syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

小伝馬町と吉田松陰

2014-04-14 | syu散歩
久し振りにsyu散歩で懐かしい都内を歩きました。

東京中央区、都東、隅田川河口部沖積地で、京橋・日本橋が合併して出来た。名の通り東京23区の中央で千代田区・港区と共に都心部を
形成している。
代表的な物として、築地本願寺・市場、水天宮(蛎蠣町)、、住吉神社(月島)、宝田恵比寿神社(新日本橋)、歌舞伎町(東銀座)、
聖路加病院(築地)、日本銀行(日本橋)、浜離宮(新橋)、、、などがある。
今日の散歩、小伝馬町ー人形町ー水天宮ーハ丁堀ー築地の約6kmのコースである。

「小伝馬町」は、区の北部、日本橋小伝馬町の町名、伝馬役を命じられた地で、牢屋敷と刑場が置かれ、特に「安政の大獄」の中心地、
橋本左内・吉田松陰などここに投獄された。
牢獄屋敷跡、日比谷線出口の十恩公園付近と云われている。繊維問屋街になっている。
子供の頃、10月になると、親に連れられ「恵比寿講・べったら市」も小伝馬町である。私の父は、ここ十恩小学校を卒業。
日光街道の三ノ輪ー入谷(宿場)ー秋葉原ー小伝馬町ー人形町ー水天宮と、江戸時代、旅人の重要な道路で、早くから、馬車から、都電に
切り替わっている。

「橋本左内」 1834-1859 大嶽に散った秀才 福井藩士、緒方洪庵から蘭学を学び、藩主松平春嶽に重用、将軍慶喜に尽力し
大老井伊直弼と対立、断罪。医者の子の左内は、子供の時、友達が怪我、その治療に傷を一度やけどをさせて治療を、、。
遺体は、三ノ輪小塚原回向院。

十思公園・牢屋敷刑場跡   十思小学校跡現在は区の施設・診療所に   小伝馬町から見た東京ツリー
    

江戸期には、時鐘を聞いて天気予報をする人物まで現れた。1日の天気の移ろいや、ここ数日の天候をよく当てたと云う。
鐘の音の拡がり方や響き方、鐘自体に付着した水蒸気による微妙な音色の違いを聞き分けていたのだろう。
 
時鐘は、明治に入ってもそのまま使われつづけた。政府のドン(午砲)とともに、時鐘も各町でつかれていた。
1872年から、それまでの一昼夜12刻制から、一昼夜24時間制へ、しかも4人交代が3人交代となってしまったので、鐘つき番はやたら忙しくなってしまったとある。
その時報は当時の時計よりも正確だった。時鐘の音は大正期まで、地域によっては昭和初期まで、東京の街中に響きつづけていたと云う。


十思公園内           「時鐘」跡 小さい公園         吉田松陰らは、ここで
    
「吉田松陰」1830-1859 松下村塾・憂国の志士 長州藩士思想家教育者。萩東松本村生まれ、吉田家を継ぐ、アメリカ密航失敗、投獄
謹慎中松下村塾開き、多くの志士を育てた。高杉晋作に大業を成す見込みがあらば、無駄死にするな、、、。」安政の大嶽で刑死。

牢屋敷内に役宅があった。牢屋敷の広さは敷地2618坪(うち帯刀居宅480坪)で、周囲に濠を巡らし、表門を南に向けていた。
表門から入って宣告場、張番所があり、獄舎は御目見え以上の罪人を入れる揚屋敷(二間半×三間)、士分・僧侶を入れる揚屋(三間四方)、百姓町人以下の大牢(五間×三間)、同婦人の女牢(部屋ともいい、四間×三間)の四ヶ所に分かれており、他に拷問場・処刑場・検死場、病囚のための薬煎所、役人長屋があった。役人は同心78名、獄丁46名(牢獄秘録)。

1841年頃、成立の「朝日逆島記」によれば、役人は「牢獄秘録」の記事よりも減って石出帯刀の下に20俵2人扶持の牢屋同心56名、牢屋下男36名。獄舎は拡張されている。

