日本橋人形町、江戸時代初期から芝居小屋が立地し、人形芝居の為の人形を作る家が多かったと云う。
また、水天宮の参拝者が人形をお土産物として買い求め、人形を売る店もふえて、地名もそこからきている。
水天宮が、1872年芝から隣接の蛎殻町に移り、その門前町としても発展し都内で早くからアーケード化され、商店街も整備されている。
江戸の初期、町中には、武士を対象とした娼家が現れはじめ、風紀の乱れを恐れた幕府は、1612年 、葺屋 町東の葭 の生い茂っていた
二町四方 ( 約1万5千坪 ) の沼地を埋め、塀で仕切り廓をつくり、町中に点在していた娼家を移しました。
生まれたのが幕府公認の「遊郭・吉原」です。
はじめは「葭原」でしたが、後にめでたい文字をあて「吉原」と表すようになります。
芝居見物と並び、遊郭での遊びも江戸の華。
武士に限らず羽振りの良い商人や職人、町人たちにもてはやされ繁盛を極めていたと云う。
1639年 の「武州豊島郡江戸庄図」に、塀で囲まれた吉原が記され、 1657年の大火(振袖火事)で廓のほとんどが焼失。
この地での営業は 40 年足らずで、浅草に移ってします。
現在の「大門通り」 の名称は、吉原の大門に通じる街路の名残。
三ノ輪ー水天宮間都電の人形町交差点駅があった付近
「勧進帳の弁慶像」
歌舞伎発祥の地を記念して建てられた。歌舞伎・勧進帳は、武蔵坊弁慶の勧進帳読上げで有名な能の演目・安宅を 基にした
歌舞伎十八番。
江戸時代、歌舞伎は、庶民の風紀を乱すと江戸幕府の許可が必要とされ、江戸幕府から興行特権が与えられ「櫓をあげる」ことが許された芝居小屋が 江戸三座と称される中村座・市村座・森田座の三大歌舞伎劇場。人形町界隈には、中村座と市村座の芝居小屋があり、 江戸三座は、
昭和7年に市村座が廃座になるまで、 300年の伝統を誇る。
弁慶は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。 五条の大橋で義経と 出会って以来、彼に最後まで仕えた。
「生島 新五郎」1671年 -1743年は、江戸時代中期の歌舞伎役者。
江戸城大奥の御年寄であった絵島と共に、江島生島事件の中心人物である。
大坂生まれ。1684年に野田蔵之丞の名で木挽町の芝居小屋・山村座の舞台に立つ。1691年、生島新五郎と改名。当時を代表する人気役者。
1714年、大奥御年寄の絵島が寺へ参詣した帰途、新五郎の舞台を観覧し、その後宴会を開いた事で大奥の門限に遅れ、大きな問題となった。
このことから絵島との密会が疑われ、捕縛の上、石抱の拷問にかけられ、「自白」。
評定所が審理した結果、新五郎に三宅島へ遠島(流罪)の裁決が下る。また山村座の座元も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。
1742年、徳川吉宗により赦免され江戸に戻ったが、翌年小網町にて73歳で没。
1733年に三宅島で死去したという説もある、墓所は三宅島にある。
この事件を題材にした川柳に「やつさずに濡れ事をする新五郎」がある、「やつす」とは「化粧をする」という意味。
子供の頃、家族で入谷から都電で、お風呂屋に、
「水天宮」は、区日本橋蛎殻町のお宮、
安産・子授け・七五三・初宮・芸能祈願・ 水難除けなどのご利益で知られてる。
日本橋水天宮は、福岡県・久留米市にある久留米水天宮の分社で、祭神は久留米水天宮と同じ天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮
(建礼門院、平徳子)・二位の尼(平時子)である。
水天宮は2016年まで改装工事中!仮宮は明治座前に設置、水天宮の「子宝いぬ」は、地元ホテル。仮宮とホテルの2ヶ所を巡る。
「玄冶店」の地名は、徳川家の御典医であった岡本玄冶(1587~1645年)に由来します。
玄冶は3代将軍家光が痘瘡を病んだ折りに見事にこれを全快させ、一躍その名を高めたといわれています。
玄冶は、幕府から拝領した土地に借家を建て、庶民に貸したことから一帯が「玄冶店」と呼ばれるようになりました。
現在でも日本橋人形町の一角には玄冶店跡を示す碑が建てられ、将軍家より玄冶に下賜されたと伝えられる橘稲荷神社が残っています
玄冶店は歌舞伎の舞台としても有名。
歌舞伎で「お富さん」「切られ与三」といえば、お富と与三郎の情話を描いた世話物の名作「与話情浮名横櫛」。
<与三郎>
エエご新造さんえ、おかみさんえ、お富さんえ、ヤサ、コレお富、久しぶりだなア。しがねえ恋の情が仇、命の綱、、、、、。
松嶋神社は、大鳥神社で、江戸時代には周囲が歓楽街。人形細工職人、 呉服商人、歌舞伎役者、葭町の芸妓どころや庶民の参拝で大いに賑い
神社は、日本橋七福神のひとつ、大国神が奉られている。
「濱田家」の名は、花街として知られた芳町の芸者置屋「濱田家」に始まります。
「濱田家」の芸者貞奴は、日舞に秀で、彩色兼備の誉れが高く、時の総理伊藤博文など名だたる元勲からも贔屓にされた名実ともに日本一の芸者であったという。
のちに彼女は日本初の女優、川上貞奴として知られる。
置屋としての「濱田家」は、明治の末に店を閉めます。
蛎殻町交差点傍に鎮座する「銀杏八幡宮と銀杏稲荷神社」。
旧福井藩常盤橋松平氏の屋敷神として祀られ、松平氏は無論のこと家臣らの崇敬もきわめて篤く、武運長久・家運繁栄を祈願された。
明治維新、松平家の領地に居住する蛎殻町民の熱心な信仰から、いつとなくこの地の鎮守産土神となったと云う。
次回は、八丁堀方面へ、