syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

紀三井寺・十一面観世音菩薩

2014-04-05 | 気まま旅

「紀三井寺」駅のある市三葛の地名は、頭に頂く御かづらで、日前宮旧記万鏡神の故事によると、村民多く塩を焼き、その制最も上品と称せられとある。駅を出ると229mの「名草山」があり、「紀三井寺」「若草八幡宮」「高皇・中言神社」がある。

「名草 戸畔」( 伝 紀元前663年)は、日本書紀や和歌山市の伝承に登場する、神武東征と戦った人物である。
伝承によると女性、戸畔は、日本書紀での名で、地元では「名草姫」とも。一説に、名草戸畔とは特定の人物の名ではなく、「名草の長」という地位を表す言葉であるともいう。
名草邑(のちの名草郡あたり、現在の和歌山市名草山周辺)の統治者だった。
しかし、神武東征で進軍中だったイワレヒコ(のちの神武天皇)との戦いで戦死。
名草戸畔の死後は、代わって紀氏が紀伊を治めた。紀氏は、自らの系図で名草戸畔を遠縁に位置づけることで、正当性を主張したという。

「紀勢本線・きのくに線」和歌山駅ー宮前ー紀三井寺。
紀伊半島を海沿いに走る紀勢本線は和歌山~新宮間で「きのくに線」の愛称が使用されて、沿線には温泉・海水浴場などの観光地が多く、
夏休みは多くの観光客で賑わい、2004年には熊野三山へ通じる「熊野古道」が世界遺産に登録され、ますます観光客が多くなっている。
紀勢本線の始まりは、1891年(明治24年)に関西鉄道が亀山~津間を開業したのが始まりで、歴史はある。
「紀三井寺」駅から南東に600m、名草山の中腹に「救世観音総本山・紀三井寺」がある。

紀三井寺・西国観音霊場第二番札所「救世観音宗総本山、初めての参拝
  

本尊は、十一面観世音菩薩、770年、唐の僧「為光」の開山。西国三十三所の第二番札所。寺の周囲に吉祥水・陽柳水・清浄水の三つの井戸
があったため「三井寺」とよばれたが、近江の三井寺と区別するため「紀」を付けたと云う。
境内は、桜の名所で、3月下旬「桜祭り」が行われている。
本堂・多くの堂塔と和歌浦が一望でき、早の桜で知られている。

松尾芭蕉の「見上ぐれば 桜しまふて 紀三井寺」 句碑芭蕉像が      1240年昔の古寺「宝亀770年」
    

重要文化財ー鐘楼・多宝塔・木造先手観音立像・木造十一面観音立像2躯など多数。

御詠歌 ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も 近くなるらん

「楼門」国宝、室町時代1509年建立。三間一戸・入母屋造・本瓦葺き、桃山時代の様式を残している。

牡丹・蓮の彫刻、金剛力士像安置されている。         正式名「紀三井山金剛宝寺護国院」
    

西国三十三所は、京都 大阪・兵庫 滋賀・岐阜・ 和歌山・奈良

1 青岸渡寺(那智山寺)・ 2 金剛宝寺(紀三井寺)・ 3 粉河寺 ~ 33 華厳寺(谷汲山)。

十一面観音様は、厄除け・開運・良縁成就・子授け・商売繁盛、心願を叶えるとと云う。
    

寺に近い「和田川」は、紀の川水系和歌川支流の一級河川で、暴れ川、大水害があった。
和歌浦は、県北部、和歌山市の南西部に位置する景勝地の総称に、国 指定の名勝。
「和歌浦」は「わかうら」と読むために、地元住民は一帯を 指して「わかうら」と呼ぶことが多いと云う。
玉津島と片男波を結ぶ砂嘴と周辺一帯と紀三井寺から見る周辺は素晴らしい。

本堂は、江戸時代1759年建立・入母屋造り・本瓦葺き・九間四面総欅造り。(重文)
    

唐より到来し、諸国を周り、ここ名草山の麓で一宿、名草山頂上付近が白く光りを見た、為光上人が近づくと「千手観音様」であったと云う。
上人は、この地が、ご仏縁深き霊場と悟り、十一面観音様尊像を彫られたと云う。
山内から湧き出す霊泉清浄水・揚柳水・吉祥水から「紀三井寺」の名が、、、。