牢屋敷には日々南北の町奉行所から見回衆が一名ずつ、御下役衆として三名ずつが巡回、南北両町奉行本人も非番の折に月に一度ずつ見回り、御目付衆も年に四、五回は見回りにきたという。

                     公園内に石碑等が隣が、十思小学区跡 
    

「十思公園と十思小学校」父の思いである公園と小学校。
「十思」と言う名前は隣接する廃校になった小学校の名前。
今は「十思スクゥエア」という区の施設になっている。
この小学校は明治11年創立。そのときの住所が「第一大区第一中学区第十四小区」と中国の司馬光の著書「十思之流疏」と掛け合わせた
という。
その十思小学校は関東大震災後の復興小学校のひとつで、そのこじゃれた歴史ある建物を保存しようと区の施設として存続。
入り口までなんか風情がある。父は、関東大震災を小伝馬町で経験した。

              戦前父に連れられ来た公園
  

幕府要人の旅や物資などの運送を取り仕切る“伝馬役”の町、「日本橋大伝馬町・小伝馬町」。
“伝馬役”の居住区は、江戸城内にあったが、1606年に、この地に移転した。
現在も町名としてその名を残す「日本橋大伝馬町・小伝馬町」は、400年以上もの歴史を持つ江戸最古の町の一つである。

江戸時代のころより、この周辺で暮らす町人たちが「商売繁盛・家族繁栄・火除」祈願に訪れたのが、日本橋本町にある「宝田恵比寿神社」。

公園前、新高野山・大安楽寺。真言宗の寺、


「宝田恵比寿神社」は、本町鎮座。祭神ー須佐之男神命、宇迦之御魂神、大穴持命、商売の神信仰を集めている。

毎年決まって10月19,20日に開催する「べったら市」。
江戸中期に始まった歴史のある「べったら市」は、今でも500もの露店で賑わいを見せる。
中でもひときわ目立つのは、べったら漬を売る露店から「べったら〜べったら〜」と威勢の良いかけ声が、 

「べったら市」は、江戸中期の中ごろから、宝田恵比寿神社の門前で「20日」の恵比寿講(商家で恵比須をまつり、親類・知人を招いて祝う行事)にお供えするため、前日の19日に市が立ち魚や野菜、神棚などが売られるようになったのがその起源と云う。
浅漬け大根のべったら漬けがよく売れたことから「べったら市」と呼ばれ、若者が「べったりつくぞぉ~、べったりつくぞぉ~」と叫びながら縄に縛った大根を振り回して参詣客の着物の袖につけてからかったそう。
アメと麹で大根を漬け込んでいるため、衣服にべったりとついてしまうことからべったら漬けという名になったと言われている。
第十五代将軍徳川慶喜公もべったら漬けを好んで食べたと言われていることからも、江戸時代から続く伝統ある漬物であるといえる。

子供頃を想い出した。
                べったら市の縁日は、行われてるかは知らない
    

「椙森神社」は、祭神ー伍社稲荷大神・恵比壽大神。

社は、一千年の昔、田原藤太秀郷、将門の乱を鎮定の為、戦勝を祈願するを始めとするとある。
文正元年、太田道灌、雨乞祈願に霊験あり、伍社稲荷大祭を遷し祭祀。
江戸時代には江戸三森の一つに数えられ恵比壽大神を祭り祭祀。

                       椙森神社
    

次回は人形町へ。

友が春日部たすく賞 水彩連盟展

2014-04-13 | 諸々日記
六本木の新美術館、桜も散って爽やかな一日。




春日部賞を頂いた120号の絵、題名は「コミュニケーション」
50年来の友人、伊藤氏は商社勤務の会社員生活を終わり、趣味の絵画の世界に・・。そして15年、ついに春日部賞を授賞。
今は教室も、生徒も増え充実の毎日。

鳩が程よい位置に飛ぶ。


         伊藤氏と絵画
         

 

