syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

築地市場 

2014-04-22 | syu散歩

「築地」中央区南部、隅田川河口で「明暦の大火」1657年、後海岸を埋め立て築造された区域。大火の翌年に焼失した「本願寺」が
佃島の漁民によって浜町から移されている。
岡山藩・広島藩・名古屋藩・桑名藩などの別邸・浜御殿(現浜離宮園)と武家地である。
1867年隣接する「明石町」には、1899年築地居留地が開設され、外国人専用の洋風建築地、ホテル館が建てられている。
幕末期から軍艦操練所・海軍兵学校(後の海軍大学校)など軍事施設が立地、1923年の関東大震災を契機に魚市場が移されている。
今の「東京中央卸市場」である。

浄土真宗・本願寺派、「築地本願寺」
本尊ー阿弥陀如来、創建 元和3年(1617年)、開基  准如、本堂・石塀(登録有形文化財)

隅田川に架かる橋が「勝鬨橋」                1658年本願寺移転
    

築地市場は、面積約23ha。
7の卸売業者と約1000(うち水産約820)の仲卸業者によってせりが行われる。2005年の取扱数量は、全品目合計で約916,866トン(一日当たり水産物2,167トン、青果1,170トン)、金額にして約5657億円(一日当たり水産物1,768百万円、青果320百万円)になる。

現在築地市場で取り扱う品目は水産物(取扱量日本最大)のほか、青果(野菜・果物、東京では大田市場に次ぐ第二位)・鳥卵(鶏肉および鶏卵)・漬物・各種加工品(豆腐・もやし・冷凍食品等)がある。

                市場外市場(一般客の店が)最近人気が
    

「波除神社」は、築地6丁目市場内

主祭神ー倉稲魂命、社格等ー村社、創建ー万治2年(1659年)、例祭ー6月10日前後数日
主な神事ー厄除天井大獅子大祭、築地獅子祭り、大祓形代・海上形代流し、風日祈祭、新嘗祭どぶろく祭他

文化財区指定は、 獅子頭一対 - 嘉永元年(1848年)・ 鉄製天水鉢 - 天保9年(1838年)
 


明暦の大火後、築地の埋め立て工事が行われたが、荒波の影響で工事は難航した。その最中のある晩、光を放ち漂う御神体が見つかり、万治2年(1659年)、現在地に社殿を建て祀った。
波が収まり工事が順調に進んだことから、以降厄除けの神様として信仰を集めることとなった。

             卸市場の入り口に鎮座
  

中央区は終了。

八丁堀 茅場町

2014-04-20 | syu散歩

「茅場町」の地名は、神田付近で「茅」を売っていた人々が,この地に転入したことに由来する。明暦の大火(1657年)には、本所
方面に転出したと云う。現在日本橋茅場町は、日本橋兜町に接し、「東京証券取引所」とは、近いことから証券会社・銀行が集中している。

「新川」は、隅田川・日本橋川・亀島川に囲まれ、霊岸島とそれに続く地域、江戸初期に開削された運河の名称であり、倉庫業,酒類卸、回漕業の拠点。

新川を挟んで両河岸は、伏見、灘方面の「下り酒」を扱う酒問屋街として賑わった所。
埋め立ても盛んで、今、あるのか判らぬが四谷怪談の於岩稲荷があった。

「ハ丁堀」は、江戸時代堀割に囲まれ、堀が長さハ丁(約870m)あった所から名づけられた。武家屋敷地でその為、元禄年間(1688~
1704年)は、町奉行組与力同人の組屋敷の支給地ー片与力町があり、与力同人は、八丁堀御役人衆と呼んでいる。

「茅場橋」は、 日本橋茅場町 と 日本橋小網町 の間で、新大橋通り が 日本橋川 を渡る橋、創架は昭和 4年、震災復興事業による。
    

「堀部安兵衛」 1670-1703 二度の仇討ちをなしとげた。赤穂義士の一人、越後新発田藩士の子、堀部氏養子、吉良邸討ち入り加わる。
「喧嘩安兵衛」「飲ん兵衛安」と称られた。最後まで中山氏再興を願っていたと云う。

「紀伊国屋文左衛門」1669-1734(寛文9-享保19) 生没年不詳ともいわれている。
江戸前期の豪商。通称は紀文。紀伊国の生まれといわれ、故郷で産するミカンを江戸の運び、帰りの船で江戸から塩鮭を上方に運送して財をなしたと伝えられる。
1684-88に、江戸の京橋本八丁堀三丁目に材木問屋を開業。1697年)ごろには御用達商人として上野寛永寺根本中堂の用材調達を請け負った。
事業は巨利を生み、日常生活でも金銭をおしまず、吉原で豪遊したため紀文大尽と呼ばれ、それも資金の宣伝効果となって商売上の信用を高め、、1700年幕府御用達の特権を奪われ、火災で材木を焼失するなどから、1711-16年、材木商を廃業。その後深川に閑居。1734年、66歳で没したといわれている。元禄町人を代表する豪快な生きざまが、人情本や歌舞伎の題材に多く取り上げられた。

