。臨済禅の流れは中国の南宋に渡った栄西が日本に請来したことから始まる。曹洞禅も道元が中国に渡り中国で印可を得て日本に帰国することから始まるが、それ以前に大日房能忍が多武峰で日本達磨宗を開いていた事が知られ、曹洞宗の懐鑑、義介らは元日本達磨宗の僧侶であったことが知られている。
鎌倉時代以後、武士や庶民などを中心に広まり、各地に禅寺(禅宗寺院・禅林)が建てられるようになった。
また、五山文学や水墨画のように禅僧による文化芸術活動が盛んに行われた。



禅寺の中央に、可なり大きな仏教5代、「天空、風、火、水、地」の石塔が建っていた。


江戸名所図会によると「大徳寺派瑞泉山祥雲寺」には子院が8宇あったという。今は、子院でも塔頭でもなく、別の寺という。でも、墓はすべて祥雲寺の境内にある。

「妙高山・東江寺」は、瓦に、信濃飯田藩主堀氏の梅鉢紋が使用されている。開基 堀美作守親昌、父・親良の菩提を弔うために建立。
1661年 以前に、下野州那須郡烏山に建立され、1672年 信州飯田に転封により、寺を廃して、後に景徳院境内に再建し、景徳院と合寺。
東江寺の名前に改め現在に。
東江寺境内に入るとすぐ左に、「東江菴」と刻まれた古い石標が立っている。堀親良の号「梅也宗月東江菴」とある。堀家墓あり。


    


「霊泉院」は、 開基 出雲広瀬城主松平佐渡守近栄(結城秀康の孫) 開山 1669年に建立。 

    

霊泉院所蔵の文化財は、 板碑、歴代頂相画 15幅 附 子順和尚像(区指定有形文化財)、木造十一面観音立像(区指定有形文化財)等がある。


    

「香林院」は、1665年三河奥藩主松平真次の菩提を弔うため、松平(大給)乗次を開基 絶山宗信和尚を開山として建立。
初め麻布小山にあり、江戸の大火により 1668年現在地に移る。
建築物では、本堂、院門が、1825年のもの、江戸時代の貴重な文化遺産。
 


  


    


「徳寺派寺院・祥雲寺」は、瑞泉山と号し、福岡藩主黒田長政を追善して、嫡子忠之が開基となり、長政が帰依していた京都紫野大徳寺の龍岳和尚を開山として赤坂溜池の自邸内に龍谷山興雲寺と称して創建。
1666年に麻布台へ移転の上瑞泉山祥雲寺と改称、1668年の江戸大火により当地へ移転した。
 

    

「黒田孝高」1548-1604 黒田長政は嫡男、秀吉天下の座に付けた軍師、九州征伐軍奉行を務める。小田原、朝鮮出兵参加、関ケ原で東軍に
与した。北九州を席捲し天下を狙っていた。

「黒田長政」1568-1623 初代福岡藩主 「腹を立てぬ、他言せぬ、恨みに思わぬ」重臣に誓詞を交わし、合点のゆくまで語り合ったという、
また、「太平に成りては、武を隠して、顕さぬが本意」自分の武功を語らなかった。


本殿                    境内                 釈迦像         
    


江戸期には塔頭6ヵ寺を擁していた他、臨済宗大徳寺派の触頭として御府内にある臨済宗大徳寺派寺院をまとめていたという。
開山の龍岳和尚は、本山大徳寺164世で、笠仙大法禅師と後水尾帝より勅賜された名僧。


    


長政の墓所は横岳山崇福寺にもある。長政は、1623年に京都で亡くなっている。 遺骸・遺髪などが祥雲寺,崇福寺のどちらに埋葬されているのかはわからない。祥雲寺山門をくぐるとすぐ右手に妙高山東江寺、さらに進むと左手に瑞泉山霊泉院、右手に瑞泉山香林禅院がある。 いずれも「臨済宗大徳寺派」の寺院である。


    

