syuの日記・気まま旅

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河口湖灯籠流し

2014-08-22 | 富士山麓日記
富士河口湖灯籠流し8月16日

富士河口湖灯籠流しは、河口湖町大石地区に寺院をおく仏教教団真如苑が、昭和56年に河口湖で灯籠流しを開催したところにはじまり、毎年8月のお盆の時期には1000艘を超える灯籠が湖面に浮かべられ、地元では河口湖の夏を彩る恒例行事として知られています。

この灯籠流しは「富士河口湖灯籠流し」として河口湖灯籠流し実行委員会が主催するようになったのは平成19年。より多くの人々にこの伝統行事に参加していただき、祖先や亡き人を敬う美しい心が大切に受け継がれていくようにと願ってのことでした。

河口湖灯籠流しで流される灯籠は、ご先祖様や亡き人への大切な想いやお気持ちを、自由なメッセージにして書き込めるようになっています。ご自身の祈りや想いが込められた、世界で一つしかない灯籠が河口湖に浮かべられていくのです。また現在ではこの灯籠を、灯籠の申し込みをされた方ご自身で、直接、湖面に流せるようにもなっています
 

大勢の人々が始まりを待っています。



灯籠は自身でメッセージを書き込み流すのです。



平城京に近い美濃国分寺跡

2014-08-19 | 気まま旅

「国分寺」は、国家の泰平を願い天平13年・741年 聖武天皇の命により、全国68か所に建立。
「美濃国分寺」は、昭和43年から発掘調査を始め、伽藍全体が史跡公園として整備された。

聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、 当時の日本の各国に建立を命じた「国分寺」。
国分僧は、大和国の東大寺・ 法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置。


「絵画土器」が出土
東町田遺跡から発掘された絵画土器は、「歴史民俗資料館」で展示。
全国でもほとんど例を見ない、1個の土器に描かれた複数の図柄のほぼ全てが明らかになった。

    

「美濃国分寺」は、大垣市にある仏教寺院、
高野山真言宗の準別格本山、山号は「金銀山」・「瑠璃光院国分寺」本尊は薬師如来。
美濃国分寺は、江戸時代初期の再興。西美濃三十三霊場満願札所。

    

887年、火災で焼失。本尊などは運び出され、一時美濃国席田郡の「定額尼寺」に移転。
再び元の地に再建され、1004年、美濃国司源頼光により修復されたという記録が残る。
南北朝時代の1338年の「青野原の戦い」などの戦乱で焼失し、本尊も行方不明。

本尊薬師如来像は、江戸時代初期、真教上人が土中から見出したものと伝える。
1615年、旧美濃国分寺の北東に、金銀山瑠璃光院美濃国分寺として再興された。

  

「重要文化財・国指定ー木造薬師如来坐像は、
高さ304.8cm。寺伝に行基の作というが、実際には平安時代後期の作とみられる。
伝承によれば、ケヤキの大木を行基が自ら一刀三礼をし、彫り上げたという。
「馬だらい薬師」の別名があり、土中に埋没している際、背中のくぼみが土中から出ており、このくぼみに水を溜めて馬の足を洗うのに使用していたという話が伝わっている。



創建当時の伽藍の規模がわかるように整備され、奈良時代の国分寺の伽藍全体の状況が分かる。
美濃国分寺跡の出土品も多い。
美濃国分尼寺跡は美濃国分寺の西約1kmの不破郡垂井町平尾にある。
平成16年より5ヵ年計画で発掘調査が行なわれている。2007年に、建物の礎石などが発掘されていると云う。

「天平文化」は、7世紀終わり頃から8世紀の中頃までをいい、奈良の都平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化。
この文化を、聖武天皇のときの元号天平を取って天平文化と呼んでいる。
当時の皇族や貴族は、遣唐使によってもたらされた周(武周)の武則天や唐の玄宗の文化を積極的に取り入れた時代。
これによって花開いたのが、天平文化である。
なお、唐からの文化移入には特に大宰府の果たした役割が大きい。 一方、国衙・国分寺などに任命された国司(貴族)・官人や僧侶などによって地方にも新しい文物がもたらされた。

  

「垂井町」(垂井は、関ケ原まで一里)
濃尾平野の西端に位置し、大垣市や岐阜市のベッドタウン。
東海道新幹線、東海道本線、中山道、美濃路が通っている。
冬は積雪量が世界山岳気象観測史上1位(ギネス登録)とされ、「伊吹山」から「伊吹おろし」と呼ばれる風があり、福井県沿岸などの日本海側にも近いことから猛烈な吹雪が吹き下ろしてくる。
「関ヶ原の戦い」で毛利秀元などの武将の陣地となった南宮山は町の西南側に立つ。