「亀島川」霊岸橋付近で日本橋川から分流し南へ流れ、亀島橋を過ぎたあたりで南東に、区の中央大橋下流で隅田川に合流する。
    

「松尾芭蕉」1644-94(正保1年―元禄7年) 俳諧師 伊賀国上野23歳で俳諧師の道に、「奥の細道」元禄2年。

「芭蕉の句碑」句碑は、八重洲通りを新川に向かい、亀島川に架かる亀島橋の西詰めに建てられている。
                          八丁堀を詠む ー菊の花 咲くや石屋の石間ー  (元禄6年芭蕉50歳)

桃青は、(現在の文京区)に住み、そこは関口芭蕉庵として芭蕉堂や瓢箪池が整備されている。1678年に、

桃青は宗匠となって文机を持ち、職業的な俳諧師となった。
    

「伊能忠敬」 1745-1818 日本地図を作った商家の隠居。測量家
50歳で隠居天文学高橋至時の門下となる。そこで測量術を学んだ。56歳で蝦夷地測量、17年間旅を続け「大日本沿岸興地全図」を編纂
1歩65cmの歩測。

50歳の時、千葉から江戸にでて、当宮近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)に隠宅を構えていました。
約200年前の寛政12年閏4月19日(陽暦では1800年6月11日)の早朝に当宮に参拝して蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけた。
遠国に出かけた第8回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣し、無事を祈念したのち、千住、品川宿など測量開始地点に向かって歩き出しましたと云う。

完成した地図は、極めて精度の高いもので、ヨーロッパにおいて高く評価され、明治以降国内の基本図の一翼を担う。
  

「入舟町」は、町域西側に入船川があったことによるものであるが、現在は、埋め立てられ川は無い。芥川龍之介誕生の地

「芥川龍之介」1892-1927 大正期の作家、 帝国大学英文科「羅生門」「地獄変」歴史小説や短編小説など、一語一句大事にした。

                埋め込まれた入船川、何か寂しい
  

「中央区入船・桜川」は、現在の首都高・京橋出入口付近から鍛冶橋通りを東へ進み、亀島川に至るまでの区間に存在した水路。
古く八丁堀と呼ばれ、現在でも付近の地名としてこの名が定着しているが、桜川の別名も用いられた。

京橋川・楓川より亀島川を連絡する運河として1612年に開削されたといわれる。
近年に至るまで水路として利用されていたが、1960年(昭和35年)から段階的に埋立が始まり、1969年(昭和44年)に水路としての桜川は完全に姿を消した。埋立地の一部が公園に。

             ビルの谷間の「桜川公園」昔は、桜の木があったのであろう。
     

次回は、築地へ。 

人形町  水天宮

2014-04-19 | syu散歩

日本橋人形町、江戸時代初期から芝居小屋が立地し、人形芝居の為の人形を作る家が多かったと云う。
また、水天宮の参拝者が人形をお土産物として買い求め、人形を売る店もふえて、地名もそこからきている。
水天宮が、1872年芝から隣接の蛎殻町に移り、その門前町としても発展し都内で早くからアーケード化され、商店街も整備されている。
江戸の初期、町中には、武士を対象とした娼家が現れはじめ、風紀の乱れを恐れた幕府は、1612年 、葺屋 町東の葭 の生い茂っていた
二町四方 ( 約1万5千坪 ) の沼地を埋め、塀で仕切り廓をつくり、町中に点在していた娼家を移しました。
生まれたのが幕府公認の「遊郭・吉原」です。
はじめは「葭原」でしたが、後にめでたい文字をあて「吉原」と表すようになります。
芝居見物と並び、遊郭での遊びも江戸の華。
武士に限らず羽振りの良い商人や職人、町人たちにもてはやされ繁盛を極めていたと云う。
1639年 の「武州豊島郡江戸庄図」に、塀で囲まれた吉原が記され、 1657年の大火(振袖火事)で廓のほとんどが焼失。
この地での営業は 40 年足らずで、浅草に移ってします。
現在の「大門通り」 の名称は、吉原の大門に通じる街路の名残。

              三ノ輪ー水天宮間都電の人形町交差点駅があった付近
    

「勧進帳の弁慶像」

歌舞伎発祥の地を記念して建てられた。歌舞伎・勧進帳は、武蔵坊弁慶の勧進帳読上げで有名な能の演目・安宅を 基にした
歌舞伎十八番。
江戸時代、歌舞伎は、庶民の風紀を乱すと江戸幕府の許可が必要とされ、江戸幕府から興行特権が与えられ「櫓をあげる」ことが許された芝居小屋が 江戸三座と称される中村座・市村座・森田座の三大歌舞伎劇場。人形町界隈には、中村座と市村座の芝居小屋があり、 江戸三座は、
昭和7年に市村座が廃座になるまで、 300年の伝統を誇る。
 