次回は、麻布方面へ。


江の島神社の豆まき

2013-02-05 | 気まま旅
渋谷禅寺散策は次回に回し、節分に出掛けたので取り上げます。

日本三大弁財天「江の島・江島神社」節分豆まきに参加しようと、さわやかな日曜日の湘南海岸へ。小田急線で藤沢駅下車し、江ノ電で
「江の島駅」に下車した。このブログでも数回取り上げております、
県南東部、藤沢市南部の相模湾岸で、境川河口にある小島、境川の運ぶ土砂により陸繋島である。地名は、島の形が「江」の字によるもの。「真白き富士の嶺 緑の江の島」と歌われ鎌倉と結んで湘南海岸の観光地である。
江島神社は、琵琶湖の竹生島・安芸の宮島と共に日本三弁天の一つで江戸時代から庶民の参詣が盛んであった。
歌川広重「相州江之島弁財開帳参詣群衆之図」で陸繋島へ渡る姿が描かれている。

    

両国の江島杉山神社と江の島の弁財天が深い関係あったとは初めて知った。1693年杉山流鍼術の始祖。

「杉山検校」は、10歳で失明し、17・8歳ごろ江戸に出て鍼術を検校山瀬琢一に学ぶ。
生まれつきのろまで物忘れが激しい性格から、破門を言い渡されるが目の不自由な自分が生きるためには何かを成就大成させねばならぬと、俗説では芸能の神であり盲目の守護神でもある江の島の弁財天の祠に詣で岩屋に篭もり断食祈願をすること8日目の朝、山から下る帰り道に大きな石のそばでつまずいて倒れ、その際体をチクリと刺すものがあり、拾ってみると竹の筒とその中に入った松葉だったという。
これをヒントに考案したのが、管の中に鍼を入れ管の上部に出た鍼の頭を指で叩いて刺入する杉山式管鍼であった。

その後、京都に上って山瀬琢一の師の入江良明を尋ねたがすでに死去しており、その子の入江豊明に入江流を学び鍼術の奥義を極めた。良明の父頼明は豊臣氏の医官岡田道保及び明人呉林達に鍼術を学んで大成した。
 
    

杉山検校の墓も神社入口の右手にある。
  

江の島大橋                                       門前町商店街
    

江島神社は、552年、神宣に基づき欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝える。
神仏習合により当社は金亀山与願寺と称する寺となった。
「吾妻鏡」によれば、1182年、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあり、これをもって創建とすることもある。
歴代の鎌倉幕府将軍・執権や、代々の領主から崇敬を受けた。江戸時代には弁才天信仰が盛んになり、多くの庶民が参詣するようになった。

    

奥津宮旧本宮は、多紀理比賣命を祀る。入母屋造の社殿、1842年に再建。拝殿天井には酒井抱一の「八方睨みの亀」が描かれ、源頼朝が奉納した石鳥居。 中津宮旧上之宮は、市寸島比賣命を祀る、853年創建。権現造の社殿は、1689年に改築された。
辺津宮旧下之宮は、田寸津比賣命を祀る、1206年源実朝が創建。
権現造の社殿は、1675年に再建された。 奉安殿八臂弁財天と妙音弁財天が安置。
境内社 八坂神社は、須佐之男命を祀る、江戸時代は天王社と称した。入母屋造の社殿は、1844年に再建。

瑞心門神門は、龍宮城を模した竜宮造の楼門

    

文化財 は、 木造彩色八臂弁財天坐像(県指定(彫刻)、 肥前国藤原正広作太刀(県指定(工芸品)、 八方睨みの亀(市指定(絵画)
      江島縁起(市指定(書跡)、 青銅鳥居(市指定文化財(建造物)等がある。

本殿前                   本殿                   
    

「弁天堂」(有料)は、奈良県法隆寺夢殿を模して現在の弁天堂(奉安殿)が江島神社辺津宮境内に新設統合され、改めて信仰対象として妙音弁財天像・八臂弁財天像などが安置されている。
所蔵品と展示は、鎌倉時代の裸形の妙音弁財天座像・鎌倉時代初期の木造彩色の八臂弁財天座像(県指定有形文化財)を堂内正面中央に安置し、十五童子立像・江島大明神勅額・弁財天像扁額など。