菜の花と桜 小湊鉄道とムーミン列車

2014-04-11 | 気まま旅
桜満開、菜の花満開の房総「小湊鉄道」「いすみ鉄道」。
房総一回りの旅に出掛けました。


五井から小湊鉄道、一時間に1本しか走っていない電車です。車窓から満開の桜吹雪のなか電車は進みます。




八重の水仙可憐です。


食事処から見える芍薬。


今日はタケノコご飯、ここ養老渓谷のタケノコは軟らかくて美味しい旬の味です。


「粟又の滝」いつもはもっともっと水量が多く壮観なのですが、今日は水が少ないようです。


上総中野駅から夷隅鉄道で大原まで。


菜の花と桜






上総中野駅ホームからの線路、霞がかかった眠くなる景色です。




ここからムーミン列車。




窓ガラスに描かれたムーミンたち。
  

  

竈山神社から紀の川

2014-04-09 | 気まま旅

「古事記」神武東征神話、
初め日向の国<宮崎県>の高千穂宮にいた神倭伊波礼毘古命(神武天皇)は、
兄の五瀬命と相談して、「どの地を都とすれば安らかに天下を治められようか、塩土老翁のいうには、東の方に青山に囲まれた美しい国があり、そこには饒速日「櫛玉饒速日命」であろうか、天磐船に乗って飛び降ってきたものがあるという。
やはり東方を目指そうと日向を出発。
途中、宇佐<大分県>、筑紫<福岡県>、安芸<広島県>、吉備<岡山県>を経て瀬戸内海を東に進んで浪早の渡り<大阪府>に至り、
河内国<大阪府>で登美能那賀須泥毘古の抵抗に遭い、五瀬命が彼の矢を受けて、出血甚だしく、
紀伊国<和歌山県>へと迂回することになりました。
そのとき、男之水門<現・和歌山市小野町の水門吹上神社・大阪府の泉南市という説もある>に上陸し、ここで五瀬命が雄たけびをして崩御され、「竈山」の地<現・和歌山市和田の竈山神社>に葬り申し上げました。

「日本書紀」は、崩御を「崩(さ)りましき」、また「陵(みはか)はすなはち紀伊国の竈山に在り」と記しています。
これは天皇にしか使われない表現。
墓が「陵」という文字をあてて書かれているのも、やはり天皇に対して使われる文字だといわれます。
「延喜式」の諸陵式の部にも、五瀬命の竈山の墓が記載され、さらに「日本書紀」の神代の終わりに五瀬命は「彦五瀬命」とあります。「彦」とは立派な男子という意味であり、おそらく、元来は「日子(ひこ)」であっただろうということです。

彼は戦いの最中に「吾(われ)は日の御子(みこ)<下記注2>として日に向かひて戦ふこと良(ふさ)はずかれ賤しき奴が痛手を負ひつ
今よりは行き廻りて日を背に負ひて撃たむ」「私は日神の御子なのに、太陽に向かって戦ったために痛手を受けてしまった。これからは迂回して、太陽を背中にして戦おう】といいます。

こうして五瀬命を失った皇軍は名草邑<現・和歌山市の名草山周辺>に到着します。
そして、この地で「名草戸畔(ナグサトベ)」という女首長を討伐しました。名草戸畔とは、和歌山市冬野の名草神社などに祀られている「名草姫命」であるといわれ、このことからこの地が名草邑であるとされています(「紀伊続風土記」)。

                      神武天皇・竈山陵
     

「竈山神社」
1585年、羽柴秀吉の紀州根来衆攻めにより社宝・古文書を焼失し、社領も奪われて荒廃した。
1600年、紀伊国に入国した浅野幸長が小祠を再建し、1669年、徳川頼宣が社殿が再建した。
しかし、江戸時代を通して寺社奉行の支配下に置かれ、氏子も社領もなく衰微していた。
明治に入り、宮内省管轄の彦五瀬命墓と、竈山神社は正式に区分され、近代社格制度のもとで明治14年(1881年)に村社に列格したが、
神武天皇の兄を祀るという由緒をもって社殿が整備され、明治18年(1885年)には官幣中社に、大正4年(1915年)にはついに官幣大社に進むという異例の昇格。
村社から官幣大社まで昇格したのは、「竈山神社」が唯一の例である。現在は神社本庁の別表神社となっている。