山峠ー南宮山、岩手峠
河川ー相川、薬師川、大滝川、岩手川、梅谷川、大石川。

    

東海道新幹線が岐阜羽島駅 - 米原駅間で、「垂井駅」を通過している。

  

「青野原の戦い」
南北朝時代の1338年、美濃国青野原・現、岐阜県大垣市を含む地域において、上洛を目指す「北畠顕家」率いる南朝方の軍勢(北畠勢)と、土岐頼遠ら北朝方の軍勢(足利勢)との間で行われた一連の合戦。

    

青野原の敗報に接し、京都の足利尊氏は高師泰・佐々木道誉(京極道誉)・佐々木氏頼(六角氏頼)・細川頼春ら約5万の軍勢を差し向けた。
援軍は、近江国・美濃国の国境である黒地川(黒血川)に布陣し、背水の陣を構えたと言われる。

北畠勢は青野原の戦いに勝利したものの、長期の行軍と度重なる戦闘に疲弊したため、新手の足利勢と戦う力は無く、近江から京都への突破をあきらめ、北陸の新田義貞と合流する選択肢もあったが、北畠勢は伊勢国・伊賀国を経て吉野へ向かった。
伊勢方面に転進した理由としては、北畠氏が根拠地化しつつあった伊勢で力を立て直すためとも、新田義貞に功を立てさせるのをきらったためとも言われる。

  

中山道と美濃路の宿場町、「中山道・美濃路追分・垂井宿」
垂井宿は、中山道と美濃路の分岐点であり、古くから交通の要衝として栄えた。
文化年間に建てられた油屋宇吉家跡のほか、現在も宿泊ができる安永年間に建てられた旅籠・亀丸屋などの旧家が現在もその姿をとどめ、宿場町の趣を存分に感じることができる。



次回は、中山道・赤坂宿場町を。

大垣城・関ケ原合戦西軍本拠地

2014-08-17 | 気まま旅

「大垣城」
駅南約700mに「大垣城」がある。
関ケ原の戦い(1600年)で西軍「石田三成」の本拠地とした。東軍の攻撃で落城した。1635年以降は、戸田氏の居城で、国宝の天守閣と艮櫓が残っていたが、1945年・昭和20年戦災で消失、59年復元した。城跡・大垣公園・博物館などがある。

          芝一面の大垣公園          (公園面積30.200m2)


「戸田氏鉄公」は、治山治水を進め、開墾・山には植林・伐採を止めた。入封16年目の大洪水「慶安寅年の大水」洪水史上大被害だったと云う。
このような水害を守るため、美濃特有の堤塘に包まれた「輪中」が発達している。(輪中・村落の周囲を土手で囲った)

「公園」は、城郭内・本丸・二の丸跡に出来た。面積30.200m2・大垣城は、別名「巨鹿城」と呼ばれ木々の緑・桜で知られ、天守閣からの眺めも素晴らしい。天守閣は、4階が展望台で、地域の気象通報所の役目をしていると云う。赤「城から赤玉がでたぞ、台風がくるぞ」白旗は「晴天」水色が「曇」

 初代藩主戸田氏鉄の像          1535年宮川吉左衛門尉安定が築城と明応9年竹腰氏説もある


城は、1535年「宮川安定」が築城・「竹腰尚網説もある」で、水門川を外堀に利用した小さい城であったと云う。
その後、増築増築で、天守閣が 1595年「伊藤祐盛」が造営。1620年「松平・久松氏」4重4階ごめ様式優美な城で名高く、歴史上にも剰余な役割をしている。現在は、昭和34年完成している。
 
     大垣城天守閣        木曽川など永年水との戦いに明け暮れた


戸田大垣藩藩祖「戸田一西」公。
戸田一西公は 大垣藩の藩祖. 三河国・田原城主 戸田宗光の第六世で 徳川広忠・家康に仕えて戦に従い 勇名を馳せた,天正18年戦功により武蔵国鯨井城主となり 次いで近江国 大津城を経て 同国膳所城に転じた。 戸田氏鉄公は一西公の子で 膳所城主より尼が埼城主に移り、1635年・大垣十万石の城主となった。常葉明神の神号を受けている。