弁天堂                   堂内
    

本殿横の八坂神社の前広場で「鬼は外福は内・節分豆まき」が行われた。1~7回、その一回目午後一時に開始され約1千人で溢れ返っていた。
舞台には、神主はじめ藤沢市長など10人程度で、神棚に供えた炒った大豆が投げられた。

八坂神社前で豆まき
    

平安時代の延喜式によると、黄金四つ目の仮面をかぶり、矛と盾をもつ「方相氏」が鬼をお出でしたとされている。元は中国の追なの儀式に由来すると云う。
豆の拾い方は、地面に落ちたのを拾い、間違っても飛んで来る豆をキャッチしよとしない事と、司会者がアドバイスを。

人混みの中、手、手。女性のパワーには驚き!!
   

危険なので、神社の配慮で、子供と老人は、本殿前でいただく事が出来た。

    

片瀬地域は藤沢市の南、東は鎌倉市腰越に接し、西は境川を挟んで鵠沼や鵠沼海岸と接する。
境川河口部の両側が片瀬海岸であり、東浜海水浴場と西浜海水浴場がある。

片瀬橋から、小田急片瀬江ノ島駅が至近。帰りは、小田急でそのまま「新宿」へ。

    

渋谷の禅寺散策(白隠展)

2013-02-03 | syu散歩

1月の日曜日渋谷東急本店横の「ザ・ミユージアム」ー禅画に込めたメッセージ・白隠展ーに出掛けた。(12月22日から2月24日まで)
渋谷駅からハチ公前は、若者ので溢れ返っていた。

今から500年前、江戸中期の禅僧「白隠慧鶴」、民衆教化に捧げた、現代の臨済宗中興の高僧で、天皇より「神機独妙禅師」の号を賜った、白隠(はくいん)1685-1768 駿河国(沼津)で生まれるいる。

15歳で臨済宗、松蔭寺に出家し全国行脚、33歳で松蔭寺に戻り住職に、臨済宗を説く、僧には珍しく豪勇で、狼が昼夜出没し村人に害を
与えているにもかまわず、白隠は、独り座禅を組んだ、狼は、白隠の顔を舌で舐められ、頭上を飛び回っても動じずに座禅を続けていたという

「臨済宗」とは、お釈迦様が深い瞑想のもとに悟った「無我の境地」を、坐禅や日常生活を通して体験し、自覚すること、
「こだわらず」「とらわれず」、迷いも欲望も苦悩もない、自然と同化した絶対的境地。
それが本来、人間がもつ清浄な仏心そのものと云う。

日本の禅宗には、三つの宗旨「臨済宗・曹洞宗・黄檗宗」があり、臨済宗はその中のひとつ。臨済宗の教えを「臨済禅」と呼びます。
坐禅を宗旨の中心として、師匠から与えられた問題「公案」について工夫し、坐禅により身体で会得した見解を提示し、点検してもらいます。これをいわゆる禅問答「入室参禅」といい、このような坐禅修行を中心とする教えが臨済宗である。


蓮池観音は、珍しく鮮やかな多色づかい。


農業土木の上野英三郎博士に1924(大正13)年から17カ月間飼われた犬の「ハチ」。亡くなった主人を待ち続けたことで有名になり、1934(昭和9)年にでき(初代)、1948(昭和23)年に再建された犬の(二代)ハチ公の像。渋谷のシンボルとなり、その名を冠したコミュニティーバス「ハチ公バス」も走っているという。

今日は、中国観光客が大勢で記念写真、若いカップルに頼まれシャッターを。
駅前交差点、左から道元坂、文化村通り、センター通り、井の頭通りと扇状に、その文化村通りを5分程行くと左手に。


忠犬ハチ公像                   文化村ビル
    


今回の展示は、白隠の仏教的に留まらず、七福神やお福など庶民信仰にもとずき、又猿、鼠、書道と多岐にわたっている。ユーモアをこめたものや書画と多数展示されていた。
会場は、可なりの人で混雑し、平日のもう一度ゆっくり見たいと思う。