竈山神社
    

「神武天皇」大和朝廷の開祖一代天皇、
手足の長い土蜘蛛の賊を討った話、天皇の軍勢は、カツラでつくった網で捕えた、後の葛城氏で、「葛城」の地名が起こったと云う
神武天皇は、明治時代、橿原神宮に祭られている。

札所ー神仏霊場巡拝の道第8番(和歌山第8番)例祭ー10月13日

        一、二の大鳥居                           門楼
    

           社殿                                     献上樽酒
    

「和歌山・紀の川」
現在の紀の川は、ほぼ直線的に西流し、和歌山市の湊付近で海に注いでいる。しかし、昔からそこに河口があったわけではない。
紀の川の変遷をたどると、縄文前期頃(約5,000~6,000年前)の海面は現在より高かったため、和歌山平野の大半が浅海底となり、紀の川河口は和歌山市の岩橋山地の北側付近にあった。その後、和歌山平野は海面の低下・紀の川の沖積作用によって陸化していった。
  
古墳時代から平安時代の主流は、楠見付近から西へ土人川・和歌川の川筋を流れ、和歌浦へ注いでいた。11世紀ころ、紀の川は洪水時に主流を水軒川に変え、大浦へ注ぐようになった。その後、15世紀末の明応4年(1495)の地震・津波によって、紀の川は海岸の砂丘を突破し、ほぼ現在の流路の位置になった。

それから明治初期までの紀の川は、ほぼ自然の状態で網状に分流し、川幅はもっと狭く曲流していたが、その後の近代的な河川改修によって、河道は一本化・直線化・拡幅され、高い連続堤防が築かれて、自然の河川景観はみられなくなった。

このように和歌山平野は、紀の川が左右にまんべんなく流れ、洪水時に土砂を堆積させてできた低地であることがわかる。
「紀の川」は、和歌山の母なる川と呼ぶにふさわしい河川といえよう。

我が国のスタートは、ここ、「紀の川」から始まったと云える。
 

「松下幸之助」(1894~1989)
実業家、松下電器産業の創立者。
和歌山県和佐村に8人兄弟の末っ子、小学校を中退して大阪へと丁稚奉公に出る。
そこ時、子守りなどをしながら店を手伝うことで、商売人としての心得を修得し、自転車店やセメント工場に勤務、

これからは電気の時代であることを見抜き大阪電灯に入社。22歳の時には独立して、妻と義弟とで作った電球ソケットの販売を開始。
徐々に売れ始め、翌年には松下電気器具製作所を設立。
続けてランプやアイロンを商品化し、昭和5年には故障し難いラジオを開発。これが世間に広く認められ、一気に電器メーカーとしての地位を確立した。
その後も貿易、造船、飛行機などの関連会社を設立し、アメリカにも進出。
世界の「パナソニック」に成長する。

「南方熊楠」1867~1941)
植物学や細菌学に留まらず、天文学、民俗学、宗教学にも精通した学者。
和歌山城下橋丁で、金物商弥兵衛の次男。
小・中学校時代を和歌山で過ごし、上京後、共立学校を経て大学予備門(現・東京大学)に進学。
しかし、その能力の高さゆえに学問のレベルが合わず中退。その後、渡米し、シカゴで地衣類学者のカルキンスに師事して標本作成を学ぶ。
さらにキューバ、イギリスと渡り、大英博物館で嘱託となりながら、独学で菌類の研究を続ける、、、。
など多くの人物が。

   

奈良・和歌山の旅は終了します。長々有難うございました。

紀州 徳川家庭園 養翆園

2014-04-07 | 気まま旅

和歌浦の時を超える万葉集の歌、万葉集の中には和歌山を旅した歌が107首あり、和歌浦を始め万葉和歌に詠まれた地名が今に伝わっています。数ある県内の万葉ゆかりの地で、特に歌人や多くの旅人に景勝の地として、親しまれ、愛されてきた和歌浦。