                戸田藩祖戸田一西公


「関ケ原の合戦」
1600年、石田三成ら豊臣方の西軍は、徳川家康を打つため美濃の国の入る。ときの大垣城主、「伊藤盛宗」は、豊臣家の家臣で、西軍に属していた。
三成は、大垣城に入城して西軍の本拠とし、南宮山にかけ諸将に陣を張らせた。
東軍の進出が早く、美濃の緒城を攻略して、大垣城西北の赤坂岡山を中心に布陣していた。西軍の動揺大。
「島左近」(勝猛)西軍は、1計を案じ東軍を誘い、南一色の地に配置し伏兵と呼応し笠縫・笠木で勝利を得た。これを「杭瀬川の戦い」。
西軍はここまでで、東軍徳川方の作戦におびき出され、大垣城に兵7500人残し、関ケ原に移動し、一大決戦となった。
最後に、ここ大垣城の攻防戦で、西軍よく戦っている。「7騎多門」・「おあむ物語」が伝わる。

寛永12年・1635年江戸幕府は、「戸田左門 氏鉄」10万で入城、明治元年、10代続く。氏鉄は1637年「島原の乱」に出兵。

                明治時代の大垣城


「戸田大垣藩誕生」
江戸時代1601年「石川康通」が5万石で城主に任命された。1635年「戸田氏鉄」が摂州尼崎より入封するまで35年間あるが、江戸幕府の人事異動が激しく、石川氏3代・松平2代・岡部2代、、変わっていたのは、大阪冬・夏の陣である。
戸田氏大垣藩は、235年太平の世を続けた。

                           城内
    

城門              一部石垣                      関ヶ原の戦い
    

「石田三成」 1560-1600 徳川軍と天下分け目の合戦を。
五奉行の一人、「佐和山城主」、正継の子として近江国で誕生している。幼名佐吉。豊臣秀吉に見出されて近侍し、豊臣政権の吏僚として活躍する。
秀吉没後に、家康打倒を画策、「関ヶ原の戦い」敗れて処刑された説と、処刑されず佐竹義宣に匿われて71才まで長生したとも云われている。

処刑に向かう途中で、三成は、喉の渇きを覚えて湯を求め、警固の士が、「これで我慢せよ」と干し柿を与えると、三成「これは痰の毒なり、食すまじ」
と返したと云う。警固達が「今から処刑される人間が毒忌するとは、、」笑ったと云う。
これに対し三成は、「大義を思う者は、首を斬られる瞬間まで命を大切にし、本意を遂げようとするものだ、、、」と返したと云う。

                           関ヶ原の戦い
  

「佐和山城跡」
彦根駅の北側、佐和山・232.5mにある城跡。
不破の関があった関ケ原に近く、交通の要衝でした。
近江守護佐々木氏によって築城され、1590年 石田三成が、佐和山城主となってから、5層の天守を構え、鳥居本を大手とする立派な城だったという。
三成が関ケ原の戦いで破れた後、徳川家老・井伊直政が新しい城主に、1606年、彦根城築城にともない廃城に。

                           関ヶ原の戦い
  

石田軍は、東軍の攻撃を防いだ、小西・宇喜多の敗走の後、三成は「伊吹山」に逃走した。天下分け目の戦いも東軍勝利で終わる。
西軍本隊が関ケ原へ移動後、大垣城は、三成の妹婿「福原長尭」らが 7500の兵で守り、関ヶ原の戦い後も戦っている。
この時、二の丸多門は、大垣の土沼波・松井氏等「七騎が防戦」その名が残り「七騎多門」と称した。
1600年9月15日午前8時火蓋が切られ、大垣城は、9月23日開城している。

1600年三成ら豊臣西軍は、徳川家康を討つため美濃に入る、時の大垣城主「伊藤盛宗(3万4千石)」は、豊臣家家臣               
    

1616年 2万石加増を受け摂津国尼崎に移封された「戸田氏鉄」が1635年 「大垣城」に移封、10万石を封与された。
氏鉄は、新田開発・治山治水事業と文教復興につくし、藩政の基礎を築いた。
戸田氏は、235年間、明治「版籍奉還」の世が続いた。

                             天守閣から
    

徳川軍の陣地
「桃配山」は、国道21号線を挟んで中山道の松並木のほぼ向かい、「桃配山」は二大戦の陣跡と言われている。
家康は関ケ原合戦早朝に、赤坂から桃配山に兵を移動し、桃配山の中腹に陣を敷き、この山は、関ケ原合戦以前の壬申の乱にて、勝者である
「大海人皇子」が野上行宮より出陣し陣を敷いたという言い伝えがある。
家康は縁起を担ぎこの場所に陣を置いたといわれている。

戸田氏鉄人物像                                     江戸時代の鉄砲
    

壬申の乱の時、大海人皇子に村人より山桃が献上され、大海人皇子は、その山桃が非常に美味であったので、兵士の士気を上げようと大量に購入。
その故事により「桃配山」と名づけられた。
山桃は今も桃配山で見ることができる。
 
                         城内
  

次回は、美濃国分寺へ。