白隠の似顔絵ではと云われている「達磨」



「白隠慧鶴」は、駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)で生まれ、(長野県)飯山の正受老人(道鏡慧端)の厳しい指導を受けて、悟りを完成させたという。また、禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救った。
曹洞宗・黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を復興させ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた。 現在も、臨済宗十四派は全て白隠を中興としているため、彼の著した「坐禅和讃」を坐禅の折に読誦する。
現在、世界の白隠と云われ、墓は原の「松蔭寺」にあって、県指定史跡となり、彼の描いた禅画も多数保存されていると云う。


ユニークな独特な白隠の書画



達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされているが、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。
壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。
これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる坐禅の定義などに継承されている。529年、神光という僧侶が自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めた。
達磨は彼の入門を認め、名を「慧可」と改めた。この「慧可」が禅宗の第二祖であるという。
以後、中国に禅宗が広まったとされる。528年に150歳で遷化したとされ。一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう。厳しい座禅修業で、手足が成長を止めたという伝説も。





「元祖くじら屋」で昼食、65年前を懐かしながら、

うまい鯨と旨い日本酒置いているとの事、鯨を食べたことのある方は鯨の美味しさの再確認と初めて食べる方は鯨の美味しさにきっとびっくりするはず!低カロリー、低脂肪、高タンパクの鯨肉の専門店。 電話 03-3461-9145、道玄坂2、文化村通り。

今日は、日本酒と日替わりランチ「鯨肉てんぷら定食」税込980円を注文した。

昔懐かしいクジラ屋の天ぷら定食
  

渋谷からお隣の恵比寿駅下車、恵比寿は、七福神一人で大黒さんと並んで福神の代表、商売の神様であった。その福神をビールの名前に付けて売り出した、発売早々好評、外人にも人気で帝国ホテルにも置かれたという。
恵比寿ビールの荷物扱いの駅が工場の隣にあり明治39年ビールの商品名を取って「恵比寿駅」となった。
ビールと云えば水、三田用水は、麦芽に最良の軟水であったともいう。現在、サッポロビールの香りする駅から「渋谷川」へ。

渋谷川は、新宿御苑、明治神宮の湧き水等の源水のほか、玉川上水完成(1653年)後、四谷大木戸(現在の四谷四丁目)の水番所から上水の余った水を渋谷川へ流すことで、流量が飛躍的に増えたという。
これにより、水車を掛けることが可能になり、渋谷川には幾つか水車が作られた。
北斎の富嶽三十六景の「穏田の水車」は、原宿穏田村付近(現在の神宮前三丁目)の渋谷川の水車小屋を描いたものであるという。

JR恵比寿駅下車                     ビルの谷間の渋谷川
    




「聖心女子大学」は、渋谷区広尾、大学は、1948年に設置。
開校は1916年。私立聖心女子学院高等専門学校を前身とし、1948年、新学制により聖心女子大学として発足。
日本最初の女子大学の一つ。初代学長はエリザベス・ブリッド。元国連難民高等弁務官の緒方貞子は新制大学の第一期生。

1800年、フランスに設立された女子修道会「聖心会」を母体とし、世界42カ国に170校の姉妹校を持つ。現在の聖心会総本部はイタリア・ローマにある。広尾の大学構内には聖心会日本管区本部のほか、付属研究機関としてキリスト教文化研究所、カトリック女子教育研究所が設置されている。なお、同大学のキャンパスはもとの久邇宮邸であり、香淳皇后(昭和天皇皇后)が幼少を過ごした地、結婚の折にはこの地から宮中に向かった。正門とパレスと呼ばれる伝統的日本家屋は、当時のものがそのまま修復保存されているという。
皇后美智子様(今上天皇皇后)の出身大学でもある。
本大学は、2代続けて皇后様に縁のあるキャンパスということになる。

                                 奥が校舎
  

「広尾」は、樋籠と記され、広大な原野で「広尾原」とも呼ばれた。
文政から天保年間に描かれた『江戸名所図会』では、一面にススキが広がる景色が描かれている。港区と渋谷区に跨る広域地名でもあった。
江戸時代初期までは下渋谷村の一部であったのが、1664年に町屋の起立が許され渋谷広尾町が発足。
後、1713年に江戸町奉行の所管になった際に広尾橋を挟んで麻布側にも麻布広尾町が発足。渋谷広尾町は、恵比寿駅前と渋谷橋周辺、及び広尾駅周辺に点在していた。