国定文化財「名勝、養翠園・湊御殿」
養翠園は、文政元年(1818)から8年かけて、10代藩主徳川治宝が造営した西浜御殿の別邸で、 徳川中期の代表的な武家庭園ともいわれる
池泉回遊式庭園となっている。

数寄屋造りの養翠亭や表千家の茶室も風情があり、菖蒲の季節は特に彩りが鮮やか。

国指定名勝・元紀州徳川家庭園                 「養翆園」
    

「徳川 治宝」
紀伊国紀州藩主・紀州徳川家、父 徳川重倫、母 澄清院、養父 徳川治貞、兄弟ー彌之助、治宝、妻ー正室:種姫(将軍徳川家治養女、徳川宗武の娘)、-鍇姫(初め徳川虎千代、後に伊達斉宗正室)、喬姫、某、佶姫、 鶴樹院(徳川斉順正室)、鎗姫、富姫、万須姫
養子 徳川虎千代、徳川斉順

1771年、第8代藩主・徳川重倫の次男として生まれ、1775年に重倫が隠居すると、子である岩千代(治宝)はまだ幼少であったため、成長するまでの中継ぎとして、重倫の叔父(岩千代の大叔父)である松平頼淳改め徳川治貞が第9代藩主に、1777年には治貞の養嗣子という形をとって次の藩主になることを約束され、1782年には元服、治貞同様、将軍徳川家治の偏諱を賜って治宝(治寶)に改名し、
従四位下常陸介に叙任。1783年には、従三位に昇叙し、右近衛権中将に転任。
1789年、治貞が亡くなったのに伴って第10代目の藩主に就任した。

植え込み樹木と松を主に約33000m2大名庭園海水を取り入れている「汐入の池」珍しい。     
      

学問好きで知られた「治宝」は、紀州藩士の子弟の教育を義務化し、藩都和歌山城下には医学館を、江戸赤坂紀州藩邸には明教館を、松坂城下には学問所を開設するなどした。
これら藩校の蔵書は現在は紀州藩文庫に保管されている。
「治宝」の祖母清信院は、賀茂真淵の門人であり、本居宣長は、清信院の屋敷であった吹上御殿で講釈も行なっている。
国学者・本居宣長を召し出し、松坂城下に住まわせたことは有名である。

あやめ池・四季折々の花木         守護神・茶屋・廊下貴重な遺構      整備された遊歩道
    

嘉永5年(1852年)12月7日、逝去した。享年82(満81歳没)。

紀州藩主としての治世は34年6か月であり、この間の江戸参府13回、紀州帰国14回、紀州在国の通算は15年10か月であった。
更に隠居期間が28年6か月あり、この間の江戸参府と紀州帰国はなかったと云う。

55・5万石の大藩    大浦湾に通じてる船蔵、治宝公は船で出入、       良く保存された 「養翆亭」
    

NHK大河ドラマ「吉宗」は、ここが舞台に使われている。

治宝の家臣達、文政元年の武鑑家臣は、「家老」など、 安藤帯刀、水野飛騨守、三浦長門守、久野伊織、水野対馬守、村上伊予守、伊達但馬守、加納大隅守、水野太郎作、村松郷右衛門、金森孫右衛門、山本理左衛門、下条伊兵衛、山高庄右衛門、山中作右衛門、渡辺主水等の名が。

和歌山駅ー貴志駅「貴志川線」のおもちゃ電車、12駅の間乗って楽しい車両面白電車・三社参りは貴志川線
   

この狭日鹿の浦は、現在の和歌山市街の南部、天神山北方の西浜一帯から、雑賀崎にかけての海のことをさしている。
その雑賀崎から西、鼻のように突き出て見えるのが、文字通り「番所ノ鼻」。
藩政時代、黒船の見張り番所が置かれていたところ。予定したが回れず残念である。

奈良・和歌山市の旅も残す一つ、竈山神社で終了します。