          弁慶は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。 五条の大橋で義経と 出会って以来、彼に最後まで仕えた。
    

「生島 新五郎」1671年 -1743年は、江戸時代中期の歌舞伎役者。
江戸城大奥の御年寄であった絵島と共に、江島生島事件の中心人物である。
大坂生まれ。1684年に野田蔵之丞の名で木挽町の芝居小屋・山村座の舞台に立つ。1691年、生島新五郎と改名。当時を代表する人気役者。
1714年、大奥御年寄の絵島が寺へ参詣した帰途、新五郎の舞台を観覧し、その後宴会を開いた事で大奥の門限に遅れ、大きな問題となった。
このことから絵島との密会が疑われ、捕縛の上、石抱の拷問にかけられ、「自白」。
評定所が審理した結果、新五郎に三宅島へ遠島(流罪)の裁決が下る。また山村座の座元も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。
1742年、徳川吉宗により赦免され江戸に戻ったが、翌年小網町にて73歳で没。
1733年に三宅島で死去したという説もある、墓所は三宅島にある。

この事件を題材にした川柳に「やつさずに濡れ事をする新五郎」がある、「やつす」とは「化粧をする」という意味。

            子供の頃、家族で入谷から都電で、お風呂屋に、
    

「水天宮」は、区日本橋蛎殻町のお宮、
安産・子授け・七五三・初宮・芸能祈願・ 水難除けなどのご利益で知られてる。

日本橋水天宮は、福岡県・久留米市にある久留米水天宮の分社で、祭神は久留米水天宮と同じ天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮
(建礼門院、平徳子)・二位の尼(平時子)である。

水天宮は2016年まで改装工事中!仮宮は明治座前に設置、水天宮の「子宝いぬ」は、地元ホテル。仮宮とホテルの2ヶ所を巡る。 
  

「玄冶店」の地名は、徳川家の御典医であった岡本玄冶(1587~1645年)に由来します。
玄冶は3代将軍家光が痘瘡を病んだ折りに見事にこれを全快させ、一躍その名を高めたといわれています。

玄冶は、幕府から拝領した土地に借家を建て、庶民に貸したことから一帯が「玄冶店」と呼ばれるようになりました。
現在でも日本橋人形町の一角には玄冶店跡を示す碑が建てられ、将軍家より玄冶に下賜されたと伝えられる橘稲荷神社が残っています
玄冶店は歌舞伎の舞台としても有名。
歌舞伎で「お富さん」「切られ与三」といえば、お富と与三郎の情話を描いた世話物の名作「与話情浮名横櫛」。

<与三郎>
エエご新造さんえ、おかみさんえ、お富さんえ、ヤサ、コレお富、久しぶりだなア。しがねえ恋の情が仇、命の綱、、、、、。

松嶋神社は、大鳥神社で、江戸時代には周囲が歓楽街。人形細工職人、 呉服商人、歌舞伎役者、葭町の芸妓どころや庶民の参拝で大いに賑い
神社は、日本橋七福神のひとつ、大国神が奉られている。
    

「濱田家」の名は、花街として知られた芳町の芸者置屋「濱田家」に始まります。
「濱田家」の芸者貞奴は、日舞に秀で、彩色兼備の誉れが高く、時の総理伊藤博文など名だたる元勲からも贔屓にされた名実ともに日本一の芸者であったという。
のちに彼女は日本初の女優、川上貞奴として知られる。
置屋としての「濱田家」は、明治の末に店を閉めます。

蛎殻町交差点傍に鎮座する「銀杏八幡宮と銀杏稲荷神社」。
旧福井藩常盤橋松平氏の屋敷神として祀られ、松平氏は無論のこと家臣らの崇敬もきわめて篤く、武運長久・家運繁栄を祈願された。
明治維新、松平家の領地に居住する蛎殻町民の熱心な信仰から、いつとなくこの地の鎮守産土神となったと云う。
    

次回は、八丁堀方面へ、

絶景 富士吉田 新倉山の桜

2014-04-18 | 富士山麓日記
新倉山の中腹にある、公園は富士山を正面に構え、市内を一望できる眺望豊かな公園です。
桜の植栽された園は春には花見客で賑わい、ハイキングコースとしても利用されています。
また園内の忠霊塔は富士吉田市民のシンボル的な存在です。昭和34年設立。

富士急行線下吉田駅から10分 駅北側。

新倉山浅間神社

鳥居からの富士山は絶景です。

桜の見ごろと今日は(4/15)幼稚園児の遠足など、花見客で駐車場はいっぱいでした。

















山小屋オープン 大雪の跡 富士山麓

2014-04-16 | 富士山麓日記
今年はあまりの大雪に、なかなか雪が解けず、ようやく山小屋オープンです。

今日の富士山は真っ白に雪を被って美しい。(4/15)

山小屋はまだ冬です。


大雪の直後の状況です。100年ぶりくらいとのことでした。倒れた樹木。

物干しの竿が折れて使い物にならなくなりました。


雪の解けた今です。