「上宮寺」浄土真宗 本願寺派の寺。(渋谷区広尾5)
    

次回は、広尾、麻布方面に。

忠臣蔵を歩く上高田 最終 

2013-02-01 | syu散歩
江戸時代、寺社の占める面積は約366万坪以上。大都市江戸の15%もの広さになる。寺の広さは墓地の広さだった。当時は土葬だったから、100万都市江戸の死者の埋葬にはこれだけの土地が必要だったのである。疫病や大火、地震などによる大量死の場合にのみ火葬が行われた。
人々は焼き場で焼かれるのは、非業の死と受け止めていた、しかし、埋葬のために貴重な土地を拡げ続けることはできなくなり、必然的に火葬の需要が増えてく。

新井薬師の近くに、上高田寺町がある。こちらの寺町も高円寺南寺町、烏山寺町、十一カ寺などと同様と明治末から大正・昭和初めにかけて東京市中から移転してきた寺によって形成された寺町。ここは、早稲田通り沿いの一画。


まずは、「曹洞宗万昌院功運寺」。寺は、もともと別寺院で、「万昌院(牛込)」と「功運寺(芝三田)」の両寺が合併した寺。

                         万昌院の門楼
    

「万昌院」は、今川家の開基で、今川家と吉良家は関係あることから、吉良家の墓がある。

「今川 氏真」は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、江戸時代の文化人、駿河国の戦国大名。駿河今川氏10代当主、父義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、武田信玄と徳川家康の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。
その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受け、今川家は江戸幕府のもとで高家として家名を残している。

鐘楼                   本殿                吉良義央の墓              
    

「吉良家歴代の墓のある・ 曹洞宗万昌院功運寺」区の上高田にある。、大きなお寺で入ってびっくり、他に、作家の林芙美子など有名人の墓もあった。
吉良家の歴代のお墓も立派。
吉良家四代の基・吉良家討死家臣慰l塔 十四代義定・十五代義弥・十六代義冬・十七代義央

「萬昌院」は、山号 久寶山1574年の創建と伝えられる。開基は今川長得、開山は仏照円鑑禅師(喚英長応)、長得は戦国大名今川義元の三男であり、長得の兄今川氏真もはじめは萬昌院に葬られた。
今川家と先祖を同じくする一族であり、江戸時代初期には極めて近い姻戚関係にあった吉良家の菩提寺に。
江戸城半蔵門近くにあったが、その後市谷田町、筑土八幡町と幾度かの移転を繰り返し、1914年に現在地に。
1917年に火災により本堂・書院などが焼失。

「功運寺」は、山号 竜谷山 1598年、創建。開基は永井尚政、開山は黙室芳禅師。永井尚政は将軍徳川秀忠のもとで老中を務めた人物で、功運寺は永井家の菩提寺となっている。
創建当初は江戸城桜田門外にあったが、三田(芝三田功運町)に移り、1922年に当地に移転。
戦後の1948年に萬昌院と功運寺が合併し現在に至っている。本尊は、釈迦如来坐像。

吉良家の墓
  

「林芙美子」 1903-51 山口県生まれ、幼い時から各地を放浪、働きながら尾道高等女学校卒業、後も逆境と貧因の中童話、詩を書く、
明治26年画家修業中の手塚緑敏と結婚、代表作牡蠣、泣き虫小僧、晩菊、浮雲、放浪記、従軍作家で活躍、めしが絶筆。

「歌川豊国」 1769-1825 江戸 浮世絵師 歌川豊春門下 18歳で美人画発表、20歳で役者絵、絵草子屋「和泉屋」で売れた
豊国は、和泉屋の恩義を忘れなかったという。同門の豊広と派閥抗争を。

「水野重左ヱ門」(水野十郎左衛門)は、生年不詳ながら実在の人物。 「旗本奴」の首領として悪名を馳せた人物。
「旗本奴」と並ぶもう一方のヤクザ集団である「町奴」の親分「幡随院長兵衛」を裏三番町の自宅の風呂場で謀殺したことで有名。
生涯その不法な行動は止むことはなく、1664年、遂に切腹させられたという。