楼門(室町)・鐘楼(安土桃山)・多宝塔(室町)・開山堂・大師堂・六角堂・仏殿、、、。重要文化財の宝庫
    

「本堂」
江戸時代、1759年の建立。観音堂とも称す。
入母屋造本瓦葺き、柱間は正面側面とも五間で、千鳥破風を付し、正面には唐破風形・三間の向拝を設ける。
虹梁形の貫を用い、頭貫に木鼻を付し、台輪を乗せ、組物は三手先詰組とするなど、細部には禅宗様が用いられている。
秘仏本尊の十一面観音像、千手観音像などは、現在は裏手の大光明殿に移されている。

4月に「桜祭り」紀文吉宗祭りが第一日曜日に・9月に「彼岸会」・「開山忌」、、、多くの行事。
   

十一面観音立像 - 像高161.5cm。秘仏本尊。一木造、素地仕上げ。素朴な彫法の像で、平安時代、10世紀頃の作と推定される。

千手観音立像 - 像高183.0cm、平安時代、10 - 11世紀の作。本尊とともに安置される秘仏で、一木造、素地仕上げとする。
千手観音の彫像は42手をもって千手とみなすのが通例だが、本像は奈良・唐招提寺像などと同様、大手42本の他に多数の小手を表す「真数千手」像。

梵天・帝釈天立像 - 像高163.9及び161.2cm。平安時代、10 - 11世紀の作。本尊の両脇に安置され、「梵天・帝釈天」と称されているが、
条帛、天衣、裳を着けた像容は菩薩像のそれであり、本来観音菩薩像として造られた可能性が高い。
梵天像は彫法が素朴で、彩色はほとんど剥落し、頭上には円筒形の冠があるのに対し、帝釈天像は衣文の彫技が細かく、彩色がよく残るなど、両像の作風には明らかな相違があり、元来一具ではなかったとみられる。

十一面観音立像 - 像高156.7cm。平安時代、10 - 11世紀の作。一木造、彩色はほとんど剥落。大光明殿内の向かって右端に安置。
衣文の彫りが簡略で、素朴な作風の像。

境内が一望                      大浦湾が
    

年中行事は、 1月18日 - 初観音・ 4月第1土曜 - 文塚(迷子郵便)供養・ 4月18日 - 春会式・ 7月7日 - 七夕祇園まつり
       8月9日 - 千日詣・ 8月15日 - 灯篭供養・ 11月13日 - 開山忌・ 12月18日 - しまい観音。

総漆金箔寄木立像日本最大の観音像・新仏殿のご本尊大千手十一面観世音菩薩様(大仏師松本明慶作)へ。
    

和歌山の地酒・献上樽酒が一同に勢揃い            いくつも末社が
  

「多宝塔」/「鐘楼」国宝文化財    鐘楼は、安土桃山1588年建立、入母屋造、本瓦葺。

室町時代1449年建立、本瓦葺三間多宝塔で、下層四本柱の方形、上層十二本柱円形、室町時代の中期様式。五智如来を待っている。
  

仏殿は、 鉄筋コンクリート造3階建の新仏殿で、建物全体の形は五輪塔に擬している。
2000年に起工し、2002年に竣工。高さ25メートル。内部には高さ12メートルの木造千手観音立像(寺では「大千手十一面観世音菩薩像」と呼ぶ)を安置する。
この観音像は仏師松本明慶の工房の作品で、京都の工房で制作した寄木造の像を現地で組み上げたものである。
耐震性を考慮して、内部には鉄製の心棒を立て、枠木で像を固定している。寺では、寄木の立像としては日本一のものであるとしている。
像は2002年から制作を開始し、2007年に完成、2008年5月21日に入仏落慶供養が行われた。

仏殿ー木でつくられ、立ち上がったすがたの仏像は、我が国一番大きい観音像「大千手十一面観世音菩薩」。「京都の「松本明慶」の作品」

総漆金粉寄木立像日本最大の観音様。平成20年5月落慶法要が、 観音様に「参拝」出来た。
  

次回は、紀州第10代徳川治宝侯御用地「名勝・養翆園」へ。

大田黒田遺跡 日前神社

2014-04-03 | 気まま旅
和歌山の続きです。

「太田黒田遺跡」は、JR和歌山駅のすぐ東方、和歌山市太田から南黒田にかけて所在し、弥生時代から古墳時代、奈良・平安時代を経て、中・近世にまでおよぶ大規模な集落遺跡。
区画整理事業に先立ち、1968年から3次にわたる発掘調査を行い、特に東西400m、南北500mの規模の弥生時代前期からの集落が明らかとなった。
遺構には竪穴住居、溝、井戸-、土壙墓などがあり、出土遺物も土器、器をはじめ多種・多量におよんでいる。
なかでも石の舌をもった銅鐸は,平野の集落から出土した前例の少ないもので,銅鐸の使用と埋納場所の関係を知るうえで貴重である。