1664年行状不行跡により幕府評定所に召喚された水野十郎左衛門は、わざと袴も着けず、ふり乱した髪には泥を塗りつけ、乞食同然の身なりだったという。
これに激怒した時の幕府老中・土屋但馬守の命により、水野は即日切腹、水野家は家名断絶となったとのこと。

林芙美子の墓などがある
    

「宝仙寺」は 平安後期の1087~94年、「源義家」によって創建。
義家は、奥州後三年の役を平定して凱旋帰京の途中にあり陣中に護持していた「不動明王像を安置」するための一寺を建立したという。
その地は 父頼義がかつて祭祀した八幡社のある阿佐ヶ谷の地でこの造寺竣成の時、地主稲荷の神が出現して義家に一顆の珠を与え、
「この珠は希世之珍 宝中之仙である是を以って鎭となさば 則ち武運長久 法燈永く明かならん」と言い、おわるや白狐となって去り、これにより山号を 明王山、寺号を 宝仙寺と号したと伝えられる。

鎌倉時代には相模国大山寺の高僧願行上人が訪ねられ、本尊の不動明王像をご覧になり、その霊貌の凡常でないことに驚かれ、あやまって尊像を穢してはいけないと厨子の奥深くに秘蔵せられたともいう。

その後、室町時代には当寺中興第一世聖永が現在の地に寺基を遷し、江戸初期の1636年には三重塔が建立され、江戸庶民にも親しまれ歴代将軍の尊崇もあつく御鷹狩りの休憩所と成る。大伽藍は昭和20年の戦禍により焼失。

万昌院の隣に宝仙寺が
    

「真宗大谷派寺院・高徳寺」は、山号 新居山法喜院。
寺は、近江佐々木氏一族出身の了智法印(1228年歿)が信州栗原に建立した正行寺を源としている。
その後、正行寺を上野国新田郡新井村(群馬県太田市)へ移転、荒居山法喜院高徳寺したという。
1570-1573年に戦乱を避けて十二世了応法師が、千葉県下総の国相馬郡小目村へ高徳寺を移転、十四世宗信法師が高徳寺を中興したものの、
戦乱に遭い寺院を焼失、江戸下谷御小人町へ移転、その後十七世了也権律師の代に八丁堀への移転を経て、浅草報恩寺境内へ移転した。
上野国新田郡新井村(群馬県太田市)の土豪出身と伝えられる新井白石は、十代・三十代の2度に亘り高徳寺に寄食していたという。
「新井白石」の墓所となっている。

「新井白石」1657-1725 儒学者 30歳で木下順庵の門下、後、徳川綱豊(後の徳川家宣将軍)儒臣、正徳の治・文治政治を推進する。
読史余論、折たく柴の記などの著作を残している。師の恩、木下門下を離れなかったと云う。
 

早稲田通りに面し寺が続く
    

「臨済宗妙心寺派・ 松源寺」は、麹町四番町に創建されたが、年代は不詳。1613年に牛込神楽坂に移り、1909年に移転している。
通称"さる寺"と呼ばれ、さる寺縁起として「江戸名所図会」に記されている。入口に猿の石像が目に付いた。


  


「曹洞宗 天壽山 宗清禅寺」は、 通称 なが寺又たつ寺とも言われている。

曹洞宗は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、 日本においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つである。本山 は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であること。


      


「曹洞宗 保善寺(通称 獅子寺)」山号 盛山。本尊は釋迦牟尼沸をまつる。
開山は勅得賜円明宝鑑禅師蟠翁門龍大和尚で武田信玄の従弟にあたる。1593年の創建、
3代将軍徳川家光公牛込酒井邸にあそびし折り、立寄られ獅子に似た犬を賜う、以後獅子寺と称すとある。
1906年牛込通寺町より中野に移る。 本堂正面に月舟禅師筆「獅子窟」の額がある。

    

忠臣蔵を歩くをここで終わります。