和歌山駅前      区画整理の為に発掘調査がされた   太田黒田遺跡
    

太田城は、延徳年間に、紀伊国造第64代紀俊連が、神領保護を目的として「秋月城」、「三葛城」、「太田城」を築城したと伝わる。
一説には延徳年間ではなく文明年間とも言われている。しかし、全国的に名を馳せたのは、
1576年、「太田左近」が修築もしくは築城した太田城に対して、1585年、天下統一をめざす羽柴秀吉が自ら軍を進めた「太田城水攻め」
である。

太田城は、現在の来迎寺 、玄通寺を中心に東西に二町半(約273m)、南北に二町(約218m)と言われているが、近年の発掘調査からはほぼ二町半の四方であった。
そこに周囲に深い堀をめぐらし、塁上は土壁とし、各所には高い櫓を設け、城門は大門、南大門、西北門があり、平城であるが当時の城としては強固な城造りであったと思われている。
その東に大門は和歌山市指定文化財として和歌山市橋向丁の大立寺に移築。太田城の戦いは備中高松城、武蔵忍城ととも日本三大水攻めのひとつに数えられる。
現在の「太田城周辺」は、開発によって住宅地となっていることもあり、その全貌を明らかにすることは困難。

駅前太田左近像が       太田城跡
    
  
太田黒田遺跡、弥生・古墳・奈良・平安・室町。 所在地は、和歌山市太田・黒田・北太田・南黒田・南太田 。
遺構概要 集落。市財団報13(弥生中期-水田/古墳+室町-溝+掘立柱建物)。
市事業団報14(弥生+奈良〜平安-大溝2+溝14+土坑5)。市報(弥生+古墳+室町-溝+土坑+ピット)。
集落-弥生-竪穴住居+井戸+溝+土坑〜中世〜近世-井戸+溝+土坑 歴博報56、集落-弥生-溝。
市事業団報28(弥生+古墳+奈良-溝+土坑+ピット)。
市事業団報31(古墳-土坑+溝+柱穴/江戸-粘土採掘坑)。古墳・貝塚・一里塚・廃寺など多数。

遺跡の説明板
  

「日前神宮・国懸神宮」

貴志川線日前宮駅下車目の前、秋月に鎮座。紀伊国一の宮で、二社とも同境内にある。
祭神は、日前大神と国懸大神で日前宮と呼ばれている古社、広大な神域に境内社が多数並んでいる。
現在社殿は、大正末期と云う。

貴志川線日前宮駅から神社はやく100m         秋月に鎮座
    

入口から向かって左に日前神宮、右に國懸神宮がある。
和歌山市内にある当社と竈山神社と伊太祁曽神社に参詣することを「三社参り」と云う。

紀伊国一の宮、             日前神宮と国懸神宮2社とも同一境内にある
  

神体の鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のもの。
八咫鏡は伊勢神宮で天照大神の神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ準皇祖神の扱いをうけていた。
日神(天照大神)に対する日前神という名称からも、特別な神であると考えられ、伊勢が大和への東の出口に対して、社は西の出口にあるため、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたといわれている。

日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前・國懸両神宮しかなかった。なお、日前大神が天照大神の別名とされることについては諸説がある。

長久・一統・羅生門の献上樽酒                  2社とも古社
  

日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前・國懸両神宮しかなかった。なお、日前大神が天照大神の別名とされることについては諸説がある。

摂社は、 天道根神社 - 祭神 天道根命・ 中言社 - 祭神 名草姫命・名草彦命
末社は、 松尾神社 - 祭神 大山咋神、中津島姫命(市杵島姫命)・ 深草神社 - 祭神 野槌神・ 市戎神社 - 祭神 蛭子神。

松尾神社はお酒の神                   拝殿
     

次回は、紀三井寺へ。